千曲川の氾濫は江戸時代の『戌の満水』が知られていますが、それ以外にも幾度となく氾濫しその都度復旧してきました。
堤防の護岸工事が完成する以前の昭和初期に千曲川の水が増水し、上田市の千曲川西岸地区を襲いました。これにより広大な面積の田畑住居を損失してしまいます。
当初行政は農耕地の復興を目指しますが、余りに広範囲に広がる流失面積と用水の確保の難しさから農耕地の再興を断念。田畑を失った人への救済措置として土木作業員雇用という形をとり生活の安定を図ります。しかし当時の人口数からしても『住宅地』や『工場誘致』の必要性は無く、只広大な真っ平な場所を造っただけでした。上田市はこれを『市営飛行場!』として整備を進めます。(日本に数ある飛行場でも『市営飛行場』は当時二か所しか無かったそうです) 世界情勢は次第に第二次大戦へと向かう中、『上田市営飛行場』も『軍用飛行場』に接収されます。
1941年『陸軍上田飛行場』として発足、多くの訓令生が此の地で練習を重ね上田市上空を飛んでいたそうです。
現在『上田市千曲高校』のテニスグランド脇にポツンと石碑が残っているだけです。
写真を撮ろうとカメラを向けた先、スカート姿の高校生が大勢いたので大慌てで一枚だけ撮影して即移動です。(通報なんかされた日にゃ、どえらい目に遭いそう)
当時の安全基準からしても、命を落とした人がいたのでしょう。『南無観世音菩薩』と彫られた碑が痛々しいです。そんなこんなで碑文もろくに読む事が出来ませんでしたが次に向かった先は
迷いながら辿り着いた場所。『上田飛行場半地下工場建設跡』
案内看板は建っているのですが………何処?
此の『割れたコンクリート』がその施設の一部だそうです。
と言われてもねぇ。周囲には普通の振興住宅地と化してるし。
看板の横も駐車場だし。
戦争遺構がこの場所に在ったとはにわかに信じられませんでした。
で次も戦争遺構。『仁古田』へ移動です。(続く)