北斗の拳デザインマンホール

 

 佐久市出身の有名人の中で、漫画原作者と云えばこの人『武論尊』

 

 本名『岡〇善行』さんは『野沢中学校』の大先輩です。(後輩には『和久〇映見』さんや『中〇美穂』さんも居るんデス)

 

 『自衛隊時代』に『漫画家・本宮ひろし』さんと出会い、原作者の道を歩き出します。

 

 子供の頃読んだ『ドーベルマン刑事』や『北斗の拳』(パチンコで知った)の原作者として、つとに有名です。

 

 『佐久市下水道局』とのコラボで実現した『北斗の拳・デザインマンホール』が佐久平駅周辺に施行され、大変好評だったので第二段。『佐久市中』に『北斗の拳デザインマンホール』をばら撒いちゃいました!

 

 

 先ずは『野沢商店街』 『ケンシロウ』の百裂拳。あたたたた~っ。

 

 『玉屋』から100mの所です。

 

 

 『龍岡城五稜郭・であいの館』は展示です。(地面に置かれていません)

 

 『リン』

 

 

 『臼田橋西詰交差点』から北へ100m程の歩道上。『トキ』

 

 

 『中込カメラ』さん前の遊歩道上。『ユリア』

 

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丸子城跡展望台

 

 『上丸子』の依田川西岸沿いに在る山脈は、『三才山峠』から流れて来る『内村川』と『星糞峠』から流れて来る『依田川』に挟まれて重要な戦略拠点になった場所です。

 

 城主は『真田家』 関ケ原に向かう途中の『徳川秀忠軍』の侵攻を足止めし、『天下分け目の合戦』に間に合わせなかった曰く付きの『丸子城』ですが、実戦が行われ、戦死者を慰霊する『忠魂碑』も建っています。

 

 規模から云えば『砦』なんでしょうけど『足軽居住地』や『空堀』、『貯め井戸』なども残されていて、『籠城戦』の準備もしていた事が伺えます。

 

 

 『二の丸跡展望台』 国道から山の稜線に見える『黒い二階建ての展望台』が此処です。

 

 

 『内村川』の流れを望む西側の展望(180度パノラマ)です。

 

 左手が上流。

 

 

 『依田川』を望む東側の展望(180度パノラマ)です。

 

 右手が上流。

 

 

 一部稜線は岩の剥き出た足場の悪い道を進みます。

 

 足腰弱って来るとこんな処で躓いたりしちゃうからご用心。

 

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丸子公園

 

 依田川の西岸に『丸子公園』が在ります。

 

 『安良居神社』に隣接して児童遊具の置かれた『チビッ子広場』が在り、此処から『丸子城跡展望台』に登る事が出来ます。

 

 

 この『丸子城』は『真田家』が治めており、『徳川軍』の『上田攻め』の際に実際籠城戦が行われました。勝敗はつかなかったのですが『神川の闘い』に続いて『徳川秀忠』をニ度も足止めし『天下分け目の関ヶ原合戦』に合流させなかったとして名が残されています。

 

 

 公園を抜け、この『きづな像』の裏手を登ると………。

 

 

 20分程で『東屋』に到着。眺めはイマイチなので二の丸展望台を目指します。

 

 

 山頂まではまだまだ在るのですが、この辺りに兵士は住んでいたとか。

 

 水などどうしたんだろう? 運び上げるしかない筈。

 

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丸子軽便鉄道

 

 『上田市・丸子』を走っていると『丸子駅前通り』と書かれた交差点が在ります。

 

 此れは『養蚕業』が盛んな頃、『大屋駅』と『丸子』間を『丸子軽便鉄道』が結び、『丸子駅』が在った名残です。(現在駅跡地はバスロータリーとして使っています)

 

 

 貨物車両兼客車を牽引する為の『電気機関車・ED251』が『丸子文化会館』の向かいに保管されています。

 

 横目でちらりと見て知ってはいましたが、ワザワザ停まって迄見る事は無かったです。

 

 

 開業当初は『蒸気機関車』が牽引していたのですが、僅か数年で電化され『ED251

型』が登場します。

 

 『丸子町』には『大手絹糸工場』が在り、周辺の『養蚕家』の育てた『蚕』から『絹糸』を造っていました。

 

 昔は『農業』と『養蚕』の兼業農家も多く、農家の二階部分では『蚕棚』を設え、餌となる『桑の葉』を与えていました。

 

 友達の家でも『養蚕』しており、遊びに行くと『桑の葉』を刈り取る手伝いをした事が在ります。

 

 『桑の樹』には『実(ドドメ)』が成るのですが、色素が強く、食べると口の中が『紫色』に染まります。此の紫色を『ドドメ色』と云います。白い服にでも着けると色が落ちないんで、親に叱られましたっけ。

 

 沢山の蚕が『桑の葉』を食べる音が、階下に居ても聞こえたそうです。

 

 その物流に大きな力を発揮した『軽便鉄道』ですが車社会の発達と共に衰退の一途を辿ります。

 

 『上田電鉄』は唯一現存する『別所線』以外にも『丸子線』『西丸子線』『青木線』『北東線』なども在りました。

 

 『別所線』は『別所温泉』&『北向き観音』などの観光要素が在ったからこそ存続できましたが、他の路線では維持費が捻出できなかった模様です。

 

 『草軽電鉄』の章でも書きましたが、現在なら『軽便鉄道』其の物が観光目的になる筈。 惜しいけど仕方ないか………

 

深山諏訪神社

 

 上田市・丸子・腰越の深山地区。(大字とか小字はどうなってるんだろう)

 

 国道142号線の『笠取峠下』から、国道152号線の『腰越』へ抜ける時に通る所なんですけどホント何も無い………

 

 『諏訪神社』を探して深山地区を派擦り廻ったのですが解らなくて一度は断念しました。後日グーグルマップで目星をつけて行ってみると。

 

 

 確か此処も探したんだけど、以前来た時は雑草が繁っていて看板すら見つけられなかった。ってか此処が参道?

 

 

 『害獣除けフェンス』を二つ抜けた先に『鳥居』が見えました。

 

 

 しかも鳥居と反対側に歩道橋が掛かっていました。

 

 表参道は此方かも。一の鳥居から参拝したいと思い、集落へ向かって歩き出しましたが行けども行けども山の中。こりゃさっきのが『一の鳥居』だろうなぁ。

 

 

 鳥居前にて一礼し、神域へ足を踏み入れます。

 

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らいてうの家 part2

 

 『平塚らいてう』の話をしてると、ボランティアさんがお茶を入れてくれました。

 

 身長150㎝に満たない華奢で小柄な女性ですけど、年上男性と不倫関係に在り、心中未遂事件を起こし週刊誌を賑わせます。

 

 

 『衛門架け』の丹前の小さい事!子供用かと思った。

 

 

 文机の上には何故か『香炉』が置かれていました。

 

 この机の上から『戦争反対』や『女性解放運動』を声高に叫んだのかもしれません。

 

 

 床の間の掛け軸に書かれていたのは『原始 女性は太陽だった』

 

 右のは?

 

 

 書庫には『青鞜』の初版本が在りました。

 

 パラパラと読み飛ばすと

 

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平塚らいてうの家

 

 『らいてう』=『雷鳥』ですから、『平塚市の林間学校』と思っていました。

 

 だって近くに『カトリック横浜教区山の家』とか『光塩学園山荘』とかも在るんですもん。(『あづまや高原ホテル』は廃業してしまいましたが)

 

 『平塚らいてう』は男尊女卑の時代、女性解放の先駈けとして雑誌『青鞜』を刊行した女性です。

 

 詳しくは検索して貰うとして。

 

 

 実に『五回目!』の訪問にして初めて入館出来ました。

 

 『ボランティアさん』が遠方から通って来る為、開館日は『GW~10月一杯の土日祭日』のみ。(冬期は雪深い山の仲の為、ホテル廃業の現在は除雪が儘ならないらしいです)

 

 

 入館料代わりの『協力金¥500』を払いまして館内へ。

 

 ボランティアのおばさん二人が『東御市』から当番制で通ってきているそうです。

 

 

 裕福な家庭に生まれ、教育熱心な環境で育ち、語学に堪能のみならず『禅』を通して精神修行を身に付けます。自由奔放な性格から不倫関係に在った人と心中事件を起こすも一命を取り留めています。又年下の男性と恋に落ち『若いツバメ』の語源もこの人の行動から出来た言葉です。雑誌『青鞜』を立ち上げ『女性解放』や『反戦運動』に奔走しました。

 

 

 五歳年下の『奥村博史』と結婚をせずとも同棲し出産。その『奥村博史』の作品も沢山展示しています。

 

 後半へ続く。

 

須坂市動物園part2

 

 動物園を訪れたのは実に30年振り? 子供が小さい時、一緒に行って以来ですから。

 

 『須坂市動物園』は私が幼少の時以来。実に五十数年振りでしょうか。

 

 始めて飲んだ『コカ・〇ーラ』の記憶と共に、サボテンを触って『棘』を刺した痛い思い出の『動物園』です。

 

 

 入浴タイムの『カピバラ』

 

 

 私のカメラはオートフォーカスの為、手前の柵にピントが合っちゃった。

 

 

 『シマフクロウ』も昼間は就寝タイム。

 

 お手軽料金の割には楽しめます。

 

 お近くをお通りの際は是非どうぞ。

 

須坂市動物園

 

 『臥龍山』と『竜ヶ池』の他にも『球技場』や『遊園地』更には『赤カンガルーのハッチ』で有名になった『須坂市動物園』も在る『臥龍公園』、元々は『豪族・須田氏』の治める『須田城』が在った場所です。『上杉景勝』配下に在った為、『景勝』の会津左遷の際に同行し、廃城となりました。

 

 ゆっくり『臥龍山』を巡っても一時間程、紅葉期、結構人が歩いていました。

 

 

 『須坂市動物園』は『ハッチ』で有名になりました。

 

 入園料大人¥200の財布に優しい動物園は市民憩いの場所です。(私は市民じゃないですけど)

 

 

 動物園に入って直ぐ、『SL D51』が置かれています。

 

 確かわたしが子供の頃には置かれていたような記憶が?

 

 

 良いなぁ。機械って感じ。

 

 

 ペイント塗り直しは仕方ないですけど、偶には埃を払いたいなぁ。

 

 現在『大井川鉄道』でもSLの運転席に乗車できるんですけど、ゆっくり眺めてる暇無かった。

 

 ゆっくり観たかったんですけど、次々と子供が来るので譲りますか。

 

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臥竜公園

 

 須坂市に在る『臥竜公園』では『菊花展』が開かれていました。

 

 駐車場はいっぱいでしたが、運良く丁度一台出庫する所だったので待たずに駐車出来ました。

 

 池を廻って『弁天橋』を渡ります。

 

 

 先ずは池を一周し、紅葉を愛でます。

 

 

 弁天島に在るのは『弁財天』

 

 

 『弁財天=弁天様』は『芸能・音楽』の神様のみならず、『銭洗い弁天』にも在る様に『金運』をもたらせてくれるとされています。

 

 

 先ずは参拝です。

 

 でもこのチェーン。なんかあったの?

 

スパイラル

 

 『長野冬季オリンピック』開催の際に、『ボブスレー&リュージュ』の滑走コース

に使われたのが『長野スパイラル』

 

 『スパイラル』とは『螺旋』とか『連続する曲りくねり』の事ですが、正に『ボブスレーコース』は曲がりくねりの連続です。『フィギアスケート』で片足だけでスラロームする事も『スパイラル』と云うらしいです。

 

 今回の『スパイラル』は『螺旋』の方です。

 

 

 『螺旋』と『筒』を組み合わせ、低位置に在る『水』を高い位置まで斜めに汲み上げる事が出来る為『灌漑用水』等に海外の未開地などで観られる設備ですが、これは逆。

 

 上流から流れ落ちる力で発電モーターを回す仕組みの『発電装置』をです。

 

 

 場所は『須坂市・米子不動里宮』の近くです。

 

 何故此の場所に『発電装置』が必要なのかは、背景の『害獣除け電気柵』に注目。

 

 この電線には、常時『6000~8000V』の電圧が掛かっているそうで、『猪・鹿除け』として効果が在るそうです。

 

 仕組みは一秒間にほんの一瞬しか電気が流れない為、触れた瞬間痛みを感じますが殺傷能力は無いそうです。

 

 当然人間が触っても電気ショックを受けますので心臓の弱い人は近づかない方が良いかも。

 

 冬場の『静電気ショック』程度の痛み位かな。

 

 この仕組みを見たのは初めてです。

 

 この少し上流には

 

 

 見づらいですけど『横向き水車』で発電している『電機柵』も在りました。

 

 

 水の流れを『ダクト』で『水車ランナー』に強制してぶつける事で発電量は二倍になるそうです。

 

 一番下。『信州大学工学部環境機能工学科………!』

 

 大学の先生推奨の実験機構だったんですね。

 

 『農業用水』とか『自然水利』とかは縦割り行政の管轄が在り、個人で勝手に水利を利用しては成らない筈。

 

 だって『水力発電』とかが許可されれば、個人で河川に『発電機用水車』を設置できちゃう。

 

 お役人が株主になってる『〇〇電力会社』とかとかが困っちゃうからおいそれと許可が出ないんでしょうけど。

 

 『太陽光発電』も個人で自宅屋根とかに設置する分には良いけど、山林を切り開いて『メガソーラー』を開発すれば、大雨の時などに被害が発生してしまう。

 

 『スパイラル発電』は水量の少ない時でも確実にシャフトを廻す為に考案されたのかな。

 

 一番嫌な『スパイラル』は『デフレスパイラル』

 

 政治家さん。私腹ばかり肥やしてないでさ。『頭』回転させようよ。

 

 

駒形岩

 

 『依田窪病院付近』から『腰越』方面へ『依田川』沿いにショートカットする道が在ります。

 

 一部道が細く、地元優先の道路ですので普段はあまり走らないのですが『駒形岩』を観たいなと。

 

 

 ゴミ回収ステーションの脇に車を停めるスペースが在り、説明看板が立っています。

 

 

 かつて『チョウゲンポウ』が営巣していたとか。昨今佐久周辺ではとんと見かけなくなりました。

 

 

 う~ん確かに『駒』に観えなくは無いけど………。

 

 自然が創り出したのなら、確かに馬の形に観えます。

 

 もっと観光に力を入れればいいのにね。

 

もみじ橋

 

 私にとって『紅葉』を観るなら此処!って場所が幾つかあります。

 

 『若葉繁れる頃』ならあそこ。とか、『桜』を愛でるならあの場所。なんかも在りますけど。

 

 

 『もみじ橋』は『上田市武石』に在ります。

 

 『武石(たけし)』の名前の由来は『鉱物の武石(ぶせき………紛らわしいから以降ひらがな)』から来ています。

 

 金色に輝く立方体の美しい『ぶせき』は現在中々見つけるのが難しいそうですけどナイショの公園で見つけた事あります。

 

 『長和町周辺』では『黒曜石採取』も厳禁ですが、この『武石川河川敷』でも見つける事が出来ます。

 

 

 『花の命は短くて 苦しき事のみ多かりき』では在りませんが、この場所で一番美しい時の紅葉を観た事は在りません。(他所に行ってるからかな)

 

 今回もチョット早すぎたかも。

 

 

 『イロハモミジ』は緑から深紅、茶色と色々なグラデーションが観れるので好きです。

 

 ちなみに単に『もみじ』と云う種類はありません。

 

 『ムクロジ科・カエデ属』の総称で、切れ目の深い葉っぱの『イロハモミジ』『オオモミジ』などと、切れ目の浅い『カエルの手』の形の『カエデ』に大分されます。

 

 『カナダ国旗』に描かれるのは『砂糖カエデ』の葉っぱで、樹液から『メープルシロップ』が造られます。

 

 

 『もみじ橋』の周囲には『小さな滝』のもあるんですけど分かるかな?

 

 夏。子供が水遊び出来る程の清流です。

 

 今年の秋は気候の変化が激しく、今日11月6日で、外気温が23度!

 

 ニュースでは『ひまわり』が満開ですと。………変な秋。

 

Four in one

 

 『One for all, All for one』はラグビーですが『For in one』はバイク好きしか知らないかも。

 

 『ホンダ・ドリーム CB400FOUR』は1974年に登場したバイクで、当時『自動二輪免許(限定解除)』と『中型限定免許(400cc以下)』と『小型限定免許(125cc以下限定)』に『二輪免許証』が分類され、特に『限定解除免許』は収得困難な免許でした。

 

 メーカーHONDAが発表した『CB400FOUR』はエキゾーストパイプの取り回しが大変美しいバイクです。

 

 コーナーでエキパイが目立つほどバイクを傾け、コーナーを駆け抜けていくシーンに憧れました。

 

 発売当初は『408cc』の排気量で、限定解除所有者しか乗れなかったのも憧れのひとつです。

 

 後年、中型免許でも乗れる『398cc使用』が販売されましたが違いは『タンク・サイドカバーの色』と『タンデムステップの位置』だけ。

 

 中には『408偽装バイク』に乗っていた『中型免許』も居ましたっけ。

 

 私が中型自動二輪を(学校に内緒で)収得したのは高校二年の時。

 

 当時は『暴走族対策』で免許習得が難しかった時代です。『原付バイク』以外は収得許可が下りず、学校に内緒で試験場に通いました。(バレたら退学も在りの時代)

 

 

 国道152号線を走っていて『Oh~⁉』 慌ててUターンしました。

 

 マフラーこそ『ヨシムラ』に変更されていますけど『Four in one』

 

 しかも『リア・ドラムブレーキ』 タンデムパートナーがスイングアームボルトオンの『408!』 生きていたのかい。逢いたかったぜ。

 

 近年になって『CB400 SuperFour』として再版されましたけど、やっぱりオリジナルにはかなわない。

 

 何時もは日除けの為に閉めているシャッターの奥には………

 

 

 解る人にはこの一枚で充分。

 

 お宝の山です。

 

 このお店『土屋輪業』さん。大好きなメーカーは『Kawasaki』と豪語するだけあって『MachⅡ』から『Z1000』さらには『ZⅡ』などのバイクがズラリ。

 

 偶々お客さんから預かった『HONNDA・CB400four』のレストアが済んだので、引き取りに来る時間に合わせて店頭に出した処でした。

 

 話の分かる若いオーナーさんのレストア技術はピカイチで、バイク雑誌などにも良く取り上げられています。

 

 ずっと話していたかったけど、客でも無い見学者の為に手を煩わせるのも気が引けますので早々に退散です。

 

 『Kawasaki』の旧車好きは是非ともどうぞ。

 

 私は『オフロード派』ですが、昔のバイクはどれもこれも個性が在って好きです。

 

 バイクの事か居ていたら走って来たくなっちゃった。仕事ヤメヤメ。

 

佐口湖

 

 佐久穂町・西部に在る『佐口湖』は知名度が低い為、訪れる人も少ない貯水池です。

 

 水鳥の集まる『佐口湖』は、『鷽の口分水』から清流の流れ込む小さな池ですが、周囲が紅葉に染まる頃、その水面が美しい色に染まります。

 

 隣接して『のらくら農園』や『森の時間』と云う『貸きりコテージ』も在るみたいです。(このコテージ、何故か多数の県外ナンバーが集まったりする不思議な空間。まさかヤバイ集まりじゃ無いとは思いますが………)

 

 

 まだ紅葉にはちょっと早すぎたみたい。

 

 『東山魁夷』さんが、この池で写生したなら一躍有名観光地になっていたでしょうけど。

 

 

 冬になり農業用水の需要が無くなると水を抜きますので、この光景は初冬までです。

 

 ゆっくりしたい時は『Coleman・peak1』でお湯を沸かし、コーヒーを淹れたりするんですけど、今回は何も持ってこなかった。

 

 下ると『北やつハム』の工場兼売店が在ります。

 

 チョット贅沢だけどつまみ用に『生ハム』でも買って行こうかな。

 

八岳の滝

 

 国道141号線の『松原湖入り口』と国道299号線通称『メルヘン街道』を結ぶ、県道480号線が好きです。

 

 『松原湖』~『八峰の湯』~『シャトレーゼ高原リゾート・星空の湯』~『レストハウスふるさと』と楽しさ満載。

 

 途中で『稲子の湯』『本沢温泉入り口』方面に曲がると『八岳の滝』が在ります。

 

 道路拡幅部に車を停め、整備された散策道を歩く事5分で『八岳の滝』です。

 

 

 歩き易い平坦な散策道ですが、一部水路が崩れ、水が通路に流れ込んでるでる場所が在ります。靴には防水スプレーを掛けておくと安心です。

 

 冬期、水が凍結、融解、凍結と繰り返す為し、ツルツルになりますので靴用滑り止めが必要です。

 

 車は当然『スタッドレスタイヤ』と万が一の為に『チェーン』『折りたたみスコップ』を積んでます。(今まで自分の為にスコップを使ったことは在りませんが)

 

 この『八岳の滝』は、陽当りが午前中の一部しか無いので『虹』と『八岳の滝』を撮るなら朝がお勧めです。

 

 

 『レストハウスふるさと』からは『佐久平』越に、遠く『浅間連山』が望めます。

 

 『カラマツ』が色着き始めると『秋本番』

 

  カラマツの林を過ぎて カラマツをしみじみと見き

  カラマツは寂しかりけり 旅ゆくは寂しかりけり

 

  カラマツの林を出でて カラマツの林に入りぬ 

  カラマツの林に入りて また細く道は続けり

 

  カラマツの林の奥も 我が通る道はありけり

  霧雨の掛かる道なり 山風の通う道なり

 

  カラマツの林の道は 我のみか人も通いぬ

  細々と通う道なり  寂々と急ぐ道なり

 

 北原白秋の『からまつ』ですがこの詩の意味が解かる様になったら………歳かな。

 

 因みに4番の 『寂々(さびさび)』をず~っと『寒々(さむざむ)』と思い込んでいました。

 

 針葉樹で在りながら落葉し、道路に溜まっていると『滑る!』からライダーは要注意です。(イチョウの葉っぱが一番滑る)

 

もみじの滝

 

 国道299号線、通称『メルヘン街道』を西走すると、『八千穂高原自然園』の看板が目に入ります。『トリデロック遺跡』訪問の際にも此方の駐車場を利用させて頂きました。

 

 『国道141号線・佐久穂IC』から『麦草峠』を越えて『奥蓼科』に至るまでに『コンビニ・ガソリンスタンド』などは無く、飲料自販機・食事の出来る数少ない場所のひとつです。

 

 街道沿いに『食事』『そば』『うどん』などの幟に混じって『もみじの滝』の幟も在りました。

 

 受付で大人¥300の入場料を払い、管理された『自然園』の中へ。(昔はタダだった様な気がするんですけど?)

 

 

 手入れの行き届いた散策道を歩きます。

 

 『自然園』とはいえ『樹木』には『ネームプレート』と簡単な説明書きが添えられています。

 

 この『八千穂高原自然園』には『所要時間』や『体力』に併せて三つのコースが在ります。

 

 二つの滝のみを廻る『白コース』(所要30分)、滝に『遊亀湖』迄を含めた『青コース』(所要50分)、更に『熊穴』や『九輪草群生地』を巡る『青コース』(所要90分)

 

 時間や体力に合わせてお好みのコースをどうぞ。

 

 

 『飛竜の滝』です。『滝』には『〇〇の滝』などの名称が付いている場合が多いですが、イマイチ『飛竜』を感じないのは気のせい?

 

 因みに『滝』と『瀧(旧字体)』が在りますが意味は同じ、落差のある水の流れです。

 

 『滝』は常用漢字、『瀧』は固有名詞(名前や地名)に使われる場合のみ使われます。

 

 

 『もみじの滝』 一日中日陰に在り大分『もみじ』が散ってしまいましたが。

 

 実は単に『もみじ』と云う植物は無く、『イロハモミジ』と『オオモミジ』『ヤマモミジ』の事を指します。

 

 しかも種類的には『カエデ』の仲間で、『切り込みの深い葉っぱ』を『モミジ』、つながっている様に見えるのを『カエデ』と云います。

 

 『カエデ』とは『カエルの手』から来ている言葉だそうです。

 

 通常、真っ赤な『紅葉』が観られるのは『湖水・河川』などの水辺の傍で、湿度が関係してきます。

 

 『滝』の傍には『イロハモミジ』の深紅が似合いますね。

 

稲子の湯

 

 『八ヶ岳連山』の『稲子岳』麓にある一軒の温泉宿です。

 

 私が免許取りたての頃、アプローチは道の悪い林道しか在りませんでしたが、現在は全線完全舗装で、夏季はバスの巡回便も在ります。

 

 元々が登山者の為の『山小屋』ですが、『立ち寄り入浴』が可能、且つ『小海駅行き』のバス停が在る為、下山ルートに利用する人も多いです。

 

 只残念ながら、私は泊った事ありません。だって家から車で1時間半ですもん。

 

 

 此方をベースに一泊して『八ヶ岳』に入る方も多いらしく、県外ナンバーの車が数台停まっていました。今頃は『オーレン小屋』にでも辿り着いたかな。

 

 近頃の『山小屋』は風呂が在るのは当たり前。トイレ処理に『バイオ式』を使っていますので大量の水が必要です。

 

 

 玄関で靴を脱ごうとすると、沢山の登山靴が並んでいました。

 

 脇のロビーではバスの到着を待つ人が10人程くつろいでいました。

 

 ひょっとしてお風呂混んでるのかな?と思いながら受付で入浴料¥650を支払いまして。

 

 温泉には誰一人いなくて独り占めです。

 

 流石に風呂場にカメラを持ち込めませんので………

 

 湯舟には熱めの温泉が『かけ流し』の状態で流れ落ち、冷たい水で温度調整する仕組みです。(水を出しっぱなしにすると直ぐぬるくなっちゃうから注意)

 

 小一時間程浸かったり休んだりしていましたが、他に誰も来ません。

 

 ゆっくりし過ぎてのぼせちゃいそう。

 

 

 駐車場からは『みどり池』への登山道が伸びています。

 

 これからの季節。紅葉が美しいんだよなぁと思いながら車に乗り込みました。

 

  『秋の夜の 鶴瓶落とし』 あっという間に暗くなります。

 

 此れから山道に入ろうなんて考えちゃダメ。

 

 

小串鉱山

 

 活火山である『浅間山』~『白根山』の北西に掛けて、昭和初期まで『硫黄鉱山』が幾つか在りました。

 

 『硫黄』の採掘目的は『火薬材料』です。『マッチ』の需要もそうですが、一番使われたのは『弾薬』 そう『戦争』の為です。

 

 先日、母のアルバムを見ていたら、若かりし頃の母が暮らした『小串鉱山』の写真が出てきました。

 

 須坂市に出生した母は、戦争で父を亡くし、一家揃って『鉱山会社』の労働者募集に応じて『小串』に移り住んだそうです。

 

 当時の『小串』は大勢の鉱夫とその家族が暮らす『街』が形成され、『分校』『診療所』『食堂』『銭湯』や『映画館兼芝居小屋』なども在ったそうです。

 

 母は其処の『床屋』で働いていたと聞いた事が在ります。

 

 私が子供の頃、母が髪の毛を切ってくれました。『手動式バリカン』で丸坊主にされながら、「何でバリカンが家にあるの?」と尋ねた時、『小串』の話をしてくれました。

 

 

 誰が撮ったのかも記されていませんでしたが、噴煙を上げる『浅間山』の位置から考えると『小串岳』から『小串の街』を見下ろしているようです。

 

 『鉱口』から延びる『トロッコ』の線路が、『策動』への積み替え処迄伸びているのが観えます。

 

 『策動』で『毛無峠』迄運び上げ、トラックに乗せ換えて『高山村』~『須坂』~『北長野貨物基地』で貨車に積み替えたそうです。

 

 この『トラック』に載せてもらって『須坂』に出るのが何よりの楽しみだったとか。

 

 其処で『親父』と出逢ってゆくゆく私が生れるんですけど。

 

 当時は『バス』の代わりに『乗合馬車』が『須坂』と『小串』を結んでいたそうで、片道3時間掛けてデートしてたそうですけど、今なら飛行機で『台湾』辺りまで行けちゃう。

 

 

 この街は今はもう存在しません。

 

 鉱山の閉鎖に伴い『全ての建物』や『坑道口』を爆破解体したそうです。

 

 犯罪者の隠れ場所に成ったり、鉱山を掘り返したりできない様にする為の処置だったそうです。

 

 その後『四駆愛好者』の格好の舞台になってしまい道路も閉鎖。『毛無峠』から片道1時間45分掛けて登山道を歩くのが唯一の交通手段です。

 

 現在確認できるのは『通風孔』の『セメントドーム』と『策動』跡の『鉄塔』『お地蔵様』だけです。

 

 今まで何度か訪れていますけど、『毛無峠』から『小串』まで下った事は在りません。

 

 足腰丈夫なうちに行ってきますか。

 

俺の名を言ってみろ

 

 パチンコ・パチスロの題材として人気の高い『北斗の拳』

 

 「199X年 世界は核の炎に包まれた」で始まるオープニングはショッキングでしたけど、『北斗の拳』の原作者『武論尊』さんは佐久市の出身、私の中学の先輩にあたります。(後輩には『和久井〇見』さんや『中山〇穂』さんも!)

 

 原作を元に絵を描いたのが『原哲夫』さん。著作権は『武論尊』さんに在るらしいです。

 

 『北斗の拳』は『一子相伝』(総伝?)の『暗殺拳法』 「アたたたた~」の『北斗百裂拳』で悪者を次々」と倒して世直ししていくストーリーです。詳しくは『北斗の拳』のコミック参照です。

 

 『佐久市』と『武論尊』の結びつきは強く、町おこしの一環として、『漫画塾』や『佐久市所有熱気球』に『北斗の拳』が描かれています。

 

 下水道局がマンホールの蓋に『北斗の拳』をあしらい、『マンホール・カード』を製作すると、フリマサイトで高値で販売する不逞の輩が出る始末。

 

 更には『佐久平駅周辺』のマンホールに『北斗の拳・主要キャラクター』が描かれ、設置場所が『北斗七星』になる様に配置されていたりします。

 

 此れに気を良くして第二段。佐久市全域を使い、大きな『北斗七星』を造ろうとしています。近日公開予定。

 

 

 原作者の『武論尊』さんが一番愛してやまない『北斗の拳・登場人物』が『ジャギ』だそうです。

 

 卑怯卑劣な手段で相手を攻撃する嫌われ者ですが、『主人公ケンシロウ』の兄にあたります。

 

 佐久市内の鉄鋼メーカーさんが御厚意で製造寄付した『ジャギ』が『佐久平新幹線駅構改札内』に設置されています。えっ『入場券¥150』必要じゃん。

 

 広い駅構内。他に設置場所無かったの?

 

 偶にご当地物のオブジェが、心無い何者かによって破壊されるニュースが報道されますけど、防犯上致し方無いのかな。

 

 

全芳院

 

 続きまして『竜頭山・龍福寺』さんの『御札・御朱印』を領布してくれる『全芳院』さん。

 

 『曹洞宗・嶺南山・全芳院』 昔『丸子城』の置かれていた『城山』の南山裾に在るからでしょうか、山号は『嶺南山』としています。

 

 東御市・祢津に在る『臨川山・定津院』の末寺とされています。

 

 そもそも『山号』とは、呼んで字のごとく『山』の名前です。古来中国では相当数の寺が在り、同じ寺の名前も多数存在しました。そこで本家本元『総本山』の在った山の名前を前置きしたり、修行の場の在った山の名前を付けたりしました。

 

 遣唐使が中国から仏教を持ち帰ると、『天台宗(最澄)』と『真言宗(空海)』が広がります。更に後『天台宗』の『比叡山延暦寺』で修行した僧侶が自己解釈の末独立し『鎌倉仏教』と呼ばれる『宗派』を開くと、各々が『総本山』を名乗るようになります。

 

 『院号』の付いているお寺は、『菩提寺』として奉られている人が、『貴族階級』出身であった場合などに多く見られます。

 

 お寺を取り囲む『白塀』が在るお寺の中でも、白壁に線が入っているお寺は格式が上とされます。

 

 更には誰が建設しようとしたか? 時の『国家権力者』(天皇or将軍)の一声で決まったのか、各大名が領地に建設したか。

 

 又、信仰する宗教の場を身近に置いておきたいが為に、『勧進』したり『末寺』として迎えたりと、実に様々なパターンが存在します。

 

 『全芳院』さんの場合、『東御市・祢津』に在った『禅寺の定津院』の末寺とし、開創は天文22年(1553)、開山は『定津院第七世年室宗長大和尚(後に兵庫県永澤寺輪住、謚号大圓禅師)』、開基は丸子城主丸子三右衛門の父、『武田信玄の武将・依田肥前守』となっています。(開山は寺院の創始者、開基は寺院や宗派を創立する事)

 

 

 上の案内文を読んでいたら一番終わりの方に『大工棟梁・佐久郡野沢村の小泉彦七吉信』と明記されています。

 

 残念ながら扉は施錠されていて御本尊は拝めませんでした。

 

 世知辛い世の中ですのでご用心ご用心。

 

 

 

 暑い日差しを避ける様に並んでいた『六地蔵様』はカンカン帽を被っていました。

 

 オッシャレ~。

 

長光寺part2

 

 日本に在る宗教の中で、人の名前が付いている宗派は『日蓮宗』だけだそうです。

 

 『長光寺』さんは『日蓮宗』のお寺ですので、『経文』の事を『お題目』、『御朱印』の事を『御首題』と云うみたいです。

 

 足音の主はご住職で、本堂の片隅に『御首題』を書く(画く)為の机が設えて在り、時には長い時間をこの前で過ごすそうです。

 

 

 日蓮宗の総本山『身延・久遠寺』も何度か行った事あります。

 

 本堂の仲は黒を基調とした重厚感のある空間で、其処に座っているだけで何となく心が穏やかに成って行くのを感じました。

 

 ついでに云うなら『膝』が悪い為、『正座』が出来ず、『楽座or胡坐』でしか座れませんが、一切咎められた事は在りません。

 

 『曹洞宗・永平寺』で『禅』を体験した時でも「無理に足を組む必要は在りません。膝が悪いのでしたら椅子に座ってする事も修行です」と『目からウロコ!(キリストの言葉らしいです)』の衝撃でした。

 

 

 見事な『螺鈿細工』は先代ご住職が中国(インドだったかな)で手に入れて来たもの。

 

 

 何故に『キツネの剥製?』 住職の説明によれば本堂完成の直前に、歴代上人の墓の前で一匹の狐が迷い込んできたまま亡くなっていたそうです。外傷なども無くキツネも『即身仏』に成りたかったのであろうと『明玉霊神』と名前を付けて祀りました。

 

 『御首題』に『キツネ』が描かれているのはその為だそうです。

 

 

 『判子』を使うにしても、主要部分は全てご住職の手による『筆書き』

 

 精神集中が必要な作業の為、量産出来ず、予約を頂いて現在数日間待ちの状況だそうです。

 

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長光寺

 

 国道152号線の『腰越橋』の辺りから南の高台を観ると赤い柱が印象的な『御堂』が建っています。

 

 前々から気にはなっていたんですけど、どうやって行くのかな?

 

 『腰越ふしぎ発見探検ガイドブック』を見て納得。幹線道路からもう一本裏道に入らないといけなかったのね。

 

 

 入り口が解りづらかったけど、道路脇に駐車場も備え、山門も在ります。

 

 

 門前の掲示板には『今月のお言葉』みたいな筆書きが張り出されていることが多いですけど、『限定御首題』って何だ?

 

 トレードマークが『キツネ』って何んだろ? しかも絵が上手。

 

 

 『明玉山』と書かれた山門の両柱に『仁王様』が祀られていました。こういうパターンも在りなのね。

 

 更に門に掲げられた扁額には『妙寿門』と在ります。

 

 この門を潜ると『妙なる寿を授かる』のかな。

 

 

 社務所の花窓には『井桁に橘』の日蓮宗の紋が刻まれています。

 

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竜頭山・龍洞山・龍尾山

 

 深山地区には昔大きな『柳の樹』が在り、其処を棲みかに一匹の『龍』が棲んでいたそうです。村人を苦しめる悪い龍だったそうで、ある日『高僧』が村を訪れた際、龍を『柳の樹』に封じ込めたまま、この樹を切り倒してしまいました。其の『柳の樹』から三体の『観音様』を彫り三ヶ所のお寺『竜頭山・龍福寺』『龍洞山・宝蔵寺』『尾野山・平等寺※廃寺』に分けられ安置されました。

 

 これが『一龍三体(いちりゅうさんたい)伝説』です。『一柳(いちりゅう)三体』だったかな?

 

 柳の樹を切った場所は今でも地名に『柳切』として残っています。

 

 『龍洞山・宝蔵寺』は『依田城』の麓に在る『岩谷堂』や『曼殊沙華』の有名なお寺で、『源(木曽)義仲』が挙兵の際、必勝を祈願して植えた桜『義仲桜』が有名です。

 

 『尾野山・平等寺(へいとじ)』は現在の『上田市・須川湖』の南東に位置する山の仲に『廃寺跡』として地図に残されています。私が訪れた時は『小牧山』の急峻な崖の下に『畑」が広がっており、柱を支えたであろう『基礎石』などの痕跡を見つける事が出来ませんでした。

 

 この現在廃寺の『平等寺』にも謂れが残されていました。『真言宗上田海善寺末寺』として『尾野山・平等寺』が建てられましたが、正保2年(1645)『僧侶・俊海』により現在の『龍尾山・龍泉寺』の場所に移籍し『光明寺』と名を改めました。更に後に『秀慶』が万治元年(1658)に名を『龍尾山・龍泉寺』と改めたと記録に残されているそうです。

 そうか『山寺』と呼ばれていた『尾野山・平等寺』は移築されて『龍尾山・龍泉寺』の事だったのか。ならば『観音像』も受け継いでいる筈。

 

 『丸子・信州国際音楽村』の西に広がる『尾野山地区』 もう一度行ってみる価値在りそうです。

 

 

 『竜頭山・龍福寺』の裏山には墓所が在り、頻繁に墓参りに人が訪れているみたいです。でも『水』はと思っていると、山服に井戸が掘られていました。

 

 お墓参りに便利ですね。

 

 折角高台にまで登ったのだからと周囲を見廻すと

 

 

 朱塗りの鳥居が並ぶ『稲荷神社』が在りが建っていました。

 

 

 『稲荷神社』は『五穀豊穣・商売繁盛』の神様ですので先ずは参拝です。

 

 『神仏混載』で『神道・稲荷神』と『仏教神・ウケノミタマノカミ』を同一視する考えが生まれた結果『神社』にも『寺院』にも『稲荷神社』が存在します。

 

 『神道の神』は『仏陀』の生まれ変わりとする『本地垂迹』の考えが在るんですから何でも在りなんですけど………ネ。

 

龍頭山・龍福寺

 

 『岡森・諏訪神社』で参拝を終えた後、次は………。

 

 『歴史探訪 腰越 ふしぎ発見探検ガイドブック』を再び手に取りまして確認すると『遺跡』が発見されたのか『土器』の絵が描かれています。

 

 暫く歩き廻ったのですがそれらしき場所は発見できず。

 

 ならばと次に向かった先が

 

 

 『天台宗・龍頭山・龍福寺』 『鳥羽堂観音』とも呼ばれている住職不住のお寺です。

 

 以前『鳥羽城』の置かれていた『鳥羽山』の中腹に在ったそうですが、現在の場所に移築されました。

 

 『鳥羽山』には『依田川』沿いに幾つもの洞窟が在り、『鳥葬』の跡が見られたそうです。

 

 でも道が無いから、対岸からズームして覗いただけですが。

 

 写真を観ても解かる様に『動物侵入除けフェンス』が張られています。

 

 って事は………鹿で在ります様に。

 

 

 『フェンスのゲート』から先、急になる坂道を登って行くと、高台に立派な建築物が見えて来ました。

 

 いつも思うんですけど、重機が資材運搬する前の時代、これらの『建設資材』を運び上げたのは『人力?』(+牛馬でしょうけど)

 

 電線も引き込まれていますので、住職さんの生活が在ったのかも知れませんが、現在は不在みたいです。(通いの和尚さんは当然いるでしょう)

 

 

 『伐り剝積み』の石垣を見ると時代的には新しいのかな。

 

 赤い『奉納幟』が並んでいますけど、破れているものもチラホラ。

 

 

  先ずは参拝。 

 

 奉納された幕には『行者輪宝紋』 『天台宗輪宝紋』(延暦寺)とは少し違うみたいデス。

 

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岡森・諏訪神社

 

 『丸子』と『武石』の間に在るのが『腰越』です。

 

 『依田川』に掛かる『腰越橋』の袂を曲がると『観光パンフレット』の入った『ポスト』が置かれています。

 

 中のパンフレットを頂きまして。

 

 

 八つ折りのパンフを開くと

 

 

 此のパンフ『令和元年 上田市わがまち魅力アップ応援事業』の一環として、『腰越自治会』の協力の元 『腰越村(?)記録の会』が製作しています。

 

 デフォルメですが見やすい地図は絵心ある人が書いたに違いない。

 

 とても見やすく解り易いです。

 

 

 『腰越』を大きく3つに分け、国道沿いを『町』 川沿いを『向井』 峠に続く『深山』と観光案内の略図と簡単な案内が添えられています。

 

 道路沿いで何時までもパンフ見てても始まらないから取り敢えず出発します。

 

 山に向かって走っていると

 

 

 参道を進み鳥居を潜るとだだっ広い不思議な空間。

 

 パンフを読み返しますと此処は明治時代、『小学校』が在ったそうです。

 

 この広い空き地は『校庭』だったのでしょう。

 

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むかたん

 

 何のこっちゃですけど『昔探検会』略して『むかたん』です。

 

 平成の合併で『佐久穂町(佐久町+八千穂)』となり『旧八千穂中学校』が廃校の憂き目に遭いました。只壊すだけじゃ脳が無いから何とか存続させようという事で『むかたん』が出来ました。

 

 早い話が『民俗資料展示館』です。

 

 

 如何にもな『中学校』の正面玄関を入ると『事務室』or『受付』の在った場所でしょうか係員の方が詰めています。

 

 

 『受付とかこちらですか」と声を掛けると「特に手続きとか無いですからご自由にどうぞ」ですと。「写真撮影とか大丈夫ですか」「好きなだけ撮ってください。SNSでも何でも自由にあげて貰って結構です」 嬉しいなぁ~。

 

 

 『珪化木』 これ先日本で読んだばかりです。

 

 噴火により『樹木』が地中に埋没し、地中に含まれる『珪酸』の作用により『石化』した物で、『石炭』との絶対的な違いが『炭化』していない事。その為『年輪』などの美しい模様が残されている。

 

 

 丹念に見ていた為か、不審に思われたのか、係員の方が展示場にまで来てくれて説明会が始まりました。

 

 その方入り口に名前の在った『白倉盛男』さんのお子さんにあたる方で、地質学の教員免許を持ち、今では『むかたん』の一員として対応してくれます。

 

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分水嶺

 

 長野県の分水嶺、最南端は『国師岳』山頂から東へ100m程の処と思っていましたが、先日地図を見ていて『中央アルプスの茶臼山?』と気づきました。

 

 『奈良井ダム』へ向かう木曽山脈の最北部『胸突ノ頭』がそれ。

 

 東に向かって『小黒川』が流れ出す処だからてっきり太平洋へ流れると思い込んでましたけど、『奈良井川』に流れ込んだ水は『奈良井宿』を通って『梓川SA』付近で『梓川』に合流し『犀川』『千曲川』と名前を変え『信濃川』になって日本海へ流れ込みます。

 

 日本一長い川は『千曲川』(新潟県では信濃川)に違いないですけど『奈良井川源流』の方が遠くない?

 

 

 

 『野辺山駅』から南に3.5km程の所に在る『平沢峠』は『佐久甲州街道』が通り、交通の要所でした。

 

 『八ヶ岳』を眺望するこの場所は『飯盛山』の登山口としても人気が在ります。

 

 

 小学生の遠足でも登る山として人気が在ります。

 

 コースはなだらかな登りが続くコースで、尾根に出ると眺望が素晴らしい。

 

 

 結構人が居たので山頂では無く山の中腹で恒例のシャボン玉。

 

 風に乗ってクルクル回りながら結構な距離を飛んでいきます。

 

 あんまり洗剤成分を撒き散らすのも偲ばれますのでそそくさと山を降ります。

 

蓮池

 

 『志賀高原』は『佐久市出身・神津藤八さん(長野電鉄創業者)』が故郷の『志賀』を偲び命名しました。

 

 湧き水の豊富な処で、幾つもの『沼』が存在します。

 

 『湖』と『沼』の違いとは、水深が浅く、湖底にまで水生植物の繁殖が観られるものを『沼』と云い、水深が深く岸辺付近にしか植物の見られない場合は『湖』と大別しています。人工的に川を堰き止めた湖は『ダム湖』 その他人為的に造成された場合は『池』と呼ばれる事が多いですが、必ずしも厳密な定義がある訳で無く、地名や呼称との兼ね合いで使い分ける場合も多々あります。

 

 

 『志賀高原』では『沼』や『池』の名前をランドマークにする場合が多く『蓮の咲く池』が在る場所だから『蓮池』とか、楽器の『琵琶』の形の『琵琶池』 丸っこい『沼』だから『丸沼』、一番大きいから『大池』(現在は『大沼池』と表記されています)などと呼ばれ、「〇〇池の交差点そばの赤い屋根のホテル」とか「〇池の交差点を右折」などと使われています。

 

 

 一周歩いて10分程の『蓮池』の水面には『蓮』が群生しています。

 

 

 『蓮の花』が咲いているって事は根っこは『蓮根』

 

 食用じゃないでしょうし水深が在るから誰も採らない(採れない)でしょう。

 

 

 里では6月頃に開花し、7月になると『ハチス』と呼ばれる『額』の部分が肥大します。

 

 8月の終わりでまだ花が咲いている『志賀高原・蓮池』に標高の高さを感じます。

 

 でこの後バイクに跨ると『大雨』 折角の『志賀草津ルート』何も見えやしねぇ。

 

 

奥志賀高原

 

 『新潟県・津南』に始まり『中津川』沿いに遡上した『秋山郷』の終点は奥志賀高原です。此処まで来ればホテルも在るし自販機なんぞも利用できます。

 

 今から40数年前………まだ『志賀草津有料道路』(現在の国道292号線)の料金所が『渋峠』に存在していた頃の話です。

 

 『草津』経由で『志賀高原』に入り、『秋山郷』でキャンプする計画を立てました。

 

 昔は11月3日が『文化の日』で学校は休み。日曜日が絡むと連休になり、春の『ゴールデンウイーク』に対して『シルバーウイーク』と呼ばれていました。

 

 土曜日、授業終了と同時にバイクに跨りイザ『秋山郷ツーリング』出発。

 

 『志賀草津有料道路』を登っている頃は辺りは真っ暗になり、標高2000m以上を走り続けていたので体は芯まで冷えていました。

 

 料金所でお金を払おうとすると「後一時間もすれば料金所が閉鎖になるからその後は只で走れるぞ。それまでストーブにあたって温まって行け」 当時安い時給(¥370/時間)でやっとこさ貯めたお金でバイクを買い、金欠病の真っ只中では「タダ!」の言葉は魅力的でした。(寒かったし)

 

 結局その後一台も車が通過する事無く『お茶とお茶菓子』の接待を受けながら控室で雑談していました。

 

 『志賀高原・蓮池』から『奥志賀高原』を目指すと案内が出てるから道は解り易い』

 

 道路の情報を仕入れ(当時ナビ何て無いし、バイクでは地図で確認しながら走るのも難しかった)イザ出発した時は夜の7時を廻ってました。

 

 更に悪い事に『霧雨』が降って来る始末。『カッパ』を着こんで『蓮池』から『奥志賀』、分岐を右折すると凸凹の『砂利道』でした。

 

 もう此処まで来たからには行くしかない。と腹をくくって水溜まりの残る凸凹の林道をソロソロと進んで行きます。

 

 水溜まりを避けながら曲がりくねった道を進んで行くと、カーブを曲がった先、道路沿いの林の中に煌々とした明かりが灯り、『撮影』でもしているのか幾つもの人影が蠢いていました。

 

 そのまま林道を進んだんですけど誰かに停められる事も無く脇を通過。暫くして振り返ったら明りは消えていて『何だったんだろう?』

 

 その時は疲れと寒さで兎に角『テントを張らなきゃ』としか考えていませんでした。

 

 後で思い出してみると道路には車は一台も停まっていなくて、機材や人はどうやって運んだんだろう?しかも煌々と輝いていた明りは気が付いた時にはあっという間に真っ暗闇。まさか見てはいけない物………

 

 なんとかかんとか『秋山郷』の集落に入り、広場らしき場所を見つけ『テント』を張って寝袋に潜り込みました。(食事抜き)

 

 そのまま朝を迎えると辺り一面の『雪景色』 凍える手でバイクの荷台に『テント』を括り付け辺りを見廻すと其処は『小学校』の校庭でした。

 

 見つけた『ガソリンスタンド』でストーブにあたらせて貰って話をしていたら「夜の林道下って来るなんて誰もしない」と云われました。

 

 林の中で見た『撮影隊』の事を話すと「辺鄙な場所で撮影何かするか?」ですと。

 

 やっぱり見ちゃいけない物だった?

 

 今回もバイクで走りましたが、全線舗装路で走り易いの何の。

 

 あの時の『明りの場所』も特定できませんでした。

 

 

 昔はこの先ず~っと凸凹の泥道。水溜まりにヘッドライトの光が反射してそれが林に写り、凸凹に併せて光の輪があっちに行ったり突然消えたり。ホントに薄気味悪かった。

 

 

 国道です。(酷道でしたけど)

 

 

 『奥志賀』~『志賀高原』の区間は『自転車競技』の会場として近く大会が在る為か、各大学が合宿してトレーニングに励んでいました。

 

 『自転車』は道路左を走ってんですけど『伴走車』が邪魔。ず~っと反対車線走っているし。

 

 

 河川の『禁漁区間』や『大きさ規制』の案内も出ていました。

 

 渓流釣りに人気が在るのかな。

 

 『志賀高原』は『佐久市・志賀』出身の『神津藤平さん(長野電鉄創業者)』が故郷を偲んで名付けた場所です。

 

 そして地図を見ていてふと脳裏に浮かんだのが『ガラン沢川』(地図には記入されていません)

 

 けっして踏み入ってはいけない場所として有名ですが其の話は何時か又。

 

秋山郷・大滝

 

 『秋山郷(長野県栄村)』を流れる『中津川』は、『野反湖(群馬県)』から流れ出る『雑魚川』と『奥志賀高原(長野県)』から流れ出る『中津川』が合流して結構な水量となり、硬い岩盤層では『滝』となって流れ落ちます。

 

 そのひとつが『大滝』です。

 

 

 写真では案内が読めない? この案内の前に車を停めた方は他の人が読むであろうことを考えもしないんでしょう。車が邪魔して写真撮影すら難しい状態でした。

 

 案内・説明の看板前に車を停める方。少しは考えようね。

 

 

 以前この道を通った時、この『大滝』の案内は在りませんでした。

 

 駐車場からどれ位歩くのか(距離・時間・高低差)表記されていませんので不安材料では在りますけど。

 

 『滝』を観に行く時、一番明記して置いて欲しいのは滝の近くまで行けるのか? 遠くから眺めるだけなのか? そして駐車場からの移動距離と高低差(階段数など)です。

 

 苦労して『観瀑台』までたどり着いたら、遠くから小さく眺めるだけだったりすると一寸ね。

 

 『滝』を近くで見る事が出来る場合、その川面まで駐車場から下る場合が多いです。その高低差が地図などではわかりづらい。階段などが在るなら何段くらい在るのか明記してあると助かります。

 

 『大滝入り口』では『奥志賀渓谷コース全長2.3km』と書かれていましたけど、果たしてどれ位の時間を要する事やら。

 

 下り始めると『左=大滝』と『右=三段の滝・ハーモニカ滝』『巡り合い滝』と分岐が在りました。

 

 先ずは『大滝』からだな。

 

 

 距離表示も無い不安のまま、川面迄下るのだろうか。と考えながら散策道を歩きます。

 

 滝音が聞こえてくると、『鎖場』ならぬ『ロープ場』が出てきます。

 

 折角だから下りますけどサ。(足腰弱い人には難しい場所です)

 

 

 斜度が解りづらいですけど、スニーカーじゃ滑ります。

 

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切明温泉

 

 『秋山郷』を流れる『中津川』の最上流部には『切明温泉』が在ります。

 

 そう。時々TVでも放送される、河原を掘ると温泉が湧き出て、川の水を引き込んで湯温を調整し、自分好みの温泉を『造れる』のが『切明温泉』です。

 

 温泉旅館の『雄川閣』で食事・宿泊も出来ます。

 

 此処はひとつ『雄川閣』で『スコップ』を借りて、温泉造りに挑戦してみては如何でしょうか。(私は掘った事ありませんけど。だって大雨の後以外は誰かしら掘った温泉が残っているから)

  

 

 『雄川閣』の駐車場にバイクを停め(一言断わりを入れ、尚且つ売り上げ協力するのがオトナの常識)この吊り橋を渡って対岸から河川敷に降ります。

 

 

 此の河川の上流部には『中部電力』管轄のダムが在り、大雨の時には『緊急放出』する場合が在ると危険勧告の案内が出ています。

 

 空模様を確認し、雨は降りそうも在りませんのでイザ『河原の温泉』へ。

 

 

 河川敷に置かれた『土管』にはブクブクと温泉が湧いています。

 

 なにも此処だけじゃ無くて、河川敷の何処を掘っても温泉が湧くんですけどね。

 

 

 どっかに『お風呂』は無いかいな?と河川敷を歩くと、大岩の下に誰かが掘った跡を発見。試しに手を付けてみると適温です。

 

 辺りを見廻し、誰も居ない事を確認してから『スッポンポン』の丸裸!

 

 一応誰かが来るかもしれませんからタオルを持って湯舟の中へ。

 

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秋山郷・観音堂・薬師堂

 

 初めて『秋山郷』を訪れたのは高校二年生の晩秋。

 

 志賀高原経由で『秋山郷』に到着した頃はもう真っ暗で、おまけにシトシトと霧雨が降って来る始末。

 

 テント泊を予定していましたが適切な場所が見つからず、やっと見つけた広場にテントを張りました。食事は『パン』のみで『シェラフ』に潜り込み、寒さで外を確認すると辺り一面雪景色でした。

 

 しかも広場と思っていた場所はどうやら『分校』の庭。

 

 今回その場所を確認しようと『栄小学校・分校』を訪れたのですが近代的な校舎になっていました。(今校庭にテントなど張ろうものなら間違いなく警察が来ますね)

 

 

 フラフラとバイクで走っていて見つけた『御堂』

 

 鳥居が無いですから仏教系です。バイクを降りて参拝です。

 

 

 先ずは真っ直ぐ進んだ所に在る『薬師堂』で参拝。

 

 何故か『Tシャツ』などに名前が書かれて奉納されています。

 

 御本尊は拝見できませんでしたけど、頻繁に『読経』されているのか掃除が行き届いています。

 

 

 続いて隣の御堂へ。此方は『地蔵堂』となっていました。

 

 何故か『薬師堂』の方を向いています。

 

 此方には『お地蔵様』のみならず色々な『木像』『石像』が治められています。

 

 きっとこの里の人達が『願掛け』の為に奉納したのでしょう。

 

 上段の奥には『閻魔像』や『羅漢像』でしょうか。

 

 交通安全を祈願しまして出発です。

 

 

蛇淵の滝

 

 日本には『蛇』の付く地名・名所が割と多いです。『蛇川』とか『蛇沢』『蛇掘』なんて処も在りましたか。

 

 『蛇淵の滝』の案内が在りましたので行ってみました。

 

 

 徒歩10分と在りますけど、誰を基準にしたのか解りませんし、急峻な上り坂が在るのかも解りません。まぁ大抵は川床に向かってかなりの斜面を下る場合が多いんですけど。(って事は帰りは登り)

 

 示された道を進むとやがて田んぼの畦道になります。

 

 

 田んぼの外れに公園らしき広場が在って東屋が建っています。

 

 ナント嬉しい事に水飲み場が在りました。(水道?)

 

 

 由来が書かれていました。

 

 昔、漁師が熊を追ってこの川の淵迄来た処、大きな丸太橋が掛かっていた。橋を渡ってふとこんな処に橋が在ったかなとよくよく見ると大きな『蛇』が横たわっていた。

 

 いやいや、橋を渡る前によくよく見るでしょう。で『大蛇』と解ったら『鉄砲』でズドン。(あくまで由来ですから)

 

 

 案の定『鉄製の階段』が在りまして、「この階段で川まで降りて生きのかな」と不安になってきた頃『展望台』に着きました。

 

 頑丈な鋼鉄製の『展望台』に、此処までどうやって建設資材を運んだんだろう?と疑問に思いました。(昨今はヘリコプターによる荷下ろしも在るか)

 

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前倉橋

 

 秋山郷に入り国道405号線を南下、前倉橋を渡ります。道路は左にカーブして登って行くのですが何か違和感が。

 

 ヘアピンカーブしている部分のガードレールはナント『単管』更に広い舗装が施されています。

 

 気になってグーグルマップの航空写真で確認すると以前は建物が在ったみたい。

 

 道路から川に向けて滑り台の様な『シューター』も見られます。

 

 何が建っていたんだろう?

 

 

 対岸には柱状節理の崖が見えます。

 

 秋には紅葉に包まれさぞや綺麗でしょう。

 

 

 山中に在る橋は赤く塗られている場合が多いです。

 

 何でだろう?

 

 

 『結東層』?初めて聞く言葉にググってみました。貴方もどうぞ。

 

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秋山郷・猿飛橋

 

 『津南』から『中津川』を遡上します。

 

 『長野県・秋山郷』に入るとあれほど広かった川幅がぐっと狭まります。

 

 

 江戸時代には此の峡谷に渡された『橋』を腹ばいになって進んだと在ります。

 

 流石に現代は『コンクリート製の頑丈な橋』で普通に車も通れます。

 

 

 川面迄の高さは結構在りますけど、技術の発達した現代では普通。

 

 

 江戸時代の華奢な造りの吊り橋では手摺すら無かったのかも知れません。

 

 

 橋を渡った先、崖下に石碑が置かれていました。

 

 『白龍神』と在ります。何か由来が在るかと思うのですが付近に説明は在りませんでした。

 

 川を渡る時、無事に渡れるように『水の神様』に願掛けしたのかも知れません。

 

 誰が何時置いたのか『ワンカップ』が供えられていました。

 

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津南・グランドキャニオン

 

 『津南』は『長野県』から千曲川の流れこむ『新潟県』の中央部南に位置します。

 

 『苗場山』の山裾に在り、割と急峻な峡谷が観られます。

 

 ステンレストンネルで有名な峡谷『清津峡』もその一つです。

 

 『津南』から国道405号線を南下してみました。

 

 

 『グランドキャニオン』とは大袈裟なと思いながら(行った事ないですけど)散策道を歩きますと。

 

 

 この広大さ。写真じゃイマイチ伝わらないか。

 

 樹木が無けりゃ『ミニ・グランドキャニオン』に見えくも無い(行った事無いです)

 

 

 『中津川』とはの浸食作用が創り出した『河岸段丘』はその高さ330m。

 

 尤も、『立山・称名渓谷』の『悪城の壁』は標高差500mの一枚岩だそうです。

 

 『中津川』はその端の一方を『群馬県・野反湖』に発し『中津川』となって日本海に流れ出します。もう一方を『長野県・志賀高原』に発し『雑魚川』となって『秋山郷』を下り、『秋山中津川に合流』しやがては『千曲川』に合流し日本海に流れ出ます。正確には新潟県で合流するので『信濃川(こちとら長野県人でい。日本一長い川は千曲川!)』なんですけど。

 

 

 『柱状節理』は堆積岩の特徴で日本各地に観られますが『石落とし?』

 

 まるで『日本の城建築』に観られる石垣の上にせり出して造られた『攻撃用の窓』みたいな。

 

 石垣をよじ登ろうとした人に向かって『石』を落とし、防御する事を『石落とし』といいますけど、まさかこの崖をよじ登る?

 

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龍ヶ窪神社

 

 神秘的な『龍ヶ窪の池』の一番奥に祀られているのが『龍田宮』

 

 それとは別に『龍ヶ窪神社』が在りました。

 

 社の石段下には『御札処』が在り、セルフ販売(御札は売り物では無く、頂くものです)方式で頂く事が出来ます。

 

 

 石段を登ると

 

 

 石段の上に見える『御社』

 

 

 山の中に在りながら扉は開け放たれていました。

 

 獣害とか無いのでしょうか。それとも朝の7時に誰かが開けに来ている?

 

 

 板敷(だろうと思われます)の上には新聞紙がびっちり敷き詰められています。

 

 やはり獣や虫が入ってよごすんだろうなぁ。

 

 でも『蜘蛛の巣』とか張っていませんでしたので、頻繁に人の手が入っている様に思われます。

 

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龍ヶ窪

 

 『ひまわり畑』で有名な『沖ノ原遺跡』周辺は、高台に在る為『千曲川系水利』(新潟県では信濃川)や『中津川系水利』の水は頼れない筈。では『田畑』に必要な『水』は何処から?

 

 バイクで走っていたら『龍ヶ窪池』の案内が出ていました。

 

 只の『貯水池』じゃ無いだろうと好奇心がムズムズ。

 

 

 早朝の為、駐車場に人の気配は無し。係員の詰め所(プレハブ)が在ってパンフレットが置いてあるんだけど、鍵が掛かっていました。

 

 駐車料金を入れる箱が在りましたんでちゃんと料金を入れまして。(二輪車¥50)

 

 

 駐車場から整備された散策道を暫く歩くと池のほとりに出ます。

 

 

 湖面には薄っすらと霧が掛かりとても神秘的です。更にゆっくりと動いている為、『龍』が湖面を泳いでいるかの様です。

 

 

 池の一番奥に鳥居が見えました。

 

 

 綺麗な水が湧き出している辺り、石橋を渡ると社が在ります。

 

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沖ノ原遺跡

 

 8月中旬。『火焔式土器』が観たくて『新潟県・十日町』迄やって来ました。

 

 『菅平』を抜け『中野』から国道117号線経由で『津南』から『十日町』

 

 一仕事してからの出発でしたから『十日町』に入った頃は午後2時頃になってしまいました。

 

 しかもこの日、新潟県内は40℃近い温度になり日本最高気温。バイクは涼しいように思われますけど流石に暑さに参ってました。

 

 早く『博物館』のエアコン効いた館内へ………『休館日』のですと。

 

 道の駅で情報を仕入れ、こりゃ早めに宿を探さないとヤバいかもとホテル他を当たってみるも、何処も満室だそうです。(十日町市内にホテルは余りないのね)

 

 確か『スキー場』に行けばホテルが通年営業している筈だからとバイクを走らせていると一見の旅館を発見。この際素泊まりで良いから泊っちゃえ。(素泊まり¥7000………足元見られてない?)

 

 で翌日、早朝からのスタートで、『火焔土器』の発掘された『沖ノ原遺跡』へ。

 

 

 あの~。遺跡は『ひまわり畑』になってんですけど。

 

 

 しかも現地に『博物館』等がある訳でも無く、何処に遺跡が在るのかもわからない状態。誰かに聞こうにも誰~れも居ません。(朝6時だもんなぁ)

 

 

 急遽予定変更して『秋山郷』の『滝巡り』しようっと。

 

 『火焔土器』はまた何時の日かですね。

 

トリデロック遺跡part2

 

 『トリデロック遺跡』は地表から3m程も掘り下げた地層から発見されています。

 

 現在は堆積物の上に樹木が茂り、欝蒼とした林の中ですが、今から3万5千年ほど前には川が流れていたそうです。

 

 現在も近くに『大石川支流』が流れていますが、川底には『黒曜石』が埋まっているとか。

 

 『星糞峠』の黒曜石は色が真っ黒で直ぐに判別できますが、当時も黒曜石を取り出す為に地面をかなり深く掘っていた形跡が在ります。

 

 此方『トリデロック』では、川に流れ出た黒曜石を拾って加工していたと考えられています。

 

 黒曜石は石英などのガラス質の鉱石が、マグマなどの高温に触れて解け、時間を掛けて固まった物です。その成分や固まる迄に要した時間によってガラリと性質が変わるそうです。

 

 『矢じり』や『石刃』などに使用された『鋭い欠け口』を持つ『黒曜石』は『星糞峠産』が最高級とされ、遠く『青森』や『近畿』地方の遺跡でも発見されています。

 

 『トリデロック産』の『黒曜石』は、『星糞産』に比べ若干黒色が淡く、又硬度が柔らかいそうです。(それでも肉など簡単に切る事が出来ます。)

 

 

 『国武先生』によりますと、「この付近では地表に転がっていた黒曜石を石で割って加工した場所で、完成品は持って行ってしまう為、綺麗な物は出土しない」のだそうです。

 

 『打石器』として『黒曜石』を石で打ち付け割って加工した『丸石』に黒曜石の痕跡が確認できるそうです。

 

 「この石に腰かけて、この丸石で黒曜石を叩いて加工して単でしょうね」

 

 ホントに嬉しそうに説明してくれます。

 

 

 周囲からは出土した『加工後の黒曜石』を袋に詰め、割りばしで位置情報と共に固定しています。

 

 

 お昼を食べ終えた『明治大学』の学生さん達が発掘作業に戻ってきました。

 

 いいな。一緒に体験したいな。と思っても片や『学術調査』片や『ただの物好き』ですから迷惑かけない様に遠巻きに見てましたけど。

 

 

 地表に石が在るなんて当たり前に見えますけど、見る人が見れば『水の流れ』が分かるそうです。上の写真だと左手前から右奥に流れたとか。

 

 地面を見る限り凸凹していますが、地層として見るとほんの一瞬の出来事に過ぎず、概ね平らに堆積していくそうです。だから一個『黒曜石の加工品』が出ればその深さ程度を探して行けば他にも見つかるとか。

 

 う~ん。一緒に探したいけど『国武先生』遅いお昼を食べに行くそうですので此処まで。

 

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トリデロック遺跡

 

 ある日『信濃毎日新聞』を読んでいて『トリデロック遺跡』の記事に目が止まりました。

 

 以前『佐久市香坂山遺跡』を見学に行った時、『奈良文化財団研究所主任研究員』の『国武貞克さん』に親切丁寧な説明を受けました。この方実に凄い方で、中央アジアまで出かけ、人類最古とされる4万6千年前の石器などを発見しています。

 

 『日本最古』とされる『香坂山遺跡』は3万7千年前とされていますが此方からも『国武さん』のチームが日本最古の『石刃』の発掘に成功しています。

 

 そして今回『佐久穂町・トリデロック遺跡』にて『黒曜石』を加工した『尖頭形剥片』や、黒曜石を割る際の『打石器』に使われた『丸石』や『石刃』なども見つかっています。

 

 『トリデロック?』 検索してもヒットしません。

 

 『砦』とか『取出』とか『鳥出』など様々試したのですが手掛かりなし。

 

 新聞に記載されていた大雑把な『地図』とグーグルマップを首っ引きで調べたんですけどその名前に繋がりませんでした。

 

 でも新聞記事になっている位だから………佐久穂の図書館へ行けば分かるかも。とバイクに跨りまして。

 

 『佐久穂町役場』 『佐久穂町』には観光案内所的な場所が少ない為、役所内の『観光課』でパンフレットなどを貰った事が在ります。

 

 今回も『観光課』か『図書館』で古地図でも観れば何とかなるかもと先ずは『観光課・カウンター』へ。

 

 対応してくれた若い方は解らなかったのですが、課長さんらしき方が「私が案内版を設置しましたよ」と教えてくれました。

 

 『八千穂町教育委員会』の時代に「トリデロック遺跡』の説明案内を現地に立てた事が在ったそうです。

 

 只、その場所。『一般車両通行禁止』の林道の先らしいんです。

 

 教えられた『八千穂高原自然園』の駐車場にバイクを停め、地図でも無いかと『自然園』の管理人の方に話を伺っていると、「国武先生、もうすぐお昼食べに此処に来るから待っていて車に乗せて貰えばいい」とアドバイス受けました。

 

 しかしこの日は待てども姿が見えず、結局歩いて登る事に。

 

 真夏の炎天下。白い採石の林道を20分程も歩いて登りました。

 

 アドバイスの『ペットボトル×2』を買っといて良かったぜ。

 

 

 ん? 林(人為的な森)の中に標柱が立っている。

 

 読んでみると『池の平遺跡・群塩くれ場』と書かれています。

 

 『塩くれ場』とは牧場で飼っている牛などに塩を与える場所の事。

 

 じゃこの辺りは『放牧場』とはだったのか?

 

 樹が伸びすぎて、牧場のイメージが湧きません。

 

 更に歩くと

 

 

 林の中に『案内看板』を発見。『トリデロック遺跡』と書かれています。

 

 更に道を進むと道路の脇に数台の車が停まっています。

 

 『簡易トイレ』や『テント』が設営されており調査団の発掘現場そのもの。

 

 その場にいた『明治大学黒曜石研究センター』と書かれたTシャツを着た人に声を掛けると、「国武先生はその先の現場にいます」との事。

 

 『明治大学黒曜石研究センター』は『長和町・鷹山』の『星糞峠』近くに在ります。

 

 『星くずの里たかやま黒曜石体験ミュージアム』や『黒曜石鉱山展示室・星くそ館』など『黒曜石』に関する様々な体験学習が出来ます。が採取禁止!

 

 現在『星糞峠』への林道も『許可車両以外進入禁止』(歩行者はOK)になっています。

 

 

 発掘現場に着くと、果たして『国武先生』がニコニコしながら『信毎の記者』さんに説明していました。

 

 だから食事に来なかったのか。

 

 次回です。

 

八千穂高原自然園

 

 国道299号線、通称『メルヘン街道』は、佐久穂町の国道141号線から八ヶ岳を越えて茅野市で国道20号線に合流します。(正確には埼玉県入間市~長野県茅野市です。秩父から上野村を通り佐久穂町、八ヶ岳を越えて茅野市までを結びます)

 

 ほぼ舗装路ですがほぼ山の中を走り、コンビニやガソリンスタンドなど皆無と思って下さい。

 

 ワインディング好きのライダーには魅力たっぷりな道です。

 

 八ヶ岳を越える手前に『国道標高第二位』の場所が在ります。(峠じゃない処がミソ)

 

 『八千穂高原自然園』は食事のできる数少ないポイントです。

 

 森の中に散策道が整備されていて紅葉時は実に見事!

 

 只、入園料有料なのが………ねぇ。

 

 

 木陰の散策道を歩いて行くと『飛竜の滝』に出ます。

 

 でも此処は護岸工事が。

 

 

 本命は『もみじの滝』

 

 

 『白駒の池』から流れ出す『大石川』は、『八ヶ岳』を東へと下り、やがて千曲川と合流します。

 

 『八ヶ岳』は『山体崩壊』を起した『死火山』ですが、その昔に大爆発した際、地底深くの火山性鉱物を地表にもたらしてくれました。

 

 有名、且つ利用価値の高いのが『黒曜石』です。

 

 

 『もみじの滝』直下にも散策道の橋が在り、安全に観る事が出来ます。

 

 この幾重にも枝分かれした『滝』と周囲を彩る『紅葉』実に絵になります。(まだ色付いてませんけど)

 

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天空の楽園

 

 標高は1925mしか在りませんが『車山』は『天空の楽園』です。

 

 駐車場からリフトを乗り継いで山頂まで登れます。

 

 晴れていれば360度の景色が楽しめます。

 

 高山植物にもお目に掛かれます。

 

 

 『北アルプス』が良く見えます。

 

 

 『南アルプス』 標高日本第二位の『北岳』~『農鳥岳』

 

 

 『気象観測所』の建屋は黒く見えますけど、実際はシースルー。

 

 

 コロボックルヒュッテ側から登っても40分も掛かりません。

 

 但し。山頂には『トイレ』や『売店』が無いんです。(リフト山頂駅にトイレが在ります)

 

 もし在れば『高尾山』並みの観光スポットになるでしょうけど、ゴミのポイ捨て(風に飛ばされる場合も在るんですけど)やトイレの始末が問題になるかも。

 

 やはり今のままで良いのかも。

 

 『富士山登山』の問題点が浮き彫りになって来ていますけど、軽い気持ちで登れる山こそマナー厳守が必要です。

 

 こんな素敵な場所。何時までも残したいじゃないですか。

 

気象観測レーダー

 

 『富士山・山頂気象観測所』が老朽化に伴い閉鎖が決定し、代わって建設計画が持ち上がったのが『車山』です。

 

 そう云えば何時完成したんだろうと検索してみると1999年でした。

 

 バイクが好きで『ビーナスライン』は毎年必ず走りますが、もう25年も前から在ったんですね。

 

 

 実に建物の四角い黒と、レーダードームの丸い白の対比で目立ちます。

 

 『横田管制空域』のお陰で『軍事レーダー』ではと噂されましたけど、雨雲観測用の『ドップラーレーダー』だそうです。

 

 『ドップラー効果』とは、救急車などの『近づいてくる音』と、『遠ざかる音』の音域が変わる事で説明されますが、要は電波を発射し、跳ね返って来る反射波を観測し続ける事で観測対象物の動きを察知すると云うもの。

 

 自然界では『コウモリ』や『イルカ』とかが『超音波』を発射し『反射波』を探知して相手の位置を知るとされています。

 

 映画やアニメの画面で、クルクル廻って表示される『レーダーモニター』のクルクルが『ドーム』の中で廻っている『観測レーダー』の動きと合致しています。

 

 レーダーが感知した『反応位置』と、一周した後の『反応位置』更に一周した後の『反応位置』と立て続けに観測する事で『移動方向』や『移動速度』を知ることが出来ます。

 

 

 2023/8/3 コロナで開催されなかった『観測レーダー公開』が4年振りに行われました。

 

 このレーダー建屋内に入ってみたくて、リフト運行前に歩いて登ったんですが、余りにも希望者が多く、リフト搭乗口に長蛇の列が出来たので運行開始時間を前倒ししたらしいのです。その為に『観測所』の前には結構人が並んでいて、私が貰った整理券は『29番』でした。

 

 

 建屋内は狭い為、15人づつに区切っての案内です。

 

 29番でしたので辛うじて2回目に間に合いました。

 

 先ず一階でプロジェクターによる『ドップラーレーダーの仕組み』をレクチャーされます。

 

 雨雲に向かって『超音波』を発射。反射した『超音波』の量を回転する『ドップラーレーダー』で観測し、『雨雲の量(降水量)・移動方向・移動速度』を割り出します。

 

 日本本土のほぼ中央に位置する『車山観測所』では最大半径300kmをカバーするそうです。

 

 日本国内には、北は『札幌』から南は『石垣島』迄、現在20カ所にこのような『気象観測所』が設置されています。

 

 更には『気象衛星』による各国の気象データ等を総合判断して『雨予報』を発表しています。

 

 ですから『ウエザーニュース』等の『雨雲レーダー』を見ればほぼ何分後に雨雲が通過しどの位の雨が降るかを知ることが出来ます。(それもタダで)

 

 

 一通りの説明が終わると、階段を昇って2階へ。

 

 此処では『超音波』を発生させ、対象物に向かって発射させる装置が在ります。

 

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車山神社

 

 『山』には必ず名前が付けられています。(国立公園だろうと、個人所有だろうと)

 

 『日本一高い山=富士山』『日本一低い山=弁天山(徳島市)』とかね。

 

 『車山』にも由来が在って『車山』の南裾に広がる別荘地の在る一帯を『くるま』と呼んでいた事に由来するそうです。『車山』の他にも『車沢川』という川が流れています。

 

 そんな『車山』 有名なのは『車山山頂』の『気象観測レーダー』です。

 

 黒くて四角い建物の上に、球体のレーダードームが特徴的です。

 

 

 『富士山頂観測所』の閉鎖に伴い、車山山頂で『気象観測』の為のドップラーレーダーが稼働しています。その観測範囲は最大半径300kmと云われています。

 

 『長野地方観測所』の発表している『雨雲予想図』(Yahoo!!やウェザーニューズの雨雲レーダー予想図)は、この『車山観測所』が発表しています。

 

 それにしても人、多すぎない? 実はこの日年に一度の『観測所公開日』で、私もこの『内部公開』を見たいが為に、『車山』に登った一人ですけど。

 

 私が山頂に到着し貰った『整理権』にはNo29と書かれていました。

 

 一番目指して歩いて登ったのに……どうやら並んだ人が多かったのか、前倒しでリフトが稼働したみたい。

 

 『内部公開』まで時間が在ったので『車山神社』に参拝します。

 

 

 鳥居を潜ると正面に『八ヶ岳』そして『富士山』を拝みます。

 

 この鳥居を潜る『御来光』の写真を何時か撮りたいと思ってんですけど、この『車山神社』では『天空の歳旦祭』が行われます。

 

 『神官さん』『巫女さん』らが『御来光』に併せて『神事』を執り行います。

 

 『祝詞』や『雪中禊』(水の代わりに雪で禊をする)などを行い『世界平和・五穀豊穣』などを願う行事です。

 

 『元旦』のみ『スキーリフト』が早朝営業をしてくれますので山頂まで登るのは楽なんですが寒そう(氷点下20度なんてザラ)、防寒対策絶対です。

 

 しかも『売店』とか『トイレ』も無い!

 

 『巫女さん』なんか冷えたらどうすんだろと思っちゃいますけど、『リフト山頂駅』の脇には『緊急避難所』が在り、元旦と2日のみ『御札領布所』が開設されます。

 

 トイレも緊急時には『リフト山頂駅』の従業員用トイレを貸して貰えるとか。

 

 

 神社は小さな『石の祠』ですが、四方に『御柱』が建っています。

 

 七年に一度、建て替える際に麓から『御柱』を引っ張り上げる『山曳き』をするそうです。冬じゃ無くても大変。

 

 

 此れで冬期、雪に覆われたら『祠周囲』を雪の中から掘り出して神事が行われるそうです。祭事の人は大変だぁ~。(詳しくは『YouTube=車山歳旦祭』で検索どうぞ)

 

 『初日の出』を『車山』でと思うんですけど、毎年暮れの『賃餅』でヘトヘトのヨレヨレに疲れ切ってますので、元旦早々酒飲んで寝正月が常です。

 

 来年は頑張ってみっかねぇ。(来年の話をすると鬼が笑うそうです)

 

車山

 

 夏場でも『観光リフト』が稼働しますので誰でも楽に山頂に立てます。

 

 が。それじゃつまらない。やっぱり自分の足で登らないとね。

 

 かなり以前はリフト脇の車道から登れましたが、現在は『スカイプラザ』の横から、ぐるりとスキー場を廻り込みます。稜線では無いのですが登り始めは適度に木陰が在ります。(その後は炎天下!)

 

 途中、車道と合流しますけど、リフト中間駅や展望レストランの車が通行します。

 

 昔、バイクで走った事在りますけど進入禁止に成っていなかったなぁ。(現在は関係車両以外進入禁止です)

 

 

 スキー場を横切って登りますが、に観た事無い物が立っています。それも沢山。

 

 

 まさか『迎撃システム⁈』 てな事ある訳無く、『降雪マシーン』でした。

 

 『佐久市』に在る『樫山工業株式会社』は『スノーマシン・国内シェア率NO1』を誇る会社ですが、こんな形は見た事ありません。

 

 ノズルから水を噴射させて冷気で凍らせ、『大型ファン』で飛ばして拡散させるタイプのスノーマシンと違って、ファンが無い。きっと『放水圧』や『方向』を調節する事で狙った場所に『雪』を積もらせる事ができるんでしょう。

 

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米子不動尊・本坊

 

 米子瀑布にある『米子不動尊・奥之院』に対し、本坊にあたるのが『真言宗・米子不動・滝山・不動寺』です。

 

 『須坂駅』から直通のバスも出ています。

 

 

 扁額には『三密道場』と書かれています。

 

 『密』とは『弘法大使空海』が『唐』から持ち帰った『真言密教』の考え方で『仏』と一体になる為の修行を意味します。

 

 心身や行いを整え=『身密』、言葉や発言を正しく行えば=『口密』 おのずと心や考えも正せる=『意密』 この三つを併せて『三密』と云います。

 

 この『三密』を行う事は、仏と一体となるべく『修行』を意味します。

 

 

 

 『上杉謙信』 正式名称『藤原輝虎(てるとら)』 『長尾景虎』を名乗ったり不識庵謙信(法号)』を拝してから『上杉謙信』を名乗る。

 

 戦上手で混乱の越後を統一し、強国の『武田信玄』などと渡り合い『戦国武将』として名を轟かせた事から『軍神』の称号を得る。

 

 『パワースポット認定寺院』ですと。

 

 

 どうやら『不動明王』は『三』という数字がお好きなようで。

 

 

 手水舎の手前に案内が出ていますが、『御本尊』の事でしょうか? 何処に在るんだろ。

 

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水神様

 

 米子瀑布へと続く舗装林道の脇に滾々と水が湧き出ています。

 

 鳥居がありますので直ぐにそれと解ります。

 

 『祠』が在りますので先ずは参拝してから水を汲みます。

 

 実は『米子瀑布散策道』を歩く為、此処に立ち寄り水を汲んでから『米子瀑布』を目指したんですけど。

 

 国道沿いのコンビニ以降お店は在りませんので、おにぎりの購入はお忘れなく。(紅葉シーズンには駐車場に露店が出る場合が在ります)

 

 

 『ドクダミ』が群生していました。昔は煎じて『胃腸薬』にしていたとか。知っていて損はない知識です。

 

 

 基本地表を流れてくる水は、何が含まれているか解らないので非常時以外口にしません。どんなに綺麗に見えても、動物の排泄物等が混入していないとも限らないです。

 

 地下に浸透した水が湧き出している『湧き水』ならかなりの確率で安全です。

 

 『須坂市・仁礼』は湧き水の多い所で、至る所に水が湧き出し、生活に結び付いています。

 

 湧き出る水に感謝し『水神様』や『竜神様』を祀っている処が多いです。

 

 夏の陽射しに焼かれ、火照った体に冷たい水は実に気持ちいい!

 

 只、ペットボトルが落ちていました。ゴミは持ち帰らないとね……

 

不動滝・権現滝

 

 『米子瀑布』のメインとなる二つの滝が『米子滝』と『不動滝』です。

 

 川の『浸食作用』が創り出した『河岸段丘』が川の奥へ奥へと削られていき

『峡谷』がを造り出します。その途中の硬い岩盤に出来るのが『滝』でも何時かはその岩盤すらも浸食しちゃうんですけどね。

 

 

 『不動滝』の滝つぼへの立ち入りは禁止されています。

 

 神聖な場所で在ると同時に危険でも在ります。でも何故か立ち入り禁止のバリアを越えて、人の踏み跡が在るんですけど。

 

 

 此方『権現滝』近づくことも出来ず『滝見台』から眺めるだけです。

 

 秋の紅葉シーズン。青空と紅葉のコントラストが素晴らしいですけど北向きの崖に在る為撮影の時間帯が難しいです。

 

 

 『米子不動奥の院』~『不動滝』~『権現滝』と廻って又『米子不動奥の院』迄戻ってこれます。ゆっくり歩いても30分位。

 

 で此処から来た道戻るのじゃつまらない。『米子鉱山跡』へと廻ります。

 

 

 米子鉱山跡地へ続く『滝見の名所』には標柱が立っています。

 

 向かって右が『不動滝』左が『権現滝』 併せて『米子瀑布』です。

 

 『米子鉱山跡地』は昭和初期まで『硫黄採掘鉱山』として賑わった場所です。

 

 宿舎の他、銭湯や診療所、小学校分校まで備えた町が在ったそうです。

 

 『硫黄』はマッチなどの需要の他『火薬』はの原料として戦時中の必需品でした。

 

 敗戦を迎え、使い捨てライターの復旧と共に『硫黄の需要』は激減。鉱山閉鎖となりました。

 

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米子不動・奥の院

 

 『神社』でしたら『里宮』と『奥宮』ですが『寺院仏閣』ですと『本院』と『奥の院』でしょうか。

 

 『米子瀑布』は『修験者』が『滝行』を行う為の場所でした。

 

 明治政府発令の『神仏分離令』『廃仏毀釈令』に続いて『修験道禁止令』が出されると『修験道』としての修行の場から『仏教』の修行の場へと移り変わります。

 

 それに伴い『米子瀑布』の近くに『御堂』が建てられ『米子不動奥の院』の扱いになります。

 

 

 駐車場から歩き始めて45分程で、山の中に建築物が見えて来ます。

 

 実は此処。昭和初期まで『米子硫黄鉱山』が川を挟んだ対岸に在り、車や馬車で『米子鉱山』迄入れました。そこから『策動ケーブル』を『米子不動奥の院』迄渡し、荷物を運んでいました。現在でも現役稼働の『策動』がみられます。

 

 

 先ずは『参拝』

 

 

 賽銭用の格子戸の隙間からレンズを向けました。

 

 自然光撮影の為、ぶれちゃいました。御本尊が良く解りませんけど『御不動様』だと思うんですけど……

 

 奉納された『剣』や開山者の掛け軸。紅白の『百匁蝋燭』や幕に描かれた『六文銭』と『輪違い紋(真言宗)』

 

 う~ん上がって拝見したいけど、残念ながらトップシーズンの土日位しか人が詰めていないから仕方ない。例祭の日には拝見できるのでしょうけど……

 

 

 御堂周辺には様々な『石碑』などが建ち並んでいます。

 

 中にはかなり古い物も。

 

 そしてもう少し登ると『不動滝』と『権現滝』ですが今回此処まで。

 

米子瀑布

 

 『瀑布』好きな言葉です。

 

 『滝』でも『瀧』でも無くて『瀑布』

 

 傾斜のキツイ、流れのはやい川の流れを『早瀬』と云います。

 

 傾斜どころか『垂直』に水が落ちるようになると『滝』になります。

 

 『早瀬』でも、特に景勝地となると『滝』と呼ぶ事が在ります。(吹割の滝など)

 

 落差が大きく、水量も多くなり、落ちる様が遠くから見ても白くハッキリと観えるモノを特に『瀑布』と云います。

 

 『日本三大瀑布』に数えられるのが『日光・華厳の滝』『熊野・那智の滝』『茨城・袋田の滝』ですが、『華厳の瀑布』とか『那智の瀑布』などと云いません。

 

 『米子瀑布』位なものじゃ無いのでしょうか。

 

 

 2019年台風19号の被害により道路が寸断、『進入路』が断たれてしまいました。

 

 その後の復旧工事も『新型コロナウィルスの流行』により遅延し、やっと今年から『米子瀑布』や『米子鉱山跡』迄入れるようになりました。

 

 『仁礼』の国道406号から林道に入ります。その前にコンビニに寄って置く事をお勧めします。(この先自販機すら在りません)

 

 駐車場までのクネクネ道で、途中一ヶ所だけ『湧き水』が汲める場所が在ります。

 

 

 滝までの散策道に入って直ぐの所に『熊野権現』を祀った小さな『社』が建っています。道中『熊』の出没も確認されていますので安全を祈願します。

 

 

 『米子瀑布』は『修験』の場でしたので、古い石碑等も見られますが、何て書いてあるのかは不明です。

 

 

 急な雨を凌いだのか知れませんけど確実に濡れますね。、山に入るなら雨具位持って行かなきゃ。

 

 それよりこの『堆積岩』は何処から転がって来たの?

 

 『米子不動奥之院』迄に橋を三つ渡ります。

 

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砂防ダム

 

 正式には『砂防堰堤』と表記されます。

 

 『ダム』とは河川などを堰き止める為の高さ15m以上(土堰堤に於いては高さ10メートル以上)のコンクリート等の構造物。 但しそれより低くてもダムと呼ぶ場合がある。

 

 『砂防堰堤』とは漢字解釈すると『砂を防ぐ』 確かに下流に流れ出る『土砂』を堰き止め貯める意味も在りますが、『砂防堰堤』に溜まった土砂により、水の流れる速度が遅くなり、河川による『浸食』を遅らせる意味の方が強いとか。

 

 しかし現実的には河口付近の『砂浜』の面積が減少したり、上流部で産出される『鉱石』の類が流れてこなかったりと弊害も在るみたいです。『糸魚川』の『ヒスイ海岸』で『翡翠』が拾えなくなったのも砂防ダムが出来てからだと云われています。

 

 

 こんな山の中にかなり『高さのあるダム』を造っちゃうんですから。

 

 尤も『黒部ダム』や『佐久間ダム』は普通じゃ人も寄り付かないような3000㍍級の山の中に、資材運搬用の『道路・トンネル・鉄道』を造り、『高さ180m』も在るようなダムを建設。下流の発電所で水力タービンを廻し発電。山の中に鉄塔を建て、送電線を張り巡らし300kmも離れた都市部へと現役で電気を送っているんですから。それも戦後復興の威信をかけた70年も前に造られたってんですから。

 

 残念ながら『立ち入り禁止』ですので全貌は解りません。

 

 

 『仁礼』に近づくに連れ、石像の類が増えて来ました。

 

 

 古い物では『自然石』に『線画』が彫られた物から、『光背』の付いた『石像』まで実に様々。しかも奉納者の名前などが書かれた立て札も付いています。

 

 でも何の為にこの川沿いに建っているのか不明です。

 

石小屋洞窟遺跡

 

 『仁礼』へと注ぐ『宇原川』に沿って道を下って行きます。

 

 県外ナンバーの車が停まっていましたけど、『山菜』や『キノコ』のシーズンじゃ無いから『渓流釣り』にでも訪れたのでしょうか。ちゃんと日釣り券購入してね。(一体日本に自由に釣り出来る河川って在るのでしょうか?)

 

 道路沿いに説明看板が立っていました。(こーいうの大好き)

 

 

 『縄文時代草創期』ですと!

 

 文字から解釈すると『初期』の意味ですけど、『石器時代』と『縄文時代』には、生活様式そのものが大きく異なります。

 

 『石器時代』は人間が『道具』を用いて『狩猟』などにより食料を手に入れていた時代です。獲物が取れなければ『飢えて』しまいます。

 

 対して『縄文時代』、定住して『農耕』を始め、安定して『穀物』という食料を手に入れる事が出来ました。しかし『縄文時代』になって即『農耕』が始まった訳では無く、『土器』を造れるようになりながらも『狩猟』がメインな時期を『縄文草創期』と謂います。(間違ってたらスミマセン)

 

 

 舗装路がすぐ脇を通っている現在と違い道も無かった『縄文時代』の頃、『宇原川』へ下る(魚・飲料水確保)にも好都合な立地条件だったかも知れません。

 

 大岩を廻り込むように踏み跡が続いていました。

 

 

 日本最古の『完形土器』が出土したそうですので、実際に『縄文人』が此の場所で寝泊まりした事は事実でしょう。でも実際に『洞窟』で泊るのは……

 

 若かった頃、友達数人と『サバイバル』を気取って『ナイフ』『ライター』『釣り道具』『塩』『非常食』だけを持って山に入った事が在ります。

 

 『洞窟』が在る場所ですので寝るのは『洞窟の中』 川が在るので『魚』や『山菜』を食料にして。万が一に備え『水』と『カンパン』が在ればなんとかなる筈……

 

 一睡も出来ませんでした。

 

 『魚』は数匹釣れましたがそれだけではお腹いっぱいにならず、『洞窟』の入り口で『焚火』をしましたが『虫』に悩まされます。更には『焚火』のチラつきで目が闇に慣れず、『フクロウ』の鳴き声や、何かの物音でも目が冴えわたる始末。蚊に刺され一晩中掻いている始末。朝、薄明りになると誰からともなく「帰ろうぜ」の大失敗でした。

 

 それからというもの『山』へ入る時は日帰りであろうとも『必要以上の準備』(LEDライト・サバイバルツール・マグネシウムライター)を持って行きます。有れば便利なのが『虫よけ・かゆみ止め』

 

 

 一体からして『縄文人』は蚊に食われなかったのでしょうか?

 

峰の原

 

 『菅平高原』の『裏太郎』や『ダボススキー場』より更に標高の高い場所に在るのが『峰の原高原スキー場』です。

 

 『小根子岳』への登山口でも在り、稜線を行くと『米子瀑布』の上部に出れるそうです。(行った事無いですけど)

 

 この『峰の原』から『須坂市・仁礼』へ下る道が在ります。

 

 『冬季閉鎖期間』が在ったり、『落石注意』の所も結構在り、普通の人は通らない様な道です。(一応舗装)

 

 

 標高1530mの道路沿いに『サンセットテラス』の案内が出ていました。

 

 遠く『北アルプス』に沈む夕日が堪能できる場所です。

 

 

 残念ながら雑木林が延びちゃってます。

 

 雲によりアルプスは望めませんでしたが、『夕日に槍ヶ岳』の写真。撮りたいなぁ。

 

 でも『テラス』と名前が付いているモノの、昨今流行りの『ウッドデッキ』とかがある訳じゃありません。

 

 すぐ下に『キャンプ場』が在り、『モンゴル式移動テント・パオ』が常設されていました。

 

 

 『崩落個所在り。走行注意』と書かれた看板を横目に『仁礼』に向かって舗装林道を下って行くと、林の中に大きな石碑が立っていました。

 

 

 苔で見づらいですけど『猪』に乗った『三面六臂』の『摩利支天』が彫られています。

 

 『摩利支天』は『天の神』を護る『守護神』として崇められ、その『強靭さ』から戦国武将に人気の在った神様です。

 

 又、『山岳信仰』の対象ともされ『摩利支天岳』と云えば『乗鞍岳』の別名です。

 

 この石碑から分岐した、川沿いの細道を行けば『大笹街道』

 

 『根子岳』と『四阿山』の鞍部を通って『嬬恋』迄道が続いていたそうです。

 

 残念ながら崩落の為進入禁止になっていました。

 

 此の辺り、熊の出没地域ですのでそれなりに準備が必要です。(進入禁止で良かった?)

 

菱野・不動滝

 

 小諸・菱野温泉から『高峰山』に向かって少し登った処に『不動滝』が在ります。

 

 『天狗温泉』から『トーミの頭』に向かった処の滝も『不動滝』

 

 『滝つぼ』が在って『滝行』の出来る滝は『不動滝』と呼ばれる事が多いみたい。

 

 一体、日本国中に幾つ『不動滝』が在る事やら。

 

 

 以前山から下って来た時、余りの暑さに『滝行』と称して『水浴び』した事在ります。

 

 今回も『ひとっ風呂』いや『滝行』しようと訪れると、入り口付近に車が数台。それも県外ナンバーばかり。

 

 イヤな予感で滝まで行くと『外人』含む数家族が、盛大に『BBQパーティー』の最中でした。

 

 そう云えば少し前のニュースで『河川敷で迷惑BBQ』が取り上げられていました。

 

 綺麗な川で遊びながら『BBQグリル』などを持ち込んで大騒ぎ。挙句『ゴミ』やら持ち込んだBBQ用品やら其のまま放置。地元自警団とのトラブルが絶えないとか。

 

 外人さん、上半身裸で(♂)beer片手でしたけど、まさか『飲酒運転』しないだろうね。家族の中には小さい子供も居て、滝つぼ付近を裸足で走り回っていましたけど、怪我すんなよ。ってか大人が注意しないとダメじゃん。

 

  滝にカメラを向けるとやっとの事でどいてくれました。

 

 心なしか『不動明王』が怒っているような面持ちです。

 

 

 もし、ゴミ放置とかで問題になったら許さん。と停めてあった車のナンバーをチェックして置きました。

 

 外人さんが載って来たであろう車は全て関東エリアでしたけど、わざわざ此処を選んで来たのかなぁ。

 

 地下場でもっと良い場所在るのに……

 

車坂峠

 

 『湯ノ丸・池の平湿原』駐車場から『湯ノ丸・高峰林道』を走ると『車坂峠』へ出ます。

 

 この道、標高2000mも在り、晴れた日には『北アルプス』~『八ヶ岳』更には『南アルプス』~『富士山』も見渡せます。

 

 但し『未舗装路』で崖側に『ガードレール』の無い所や、切り立った山側から落ちて来た『尖った石』が道に落ちて居たりします。『落石注意』の看板付近はホントに注意。

 

 更に『篭の登山』から下山した人が登山口の『高峰温泉』に戻る為、林道を歩いていたりしますので『徐行』&『ハネ石』にも気を使わないと。

 

 オフロードバイクにとって格好の林道でついつい飛ばしてしまいますけど、歩行者側にしてみれば『土埃』を捲き上げて走るバイクは『迷惑千万』の存在です。お互いに気づかいしないとね。

 

 

 『ランプの宿・高峰温泉』や『高峰マウンテンパークスキー場』を横切り『車坂峠』に到着。

 

 『高峰高原・ビジターセンター』の駐車場を利用させてもらい先ずは一息。

 

 テラス席の在る『レストラン』が在り、『篭の登山』を観ながらコーヒータイム。

 

 『ビジターセンター』だけ在り、浅間連山に関するパンフが揃っていて、山に入る前に情報収集にも重宝します。

 

 しかも山好きなスタッフが多く、『〇〇の沢で竜胆が咲き出した』とか『〇〇超えは崩れてるから、遠回りでも〇〇を下った方が安全です』など適時的確なアドバイスをくれます。

 

 

 又『車坂峠』は『車坂山』~『黒斑山』~『仙人岳』迄の登山口です。

 

 現在『浅間山』『前掛山』へは登山禁止ですので仕方ないですけど……。

 

 

 付近一帯『国立公園』ですので『植物・昆虫・動物・鉱石』全て採取禁止です。

 

 尤も日本国中誰かの土地(国有・自治体所有・私有)ですので、本来は『山菜取り』なども『窃盗』に当たるのかも(個人的感想です)

 

 

 標高差の良く解る『赤地図』で『黒斑山』~『仙人岳』が、『黒斑カルデラ』の淵を歩く事が良く解ります。

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湯ノ丸・池の平湿原

 

 長野県下に湿原が幾つかありますが、家から近く、尚且つ少し登れば高山植物の宝庫の『見晴岳』に登れる『湯ノ丸・池の平』大好きな場所です。

 

 車で行くなら『東御・地蔵峠』経由。バイクなら『小諸・高峰林道』経由で『池の平駐車場』迄行けます。

 

 駐車場は『繁忙期』のみ有料です。トイレ使用は『協力金』(任意)が必要です。

 

 自販機・水汲み場は在りませんので、国道18号線のコンビニ等で購入しておくか、『湯ノ丸峠・お土産売り場』の自販機が使えます。

 

 駐車場でトイレを済ませ、先ずは『雲上の丘』を目指します。

 

 

 『ハクサンフウロ』

 

 

 『ヒメイチゲ』

 

 

 『マツムシソウ』

 

 

 『コマクサ』 漢字で書くと『駒草』

 

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アプト式機関車

 

 私の記憶に在る『信越本線・碓氷峠』は『RF63』の連結ですが、更にそれ以前は『アプト式』が採用されていました。

 

 『アプト式』とは線路の間に敷かれた『ラックレール』の凸凹に『機関車』に付けられた『ピニオンギア』を噛み合わせて急勾配でも安全に昇り降り出来る装置です。詳しくはウィキペディア。

 

 以前『静岡県・大井川鉄道』で観ましたが(乗ってない!)、鉄と鉄の擦れあう音が遠く離れていても五月蠅い程でした。急勾配のトンネルなどでは音が反響して、窓を閉めていても耳を塞ぎたくなるとか。

 

 

 凸凹の『ラックレール』も在る!  其れにしても『連結装置』これで大丈夫か?

 

 基本、坂下側に連結し、後ろから押す(後押し方式)ので『緩衝装置』(丸いオレンジ色の板と油圧)がしっかりしていれば良いのかも知れません。

 

 

 『アプト』とはドイツ人開発者の名前だったんですね。

 

 トンネル高が低い為、『パンタグラフ』では無く、レール間の『第三軌条』から『集電靴』によって電力を得ていたとは初めて知りました。

 

 う~ん『集電靴』かぁ、見てみたい。

 

 

 『熊の平駅』かぁ。今度行ってみますね。

 

 

 中程の窓から内部が覗き込めます。(窓ふきして欲しいなぁ)車幅の中央に在るのが『ピニオンギア』でしょうか。

 

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しなの鉄道・軽井沢駅

 

 『JR軽井沢駅』とは別に『しなの鉄道駅』が『軽井沢駅北口』に存在します。

 

 『JR』の切符でも改札できるのかは……?(だって軽井沢駅に降りた事一度も無いです)

 

 

 『大正レトロ』な面持ちの駅舎で、近代的な軽井沢駅とは対比的です。

 

 それも其の筈、『観光車両・ろくもん』の専用ラウンジを備え、雰囲気は抜群です。

 

 『JR姨捨駅』には『豪華観光列車・四季島』が入構の際、姨捨の夜景を見る為だけの専用ラウンジが在りますが、『四季島乗車券』が無いと入場できません。

 

 『ろくもん専用ラウンジ』も『乗客の為』ですので切符が無いと見る事出来ません。(いつかは乗りたいですけど、地元だし、お値段……)

 

 

 おっ。JR時代の『EF63機関車』が見える。

 

 

 ホームに入るるには改札通らないと。

 

 しなの鉄道軽井沢駅・入場料は大人¥190。苦しい中一生懸命経営を続けている『しなの鉄道』ですので少しは売り上げ協力しないとね。

 

 

 『しなの鉄道カラー(赤とグレー)』車両と奥のホームに『ブルーカラー』車両。そして手前のホームには『EF63・2号車』が展示されています。(走行しない為パンタグラフを下ろしています)

 

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草軽鉄道

 

 軽井沢や小諸を拠点に『草軽交通』が『バス・タクシー』分野で庶民の足として活躍してしいました。現在でも『軽井沢』を拠点に『観光バス・貸切バス』を運営しているみたいですが、『タクシー』は『第一交通』グループに吸収された形で存続しています。

 

 そもそも『草軽』とは?

 

 皆さんの多くは『草津』と『軽井沢』を結んだ電気軌道鉄道の、二つの頭文字を並べて『草軽鉄道』と思っているでしょうけど、正式には『草津軽便鉄道』を略しての『草軽』でした。

 

 現在は『新幹線停車駅』でもある『軽井沢駅』、南口には県下有数の広さと出店数を誇る『軽井沢プリンス・ショッピング・プラザ』や『名門ゴルフコース』が連なり、北口を進むと『旧軽銀座』に繋がります。

 

 『軽井沢』は外国人宣教師が、別荘地としての快適性を世に知らしめた為、広大な別荘地開発が進みましたが、そもそもは『旧中仙道』の宿場町、『軽井沢宿』が発端です。

 

 『安中宿』から急峻な登りを続けて『碓氷峠』を越え、安堵の気持ちで辿り着いた『軽井沢宿』 若しくは夜の峠超えを避ける為『軽井沢宿』で体力と英気を養い『碓氷の関所』へ向かったかも知れません。

 

 旧街道の宿場町で在りながら、近代的な観光地として発展した町を『軽井沢』以外に知りません。(京都は別です)

 

 『軽井沢駅』は『新幹線停車駅』として『レストラン』や『お土産売り場』が充実していますが、『しなの鉄道』の始発駅でも在ります。

 

 『しなの鉄道』が前身である『JR信越本線』の時代、碓氷峠を越える為に特別な機関車『電気機関車・EF63』を連結し、急勾配の碓氷峠を上り下りしました。其の連結の待ち時間が10分程かかる為、乗客はホームに降りて一服したり、横川駅では『釜めし』を買ったり出来ました。(今なら連結シーンを撮影する為ホームは人だかりだろうなぁ)

 

 

 軽井沢駅の北口にモダンな『しなの鉄道旧駅舎口』が在ります。

 

 改札を出た処に展示保存されているのが『草軽鉄道・電気機関車』 通称『かぶとむし』です。

 

 元々は『アメリカ』の鉱山開発用の機関車でしたが、『信越本線』建設の際、ダム建設の資材運搬用に導入されました。ダムが完成すると『草津軽便鉄道株式会社』に払い下げられ『草津温泉』と『軽井沢』を結ぶ『山岳鉄道』として活躍しました。

 

 

 機関車のボディは錆び止め塗装の、『シャシブラック』が塗られています。

 

 

 運転席に乗り込むには、このステップに足を掛けて非引き戸の中へ入ります。

 

 

 流石に内部は保存状態が芳しくないみたい。電装関係やメーターの類は見当たりません。

 

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善光寺

 

 長野市の『祇園祭』は『弥栄神社』の大祭として毎年七月上旬に開かれます。

 

 でもメイン会場が『善光寺』の為、『お寺』で『神事?』と思っちゃいますよね。

 

 祭事は『奉納舞踊』がメインで、各地区毎に『踊り屋台』を繰り出し、『舞台』の上で舞踊が披露されます。

 

 

 この時奉納されていたのが『権堂町』の踊り屋台で演目は『藤娘』

 

 祭事として奉納を受ける側は『善光寺仁王門』前に勢ぞろいして座っていますが、『神官』さんより『お坊さん』さんの方が多くない?

 

 

 余りの暑さと人の多さで舞踊を観るのもそこそこに『善光寺・本堂へ』

 

 『仁王門』は『千社札禁止』はの為、すっきりしています。

 

 実はこの日『善光寺』を参拝したのは『前立て本尊』の『特別開帳』が行われる為で、普段『龍』の『緞帳』の奥に鎮座し、滅多にお目に掛かれません。

 

 でも本堂の中は一切撮影禁止。故に写真等在りません。

 

 『善光寺御本尊』の『一光三尊阿弥陀如来』は『絶対秘仏』とされ、地下回廊の奥、鍵で閉ざされた扉の奥に鎮座しているとされています。水槽の上に木材の足場を組み、イザ火災の時には木材が焼け落ちる事で『御本尊』は水の中に落ち、焼失を免れるとされています。(だって誰も見た事無い筈ですから)

 

 この地下の回廊を歩き、『扉の鍵』に触れる事を『御戒壇巡』と云い、鍵に触れた事で『御本尊』に最も近い位置で参拝した事に成るとされています。

 

 七年に一度の『善光寺御開帳』では『本堂(東日本最大の木造建築物で国宝)』内陣』に特別に設置された『御本尊(コピー)』の中指から『回向柱』まで『五色の紐』で結ばれ、回向柱に触れる事で『御本尊』に触れたと同じ効果とされています。

 

 『御戒壇巡り』の通路奥に『御本尊』を祀る際にも、『水槽の枠組み』にしても『大工さん』や『運び込んだお坊さん』が要るか筈ですから『誰も見た事が無い……』ってのは?

ですけど、其処は『善光寺』です。誰も見ていないんです!

 

 『内陣』と『御戒壇巡り』で¥600/大人ですがその価値十二分に在ります。

 

 撮影は出来ませんけど、心にしっかりと焼き付けておきましょう。

 

 『善光寺』はそもそも『誰でも受け入れる寺』で在る為『無宗派』のお寺で『山号』は定額山・じょうがくざん』 現在護持運営の為に『大勧進=天台宗派』と『大本願=浄土宗派』の二つが共同しています。

 

 無宗派ですので『真言宗』の私が参拝しても『仁王門』の仁王様はちゃんと通してくれます。門前払いなんてしません。

 

 何故『善光寺』は無宗派? 日本に『仏教』が伝来し、『宗派』が生まれる以前に善光寺が創建され『御本尊』が鎮座したとされています。

 

 『宗派』とは『最澄』『空海』以降に広まった『派閥』ですのでそれ以前の『善光寺』には当てはまりません。

 

 『山号』にしても『定額山』を名乗るのは『善光寺』だけ。

 

 『龍の緞帳』が開き、『前立て本尊』が御開帳されるだけで歓声が上がります。

 

 機会ありましたら是非訪れてみて下さい。

 

道路原標

 

 日本の『道路原標』は ♪ お江戸 日本橋 七つ 立ち と 歌にも唄われている『千代田区・日本橋』の橋のど真ん中に存在します。

 

 『車道橋』の中央に在り、交通量も多い為簡単には撮影できません。

 

 『獅子』や『麒麟』の装飾の在る『街灯』が余りにも有名ですが、『道路原標』知ってる人はどの位いるのだろう? 因みに『甲州街道』と『京葉道路』の起点に成っています。(そもそも日本の道路の起点)

 

 今現在は上空を『首都高中央環状線』の内回り外回り二つの橋が覆っていますが、近い将来完全撤去が決まっています。

 

 『七つ立ち』の『七つ』とは江戸時代の時間概念でおよそ『AM4:00 orPM4:00』ごろの事です。

 

 江戸時代の時間の数え方は『0:00』(午前、午後共に)を『九つ』と云います。

 

 一時(いっとき)は約2時間。『九つ』から『一時』時間が経ったら『八つ』、およそ『2:00頃』 で『3:00の間食』の事を『おやつ』と云います。

 

 更に『一時』経つと『七つ』、午前・午後共に『4:00』頃の事です。

 

 『開け六つ、暮れ六つ』と云われるのが午前・午後共に『6:00』頃。同じように考えて『五つ』は『8:00』 『四つ』は『10:00』 で更に一時(2時間)経つと『九つ』に戻ります。

 

 だから『落語・時蕎麦』の勘定途中で「今何時だい?」が笑い話になるんですけど、今の人には伝わらないとか。

 

 更に『江戸時代』では『不定時法』と云って『夏至』でも『冬至』でも昼間の時間を『六等分』した時間を『一時』としました。夏と冬では同じ『一時』でも、夏は約3時間。冬は1時間半と倍近い差が生じました。

 

 時間の話に興味在る人はググって貰うとして。

 

 

 『長野市・善光寺』の参道入り口脇に在るのが『長野市道路原票』のです。

 

 正確な道路上の距離を認識する為に『大正11年』に『道路原標施行法』が制定され、全国の市町村に『道路原標』が設置されました。

 

 此れにより『〇〇市迄あと何キロ』とかの正確な『道路案内表示』が可能になりました。 大抵は『市町村庁舎』などの近くに在るのが普通ですが、シンボル的な場所に設置した地方自治体も多数在ります。

 

 時は流れ、『地方自治体』自体が『統合合併』などを行ったり、主要道路が新たに設置され、道路原標自体の撤去を可能とする『法改正』が行われた結果、道路原票の無い自治体も存在します。(そういう時は大体庁舎)

 

 そもそも『道路原標』とは大正11年に施行された制度で、当時の市町村毎に必ず標識の設置が義務付けられました。その後数回の市町村合併により形骸化した遺物になってしまいましたが。因みに『旧佐久市』内には六ヶ所残っているそうです。

 

 『道路原標』の説明に成ってしまいましたが、新章は『善光寺』

 

 とと。仕事しろとタイマーが鳴りましたので後程。

 

佐久甲州街道

 

 国道141号線を走っていると、『県立小海高校』の在る麓辺りに、良く大型トラックなどが休憩しているスペースが在ります。

表向きは『休憩スペース』として駐車場に成っていますが、法面工事の際の資材置き場を利用し、万が一の崩落や落石事故の起きた際、被害を最小限にとどめる為の意味も在るそうです。

何時もは大型トラックの陰で見えなかったのか、何やら案内板が設置されているのが確認出来ました。

『佐久甲州街道』の謂れなどが丁寧に書かれています。

 

 

 この付近、今でこそ『千曲川』沿いに『国道』や『線路』更には『集落』や『田畑』が広がっていますが、昭和初期まではかなり狭い峡谷部であり交通の難所でも在りました。

 

 『千曲川』は余りに急峻な崖に挟まれていた為、崖に穴を開け、その穴に丸太を差し込み、丸太の上に板を渡して『架け橋』としていたそうです。

 

 『高岩』付近に名残が見て取れます。

 

 

 『秩父事件』は歴史でも習わないかもしれませんが、悲しい郷土史のひとつとして後世に伝えるべき史実です。(詳しくはググってね)

 

 

 かなりデフォルメされています。

 

 詳しくは『小海町役場』か『小海駅』に観光パンフレットが設置されています。

 

 此の駐車場所には、トイレ・ゴミ箱等在りませんのでマナーある利用をお願いします。

 

本沢温泉・天上の湯

 

 今の『山小屋』は凄いです。

 

 入浴施設が在ったり、(此方は温泉)生ビールを飲めたり。(その代わりお値段それなりですけど)

 

 以前利用した山小屋では、『歩荷』が担いで荷上げしていた為、350㎖の缶ビールが¥800、24枚撮りフィルム(デジタル前はフィルムカメラでした)¥1000、¥100で買えたコーラが一本¥350とそれこそ『高値のハナ』でした。

 

 昨今はそれに比べりゃ全然良心的価格デス。

 

 

 売店では飲み物、スナックなども販売しています。

 

 

 山小屋の主人は忙しく働いている最中で、呼び鈴を鳴らして暫し待機。

 

 

 温泉入力料¥1000を受付で支払い、トイレを済ませて『天上の湯』までもう少し歩きます。 

 

 

 山のトイレは有料。これ常識です。

 

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本沢温泉・夏沢ルート

 

 木陰の中を歩きます。夏は嬉しいけど眺望はそれ程良くないのは致し方なし。

 

 

 この山道を整備されるのも『山小屋』の仕事。100%ボランティアです。

 

 

 山小屋迄の途中、崖沿いに崩落した箇所が在りましたが、『盛り土』や『架橋』などでクローラーが通れる道路が確保されています。

 

 幾つかの『沢』を横切るのですが靴を汚す事も無く通過。『九輪草』が群生していました。

 

 山歩きする人って『高山植物』の名前を必死に覚えようとしません?

 

 昔は『ポケット版植物図鑑』なぞを持って行きましたが、昨今もっぱらお世話になるのが『グーグルレンズ』です。

 

 『スマホ』の『グーグル検索欄』の一番右端に『カメラマーク』が在りません?此処をタップしてして、対象物を写真に撮るだけ。すぐに類似物を含め検索結果が解ります。

 

 更に使いこなすと『翻訳』やら、『数式計算」なども出来ちゃう。しかもタダ‼

 

 スマホを使わない手は無いです。

 

 

 キャンプ場の水場を過ぎると『本沢温泉』 ホント『山小屋』って良くぞこんな場所に建設したなぁと関心させられます。

 

 この『夏沢峠ルート』は『原田源吉』(現茅野市出身)さんが『相撲取り』を引退した後、『修験道』に励み、心機一転して『茅野』と『佐久』を結ぶ道を造ろうとしたもの。

 

 当初個人の道楽の様に思われていたが、『茅野・佐久』両面からの多数の人足の協力を得て『明治7年』に開通となりました。

 

 現在、登山者が『八ヶ岳』に入山する時の『本沢温泉』~『夏沢峠』~『夏沢温泉』ルートがその道です。

 

 正直、何もない山の中を歩くだけでも大変な事。『山菜取り』などでたまに山に入りますけど、ただ歩くだけなら何とかなっても『道』を造るとなると生半可では出来ません。何度も行き来して、安全な場所を選び、道路として拡幅していく。藪を切り開き、木を切って根っこを抜き、粘土地など滑りやすい場所は石を敷いたり階段を造ったり、迂回したり。個人で成し遂げるなんて至難の業でしょう。

 

 『大分・青の洞門』や『輪島・穴道』なども『お坊さん』や『修験者』が、人々の安全な通行の為に生涯を掛けて掘り抜いたもの。

 

 余り知られていないですけどこの手の話は日本中に(世界中に)在るから何て人間て素晴らしい。

 

 

 と、舗装路脇の駐車場に建つ石碑に刻まれていました。

 

 取り敢えずスマホで撮影して置き、休憩時にでも読み返すと、感ひとしおです。

 

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本沢温泉

 

 『松原湖(猪名湖)』を後に、バイクが向かうは『本沢温泉』

 

 若い時は体重70㎏程度だったので『八ヶ岳縦走』何て『お茶の子さいさい(死語)』だったのですが、『お酒=友達』を続けた結果、体重が三桁に成ると如何ともしがたい。

 

 今回は『日本最高地の露天風呂』に入るに留めましょうか。

 

 県道480号線で『八峰の湯』~『シャ〇レーゼゴルフ場』~分岐を左折し『八岳の滝』~『稲子の湯』~本沢温泉分岐を右折。『本沢温泉』方面へと向かいます。全線舗装されており『落石』に気を付けて走れば普通車で登山口駐車場まで行けます。

 

 バイクで走っていて、車の轍上に落ちている石コロは、蹴とばしたりしてどかしますけど、偶に大きな石とかの場合、フロントタイヤで押したり、バイクを降りて手でどかします。事故は未然に防ぎたいですからね。

 

 

 絶壁の『稲子岳』の稜線に見える『尖山』が『にゅう』

 

 『梵鐘』に取りつけられた『ぼっち』の事で『乳』と書いて『にゅう』と読みます。

 

 誰です? 変な想像しない様に。まるで『涅槃像』の鼻みたいに見えません?

 

 『白駒池』からだとゆっくり歩いて2時間半位で登れます。

 

 

 『本沢温泉入口~林道入り口~登山道入り口』までの動画です。

 

 オフロードバイクだからこそ『林道』へ入れますけど、この林道、軽四区以外はきつい。モチロン『レンジローバー』や『ランクル』など苦も無く制覇できるでしょうけど、万が一にも対向車が在ったら大型四駆じゃすれ違えないです。

 

 週末ともなると数台の四駆ファンがこの道に乗り入れるようです。(本沢温泉の荷物運搬にも『スズキ・ハ〇ラー四駆』が大活躍です)

 

 登山道入り口にバイクを停め、『カメラと水』を持って整備された道(運搬用クローラーが通行します)を歩き出します。

 

 『本沢温泉』は山小屋ですので宿泊・食事も勿論出来ます。

 

 管理されたキャンプ場は『女性専用エリア』も在り、昨今流行りの『ぼっちキャンプ』も大盛況みたい。

 

 私ゃ独り者故に『ソロツーリング・ソロキャンプ』をしますけど、誰かが一緒の方が絶対楽しい! どころか『一人でテント泊』すると夜中に怖い目に遭ったり……(まぁその話は又の機会にでも)

 

 『バイクツーリング』で山に登る時、靴がネックになります。『オフロード用バイクブーツ』は靴底がまっ平らな為、山道を歩く事は不向きです。他に登山靴を持って行くのですが邪魔くさい。結局『バイク』も『山歩き』も出来る『スニーカー』で出かけます。

 

 バイクがこけた時の事を考え『長袖・厚めの長ズボン』は必須。でも此れが山歩きにはまたまた不向きデス。Tシャツ+トレーナーで上は一枚脱ぐことは出来てもズボンは致し方なし。故にGパンより『ワーク〇ン』の作業ズボンが重宝しています。(ベンチ穴付きで収納ポケットが多い)

 

 ウエストバックにカメラを入れて、ポケットにペットボトルを突っ込んでさて歩け!

 

 

 樹林帯を歩く為眺望はイマイチですけど、夏場は『木陰』が嬉しい。

 

 聞こえてくるのは『ハルゼミ』と『鳥の鳴き声』、時折ジェット機の音がするくらいです。

 

 一時間歩いて誰とも逢いませんでした。

 

 次回いよいよ『日本最高の露天風呂・天上の湯』です。

 

山宮(梅の宮)

 

 『野ざらしの鐘』の置かれている『松原諏訪大社・上社』の並びに、もう一つ鳥居が建っています。

 

 石の鳥居に扁額は無く、何の神様?と思いながら一礼し鳥居を潜ります。

 

 

 苔の生えた参道は趣きひとしお。でも『苔』を大事にするには踏まない方が良いんですけど。

 

 先ずは参拝。 googlemapの位置情報から『山宮(梅の宮)』で在る事が解りましたけど、案内標識、向きがズレていない? 此れじゃ右手方向に『山宮』が在ると思っちゃう。

 

 

 小さめの簡素な御社ですけど、『脇屏風』も付けられており、側面の彫刻は『麒麟』でしょうか。

 

 『山宮(梅の宮)』って? 疑問が在ったら即ググる。

 

 調べてみますと(音声入力ですので🎤マークをタップして喋るだけです)

 

 京都西部・『渡月橋』から500m下流に在り、日本最古の『お酒の神様』

 

 『子授け』にもご利益が在るとか。

 

 『酒の神』は『松尾大社』とばかり思っていましたが、『京都・梅の宮』へ行くには『松尾大社駅』が最寄りとなっています。(両方行った事無いですけど)

 

 

 『木鼻』はシンプルと云いますか(手抜きとは云いません)簡素と云いますか。よく見りゃ取れちゃってる?

 

 

 脇屏風の彫刻何ぞしっかり造りこまれているのにね。

 

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松原諏方神社

 

 此れで普通に『まつばらすわじんじゃ』って読んでました。

 

 でも何で『言偏』が無いのかな?

 

 『諏訪神社』と『諏方神社』 どちらも同じ『建御名方神・タケミナカタノカミ』と奥さんの『八坂刀売神・ヤサカトメノカミ』をお祀りする神社です。

 

 二人合わせて『諏訪様』と呼ばれています。総本社は『諏訪大社』 長野県諏訪湖の畔に『上社』と『下社』に分かれて(別居?)祀られています。

 

 『タケミナカタノミコト』は『大国主命』と『奴奈川姫』(糸魚川の姫様)の子供で、『建御雷神・タケミカズチノカミ』(天上の神)と力比べをして負けてしまい『出雲』を離れ『諏訪湖』の畔に逃げ延びました。

 

 『風・水』を司り、『五穀豊穣』『縁結び』にご利益在るそうです。

 

 

 県道側に建つ鳥居です。

 

 脇に御神木が祀られています。御朱印もこの手前社務所でどうぞ。

 

 

 先ずは拝殿にて参拝です。

 

 

 余り飾り気の無い、至ってシンプルな造りです。

 

 土台となる石積みが『伐り剝積み』ですので歴史的には新し目?

 

 

 行楽地の一角に中々落ち着いた雰囲気の神社です。

 

 更に『野ざらしの鐘』

 

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松原湖

 

 長野県・東信地方には天然湖は少なく、在るのは貯水目的の『ダム湖』です。

 

 発電目的の他、治水管理や農業用水などに用いる『多目的ダム』が多いのが特徴です。

 

 通称『松原湖』と呼んではいますが『松原湖』という湖は在りません。(駅名にもなっているのに?)

 

 『猪名湖・いなこ(ダム湖)』『長湖』『大月湖(ダム湖)』など五つの湖(池含む)の総称として『松原湖』と呼んでいますが、通常は一番大きな『猪名湖』の事を指して『松原湖』ととします。

 

 『八ヶ岳連山』には『稲子岳・いなこだけ』が在り、麓にある集落も『稲子』、そこに在る湖『稲子湖』じゃおかしいから『猪名湖』になったのかな。(個人的推測です)

 

 

 緑に囲まれて、深い水深を持つ『松原湖(猪名湖)』は,一年を通じて『釣り』が楽しめるほか、夏は『ボート』冬は全面結氷し『スケート』や『ワカサギの穴釣り』が人気です。秋、湖畔を彩る『紅葉』も見事です。

 

 深い水深部では一年を通じてそれ程水温が変わらず、熟成させる為湖底に沈めた『日本酒』も高い評価を得ています。

 

 

 仕事時間が不規則な為、某『朝の連続TVドラマ』は見た事ありませんけど、『日本植物学の父』と評された『牧野富太郎氏』の名前は知っていました。

 

 佐久市には『ヒカリゴケ』が日本国内で初めて発見された洞窟が在ります。

 

 旧制野沢中学(現『長野県立佐久市北高校』)の生徒が発見した『光る植物』を教諭である『小山海太郎氏』が学会に提出。親交のあった『牧野富太郎氏』はわざわざ佐久の地を訪れたそうです。其の時『小山氏』の発見した『新種のシソ科の植物』を『信濃アサギリ』と名付け国際学会に提出しました。(手柄の横取り……?)

 

 

 『グーグル・レンズ』で撮影し検索掛けると……『クサノオウ』ですと。

 

 流石に6月じゃ『信濃アサギリ』は咲いていないか。

 

馬流

 

 小海市・馬流。googlemapの航空写真で見てみると、西に『八ヶ岳連山』東に『秩父連山』の山裾がせめぎ合い、其処を『千曲川』の『浸食作用』が創り出した峡谷部です。

 

 今でこそ道幅の広い『国道141号線』や『JR小海線』さらに『広域農道』開墾された田畑が広がりますが、『秩父事件』の起きた明治18年(今から140年前)頃は、川岸の岩壁に穴を開け、其処に丸太を打ち込んで板を架け渡した『桟・かけはし』が主要道路でした。

 

 『佐久・甲州街道』(佐久と甲州を結んだ街道)の中でも難所とされ、時に『馬』がが川に落ち、急流の中に流された事から『馬流』の地名が付きました。

 

 近くに『秩父事件』(詳しく知りたい人はウィキペディア)の戦場となった場所に立つ『慰霊の像』や『困民党・犠牲者の墓』(秩父暴徒戦死者と表記しなければ墓を造る許可が下りなかった)が在ります。

 

 

 千曲川右岸の『佐久甲州街道』を走っていると民家のブロックに駅の案内が出ています。この駅……

 

 

 更に狭い交差点を曲がると

 

 

 この先はホーム? 駅じゃ無くて?

 

 

 ハイ。道路が直接『プラットホーム』に繋がっています。

 

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あじさい小道

 

 『信州の鎌倉』と呼ばれる『塩田平』の南、山沿いに沿って『あじさい小道』が在ります。

 

 地元ボランティアさんにより、『塩田北条氏』の通った道とされる『塩田前山寺』~『塩田城跡地』~『塩野池』~『鹽野神社』~『中禅寺』までのおよそ1.5kmに渡って『アジサイ』が植えられています。

 

 寄付を募って、その数10万株を目標に活動しているそうです。

 

 そんな『あじさい小道』 『塩野川』の傍らに『水車小屋』が建っています。

 

 

 でこの『水車』 現在でも現役稼働中です。

 

 

 川から水を引き回し、水車が廻る力で『杵』を上下させて『臼』に入れた穀物などを搗きます。

 

 

 『アジサイ』の見頃は7月中旬~の為、まだ6月初旬は葉っぱばかりで花芽は見えませんでした。

 

 

 でもこんな水辺を歩けるんですから『マイナスイオン効果』ばっちりです。

 

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中禅寺・薬師堂

 

 本堂からお地蔵さんを廻り込むと

 

 

 何かが切り株に座ってる……なんじゃこりゃ?

 

 

 奉納された『チェーンソー・アート』ですが、色(たぶん防腐剤)と場所がそぐわないと思うのは私だけ?

 

 山門が在りましたので、一旦『山門』から潜ります。

 

 

 山門を正面から入ると、センサーが感知して案内音声が流れ出す仕組みになっていました。

 

 

 仁王像が睨みを利かせています。

 

 ついでに『千社札』を貼る『不届きモノ』も退散させて貰いたいもんですな。

 

 ちゃんと許可を得て貼っている様には思えないんですけど。

 

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中禅寺

 

 『中禅寺』と聞くと『日光・中禅寺湖』の名前の元になった『中禅寺』(輪王寺別院)を想い浮かべるかも知れませんが、『信州の鎌倉』にも在るんです。

 

 正式名称『真言宗智山派・龍王山・延命院・中禅寺』

 

 『弘法大使空海』が諸国巡行の折に立ち寄った処、日照りに苦しむ農民の姿を見て草庵を建て、『雨乞い』をした場所。とされています。

 

 『塩田平』は日本有数の晴天率を誇る場所で、冬でも温暖でそれほど雪深く無い所です。(逆に考えると『降水量』が少ない?) その為幾つもの『溜池』が造られ長い間農業用水として使われてきました。

 

 昭和11年。『産川・うぶ川』上流部にダムを建設し、以降広大な面積に水田が造られるようになりました。

 

 別所地方に今でも伝わる『岳の幟』は、長い竹の棹の先から『下り龍』を描いた『幟』を垂らし、『夫神岳』山頂の『九頭竜様』を『別所神社』にお連れして雨乞いを願う行事です。『長野冬季オリンピック』でも披露された伝統的な祭りで、毎年夏の風物詩として報道されます。

 

 

 駐車場脇の受付(閑散期無人・自己申告)で料金箱に¥200を収めます。

 

 正直な処、『金儲け主義』の『神社仏閣』(神社=神社庁管轄。仏閣=各知事管轄。共に非課税)には辟易しますが、山間の片田舎(失礼)に在り、保護保存の為の費用を『檀家』だけに依存するよりよっぽどマシかもしれません。

 

 でも許せないのは有名所の拝観料大人¥1000。納得出来ない! だって職員駐車場見れば、ポ〇シェの白や、フェ〇ーリの赤が……何だかねぇ。

 

 

 『日本遺産』の認定を受けました。の案内が並びます。

 

 『日本遺産』とは『文化庁認定』が認定します。各地域・自治体の『魅力あふれる有形・無形の文化財』の事で、各地域・自治体が主体となって整備活用・運営し、国内外へ発信する事で地域活性化を図る事を目的とした文化遺産保護制度です。

 

 申請し承認されなければ『日本遺産』を名乗れません。(承認されればビジネスチャ~ンス!)

 

 

 先ずは本堂にて参拝。

 

 手入れの行き届いている庭は、歩いてとても気持ち良いです。

 

 

 御本尊様は『延命地蔵菩薩』とされていますが、お顔が拝見できません。

 

 左手に『宝珠or薬壺』を載せ、右手で『錫杖』を握っている『座像』に見えます。

 

 最近は『御真言』(参拝時に唱える言葉)が書かれている場合が多く、口に出して三回唱えます。

 

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鹽野神社~月見堂

 

 『鹽野神社』の『鹽』は『塩』の旧漢字です。『宮城県・塩竃市』の『鹽竈神社』にも使われています。(鹽竈神社の石段も登り応えありますよ~)

 

 『信州の鎌倉』とも呼ばれる『塩田平』には本家『鎌倉』と縁の在る場所や寺院が多く存在します。

 

 『源平合戦』(壇ノ浦)で『平家』を滅ぼし、『征夷大将軍』となった『源頼朝』(『源義経=牛若丸』と殺し合いの兄弟喧嘩をした兄の方)は『鎌倉幕府』を開きます。

 

 『鎌倉の権力者一族出身』の『北条政子』と結婚しますが『源頼朝』の死後、実権を握ったのは『北条家』で、実の息子の『源頼家(二代目将軍の予定だった)』までも暗殺してしまい、以後要職を抑え『執権政治』が続きます。

 

 少しでも『北条家』の敵になりそうな者は、例え身内であろうとも暗殺したり(粛清)、地方へ蟄居させたり(幽閉)してわが身の保身に努めました。(まるでどこかの国の将軍みたい…)

 

 『北条一族』の分家『北条重時』の五男『北条義政』は、鎌倉幕府から『塩田』を治めるべく任を授かり『信濃国・塩田』にやって来ます。『塩田北条』の始まりです。

 

 その後本家の『鎌倉北条氏』が『新田義貞』に滅ぼされた時、『塩田北条氏』も共に殉死しています。

 

 

 『塩田北条氏』の庇護を受けた『鹽野神社』の境内には沢山の摂社・末社が祀られています。

 

 

 欝蒼とした杉木立の中に点在する大岩の上に幾つも『祠』が祀られています。

 

 

 『月見堂』の案内に従って山道に入り込んだんですけど、『あと何分』とも『あと何百メートル』とも書かれていません。何度か九十九折を折り返す時の不安。(山頂まで登るのかも……) 水も飲んじゃったし、『女神岳』を上って来た処だし、尚且つ暑い。キツイなぁと思った頃屋根が見えて来ました。

 

 『月見堂』とは云っても『屋根付き展望台』の事ですね。

 

 

 俳句を詠むための墓所として建てられたそうです。

 

 机の中には『記帳ノート』が置かれ、沢山の俳句が書き込まれていました。

 

 でも方角的に北を向いているから『観月』にはどうなんだろ。

 

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塩田平

 

 バイク免許を習得した頃、長野県では『さわやか信州キャンペーン』が行われていました。

 

 普通、地元の旅行ガイドを買う事は無いでしょうけど、割引券とかイベント情報が満載でしたので『ガイドブック』を購入し、『松本』城下や、寺町の『塩田平』に興味を持ち、休みになるとバイクに跨ってました(今と大して変わんないか)。

 

 

 『独鈷山』は以前『平井寺』側から林道経由で登った事在りますけど『塩田』側から登った事無いから何時か登りたいと思っていました。(でも今回は『天女山』登ったからパス)

 

 汗を流そうと『独鈷の湯』という日帰り温泉施設に立ち寄ろうとした処、いつの間にか閉鎖されていました。その代り長野県民放CMで良く耳にする『ハイハイ・ハイハイ・廃車の〇クセル』の車買取センターが出来ていました。

 

 仕方なく『塩田平』に向かう途中大きな鳥居を発見。でも参道としての機能は果たしていません。はてこの鳥居は何処の鳥居だろう?

 

 

 あ~ぁ。もう少し早く来てれば『筍ご飯』だったのに。

 

 扁額には『鹽野神社』の文字。行ってみますか。

 

 

 社格は『郷社』 でもその割には立派な杉並木の参道です。

 

 

 『旧御神木』は屋根が掛けられ大切に保存されています。

 

 何かこの神社、凄いかも。参道を進むにつれ疲れ切っている筈なのにワクワクしてきます。

 

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女神山

 

 別所温泉の南側に御位置する単独峰で、『野倉道祖神』=『夫婦道祖神』近くに登山口が在ります。

 

 この山。パワースポットとしても有名で、県下最強とする人もいます。

 

 

 道路拡幅部に車二台程なら停められます。

 

 最初は『別所・仁古田』の『地下工場』へ行く予定だったのですが、場所の認識が間違っていたのか辿り着けませんでした。で急遽『女神山登山』となった訳でして。

 

 

 緩やかな登りは最初だけで、石段を昇る処からは、ほぼ直登。こりゃ後で『アキレス腱』に来るな。

 

 

 休みながらゆっくり登って小一時間。頂上付近に石段が在ります。

 

 こんな急な山の上に切り出した石積みが在る。石山の様にも見えないから下から運び上げた? って事は『城跡』?

 

 

 頂上直下の石段を登ると『祠』が在りました。

 

 『女神山』の由来とかが在るのかと思ったら何も無し。

 

 実は山頂は此処から右手に進んだ別の場所だったんですけど、この時は登頂したと勘違いして参拝後に下っちゃった。

 

 だから本当の意味で登頂して無いんですけどね。

 

上田飛行場跡

 

 山に囲まれている長野県。交通機関だとどうしても峠を越えなきゃなりません。

 

 唯一空の便が在るのが『松本空港』です。

 

 でも長野県にもう一つ『飛行場』が在った事知っていますか?

 

 

 その場所は、現在の『上田市千曲高校グラウンド』

 

 第二次大戦中、『別所仁古田』山中に地下工場が造られる予定でした。

 

 戦況は本土決戦を覚悟する程不利な状態の中、『大本営』及び『皇室』を移転すべく『松代』の『象山』~『舞鶴山』~『皆神山』に掛けて大規模な『地下要塞』を建築する予定でした。

 

 同じ頃、上空から攻撃されない地下工場を造り、『戦闘機』を組み立てる為の工場建設が計画されたのが『別所・仁古田』です。

 

 そして組み立てた飛行機の搭乗員を育てる為の『飛行予科練習所』通称『予科練』が上田市・中之条』に在りました。

 

 訪れた日、グランドではテニス部の女性部員が大勢ラケットを振っていて、グランドに向けてカメラを向けようものなら即『不審者』に思われるでしょう。

 

 石碑の写真を一枚撮り、後で文章を読もうとズームして数枚……

 

 この写真が何故か皆、真っ黒に潰れています。ひょっとしてですけど、隣に立つ『南無観世音菩薩』が妙に気になります。

 

 その後『仁古田』へ向かうも『地下工場入り口』が解らず、一旦、涼を求めてコンビニへ。

 

 店員さんに伺った処「そんな場所見た事も聞いた事も無い」ですと。

 

 googlemapに確かに在るんですけど?

 

 誰かの投稿した場所が違っているのかも。

 

別所線・千曲川橋梁

 

 2019年、台風19号による千曲川氾濫を受け、左岸よりの橋脚が崩壊してしまいました。

 

 通勤通学者の足であった『別所線』は不通となり、住民は不便を強いられました。

 

 2021年3月。住民の要請や『ボランティア』による寄付金集め、『クラウドファンディング』や『ユーミン』の応援活動によって『赤い橋』は復旧しました、

 

 

 初夏の青空の下。赤い色が鮮やかです。

 

 

 線路内立ち入り禁止なんでしょうけど、踏切ですから渡りながら撮影です。

 

 スマホで『別所線』の発着時間を調べたんですけど30分も先。

 

 炎天下で待ってるのもしんどい暑さですので、次。

 

参上神社part2

 

 『七福神』の立派な木造が並ぶ御堂が在ったり

 

 

 更に『大国主屋代』が在ったり。(大国主だけ二倍)

 

 

 『巾着』の形をした『石製賽銭箱』の置かれた『稲荷神社』

 

 巾着型の賽銭箱って『江の島弁財天』以外で初めて見たかも。

 

 『五穀豊穣』『商売繁盛』の神様ですので願掛けしまして。

 

 筋肉系の『狐』の台座に『青』が塗られていました。普通『赤』ですよね。

 

 

 本殿の裏にも立派な『御社』が在りますけど何の神様?

 

 左 『銀座市稲荷神社建設』と銘打たれた版が埋め込まれています。

 

 右の大きな方は『壁』が倒れ込んでます。中に収められているのは『神輿』、壊れないうちに保存方法考えないと。

 

 

 本殿に彫られた彫刻。素晴らしいですね。

 

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参上神社

 

 私がブログを書いたり、グーグルマップにクチコミを投稿するのに訪れる場所は、ほとんどが『行き当たりばったり』で見つける場合が多いです。

 

 たまには新聞記事などを見て行ってみたいと思い、場所を調べてから訪れる場合も在りますが。

 

 上田市の千曲川西岸を走っていて見つけたのが『参上神社・荒神宮』の文字。

 

 駐車場にバイクを停め、ヘルメット・グローブ・ジャンパー(夏は長袖パーカー)を取ってTシャツ一枚の散策モードに変身します。(これが実にひと苦労)

 

 ウエストバックに入れたカメラを首からぶら下げ、如何にも『観光中です』をアピールします。そうしないと不審者と思われちゃう?

 

 

 鳥居は西側を向いていましたので、『一の鳥居』は在るのかと細い路地を歩いてみると。

 

 

 普通に民家の庭先に『若宮学校跡』の立て札が立っていました。

 

 廃校後に、土地が分譲されたのでしょうか。

 

 通りまで出てみましたけどそれらしい鳥居は無く、恐らく駐車場からが正式な表参道の様子です。

 

 石の垣根を入りまして。

 

 

 扁額には『荒神宮』の文字。一礼して潜りまして。

 

 

 『荒神』『こうじんさん』又は『あらがみ』とも呼ばれる土着信仰の神様で、『火』を司る処から『竈』などに祀られ『火除けの神』とされる。疎かにすると災いを起す(=火災)とされ、荒々しい気性から『戦勝』なども祈願されてきました。

 

 『三宝荒神』と同一とされていますが『庚申』などと同じく庶民信仰のひとつです。

 

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海野宿

 

 バイパスが開く前、海野宿のど真ん中を突っ切る『旧北国街道』は、生活道路のみならず国道の抜け道として交通量の多い道路でした。(と云っても今から40年も前の話です)

 

 環境保護の為、千曲川寄りにバイパスが開通すると静かな街並みが戻りました。

 

 六月中旬の平日。30度近い気温のせいか散策する人の姿は在りません。

 

 

 20年振り位に散策して感じた事。

 

 『電柱は?』

 

 映画のロケに使えるような街並には、『電柱&電線』が在りませんから実に空が綺麗!

 

 でも『舗装路』は如何ともしがたく、ロケは難しいか………

 

 

 街角に設置された『木箱』 何だろうと開けてみると『消火用具入れ(ホース格納箱)』でした。よくよく地面を見ると『消火栓』が在ります。

 

 

 平成合併前の『東部町』の文字が見えます。(現在は東御市)

 

 

 二階部分のせり出している部分。『うだつ』と云います。構造的には隣家の火災除けという事に成っています。

 

 出世しそうもない者を『うだつが上がらない』と表現しますが、自分の家に『うだつ』も付けられない(収益に乏しい)奴。って事でしょうか。

 

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稲荷神社と媒地蔵

 

 『海野宿・白鳥神社』の一角には『信濃の国・稲荷神社』と『媒地蔵尊』が在ります。

 

 わざわざ『信濃の国』と入れている理由は?

 

 

 畳敷きの上に社が鎮座しています。

 

 

 『媒』と書いて『なかだち』

 

 

 『仲立ちの』意味で『縁結び』のご利益が有るそうです。

 

 『加賀の殿様』=『前田家』の姫様ですか。

 

 『加賀藩』は参勤交代の際、『米原』周りで『中仙道』若しくは『東海道』(大井川や箱根超えの難所が在り、大所帯は難儀した)、または『親不知』という難所ををどうやって超えたのか定かでは無いが(おそらく舟)『北陸街道~北国街道』経由『中仙道』で江戸へ向かったそうです。

 

 『加賀藩』の姫様は『徳川家』を始め各大名の正室に迎えられている人が多いから、『媒地蔵尊』の助けは要らないんじゃ………?

 

 心して御参拝して下さい。

 

海野宿

 

 『東御市・海野宿』 『真田十勇士』のひとり『海野六郎』の名前でも解かる様に、『海野氏』(滋野一族)の出生したとされた場所です。『真田十勇士』は『池波正太郎』さんの小説ですが、モデルとなった実在の人物も存在しました。

 

 2019年の台風により、『海野宿橋』の橋脚が倒壊する被害が出ましたが、2022年に完全復旧し国道18号線からのアクセスも容易になりました。

 

 

 海野宿南端の駐車場にバイクを停め、先ずは『白鳥神社』のから散策開始です。

 

 初夏の平日。照り付ける陽射しの下、海野宿を歩いているのは私独りだけ………と思いきや、ナント数グループがウロウロ。

 

 

 真夏のバイクは想像以上に暑いんです。日陰を求めて神社の境内に逃げ込みます。

 

 

 先日訪れた『松代・舞鶴山』山腹にも『白鳥神社』が在りましたが、余りの暑さに登るのを断念。調べてみたら『海野氏』の『氏神』として祀られていた『白鳥神社』を『真田氏』が『分祠』したそうです。 でも『総本社』って此処なの?

 

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竹山隋護稲荷

 

 はて………『隋護稲荷?』初めて聞きました。

 

 川沿いに立てられた案内を読んでみますと

 

 

 初めて聞く名前に先ず『真田家家系図』を確認しました。

 

 『真田信繁=幸村』の下に二人の弟(信勝・昌親)が在り、『昌親』の三男が『信親』です。

 

 只でさえ複雑な『真田家』の内部事情に於いて、子供が出来なかった為に養子を身内に求めます。(家督相続出来なければ、お家断絶・領地没収の『お取り潰し』)

 

 江戸屋敷住みの『信親』には子供が無く『松代藩二代目領主・信政』の子供『信就』の六男『信弘』………(もう何だかよく解りません)を養子に貰います。

 

 『松代藩主』となった『信弘』は江戸屋敷の鎮守としていた『随護稲荷』を『海津城』へ遷座。後に『恵明禅寺』境内に移します。そこは『竹の繁った山=竹山』だったので

『竹山隋護稲荷』となりました。

 

 

 橋を渡って『千本鳥居』(10本位)を潜ります。周りは普通の民家です。

 

 

 鳥居を潜り終えると先ず『淡島神社』の摂社が在ります。

 

 総本山は和歌山市の『淡島神社』 人形供養の神社として知られ、供養のために持ち込まれた人形がズラリと並ぶさまは圧巻(と云うよりチョット怖い)

 

 此方にも人形が治められているのかと覗き込むと

 

 

 んまっ。ご立派、 子孫繁栄は解るんですけど何故に『カエル』も?

 

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象山地下壕

 

 『佐久間象山』の『象山』とは標高475mの『松代』南西部に在する山の名前です。

 

 『日本のピラミッド』と称される『皆神山』と、昨今大注目の『舞鶴山』、その間を『地蔵峠』に続く『県道35号線』が通っています。

 

 『舞鶴山』は『地蔵峠(東御市の地蔵峠とは異なります)』から延びる山稜の北端に位置し、『白鳥神社』の他『松代高校』や『長野県警察学校』などが近在しますが、良く知られているのは『大本営移転候補地』の地下壕が掘られた場所です。以前は一部公開されていましたが、昨今は老朽化を理由に一般見学できなくなったみたい。(ひょっとしたら許可制で見学できるかも)まぁ見学って云っても照明の点いた狭いトンネルを数十m歩き、網戸の向こうの真っ暗なトンネルを見るだけでしたけど。涼し気な風を感じたけど果たしてそれ以外に理由が在ったりして……。今から30年近くも前の事ですけどね。

 

 現在は、移転予定の『皇室用の部屋』のモデルルームが公開されているそうです。

 

 『気象庁の地震観測所』が地下トンネル内に置かれている為、余り人が歩いちゃいけないのかも。

 

 

 『象山。恵明禅寺』から『象山地下壕』へ向かう途中、『象山散策コース』の案内が在りました。

 

 

 この道を行けば『象山山頂』から『象山神社』まで散策できるのですが、ナンセ暑くて。今は地下壕の冷気で身体を冷やしたい……『象山地下壕』へ急ぎます。

 

 

 先ずは受付で来訪者名簿に記帳し、消毒と『ヘルメット使用時の注意事項』を聞きます。この時たまたまドイツ人旅行者(♂一人旅)と居合わせたのですが、日本語を理解できないらしく片言の英語を介して通訳(かなりブロークンです)しました。(スマホのドイツ語翻訳機能で良かったか)

 

 

 見学料は無料。天井が低い為『ヘルメット着用義務』です。

 

 使用後のヘルメットは『サイズ調整ベルト』を開放し、消毒用アルコールスプレーを噴霧して『使用済み棚』に戻して置く事。(これの英訳伝わったかな)

 

 では『閂』を外してイザ『地下壕』へ

 

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恵明禅寺part2

 

 御本尊は『大日如来様』でしょうか?

 

 注目すべきは木造坐像の『達磨大師?』 

 

 よく目にする『達磨大師』の右手には、長い毛足の『はたき』の様な『払手・ほっす』を持っています。この像は『軍配or配扇』でしょうか。

 

 インド仏教を中国に広めたとされる『達磨大師』 長い年月を座禅で過ごし、すっかり手足が衰えてしまったとされる高僧です。

 

 『石の上にも三年』という諺は、冷たい石の上に三年も座り続ければ大きな石も温かくなるという意味です。椅子に一時間すわってるだけで腰が痛くなるのに…

 

 

 向かって左側『孔子廟?』でしょうか。(字が読めません)

 

 

 向かって右側は創建者の『松代藩三代目・真田幸道』でしょうか。

 

 そして境内には『幸道』の元に15歳で嫁いだ『杏姫』の霊廟も在ります。

 

 

 伊達政宗の孫娘が、真田家に嫁いでいました。

 

 だから『ずんだ』(枝豆で造られた餡)の文化が長野県に在るんだ。

 

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象山・恵明禅寺

 

 『象山神社』から『松代・象山地下壕』へ向かう途中、山門が見えました。

 

 寺紋は『真田・六文銭』

 

 

 正式名称『黄檗宗・象山・恵明寺』

 

 『黄檗宗』は『達磨大師』で有名な中国発祥の『禅宗』です。(故に高崎の『小林山・達磨寺』も『黄檗宗』です)

 

 山号はずばりの『象山』 松代町の南に位置する岩山で、その地下には『トンネル=象塹壕』が掘られています。

 

 因みに『佐久間象山』 本名は『啓・ひらき』(他にも『修理』『国忠』などの名前を使い分けた) 儒学や兵学を習得し、神田お玉が池に『象山書院』という私塾『象山塾』を開き『小林虎三郎(銅像に在った!)』『吉田寅次郎(松陰』『坂本龍馬』『勝海舟』『加藤弘之(東大総長)』などを門下に持つ。

 

 特に海軍にその知識を発揮し『海防八策』を提唱する。(詳しくはウィキペディア)

 

『さくまぞうざん』とも読まれますが正式には『しょうざん』です。

 

 

 門前の立て札に『蓮華往生』と書かれてあり読んでみると………

 

 此の地にも『姨捨伝説』が在ったのかと複雑な気持ちになりました。

 

 でもこの付近に『蓮華寺』なる寺は在りません。何故この寺の門前に?

 

 取り敢えず山門を潜り本堂で参拝。

 

 

 手入れの行き届いた庭を歩き本堂へ。

 

 昨今珍しく扉は解放されていました。

 

 

 参拝を済ませ、御本尊を拝観。

 

 狭いながらも心落ち着く空間です。パワースポット?

 

 次回へ続く………

 

幕末の志士

 

 境内の一角にズラリと銅像が並んでいます。

 

 実は以前、新聞の記事で観たんですけどやっぱり写真じゃ伝わりずらかったのか、余り興味湧かなかったのですが………

 

 

 ありゃりゃ。ホワイトバランス失敗。

 

 

 『佐久間象山先生』を始め『松代藩八代藩主・真田幸貫公』、幕末の志士『坂本龍馬』『勝海舟』『吉田松陰』等々。

 

 

 1853年、ペリー率いる軍艦4隻が浦賀沖に停泊します。

 

 それまで『江戸徳川幕府』に統治され、安穏とした江戸時代に突如として暗雲が立ち込めます。

 

 当時の日本は『天皇』を主とした国造りをていしょうする『勤王派』と『幕府・将軍』をトップに行政を取り仕切ろうとする『佐幕派』に分かれていました。(現在の『皇族』と『内閣』の関係とはニュアンスが違います)

 

 更に江戸幕府の政策『鎖国論』と世界情勢を鑑みた『開国論』に分かれます。

 

 当時の『藩制』では『藩主=殿様』の考えは絶対であり(絶対君主)、『城』に