高速道路の『佐久中佐都インター』のお陰で『塚原地区』にもバイパスが完成し、『浅科道の駅』方面からのアクセスが容易になりました。
私ゃバイクの時は車じゃ走らないような道を行くのが好きなもんで、田んぼ中の軽トラックしか走らないような道を良く走ります。
『塚原』には真っ平な田圃中に、こんもりと盛り土が在るので直ぐそれと解る『古墳』を幾つも見る事ができます。
名前の付いている『古墳』も在れば、『墓石』が幾つも並ぶ(多分古墳)小高い場所も在ります。
同じ『塚原』の中でも『赤岩』地区には『浅間山大噴火』で転がって来たとされる『大きな溶岩の塊り=赤岩』が幾つも在り、御神体として祀られている処も在ります。(赤岩弁天)
何処かにアプローチできる場所は無いかと探してみました。
人の歩いた『踏み跡』が在りますので誰かが登っている筈。でもこの近くに『トマト栽培』のビニールハウスが在り、『作物荒らし』に疑われるのも嫌だから此処まで。
実は『虫除けスプレー』が空だったので『藪漕ぎ』したくなかったって言い訳ですけど。
少し移動して。道路の脇に『石碑』が立っていました。なんて書いて在るのか読み解けないのが情けないですけど。
googlemapで現在地検索から調べてみると『塚原石碑石塔群』(そのまんまじゃん)
どなたかご存じの方情報提供お願いします。
上の写真の中にも三ヶ所古墳らしき場所が写っていますけど解るかな?解かんねぇだろうなぁ。(故・松鶴家千歳さんを知る方鹿しか解からないか………)
休日、半端に時間を持て余した時など、バイクに跨りトコトコ出かけます。
今まで走った事無い道や、行った事無い場所での新しい発見を求めて。
七月初旬。休日なれど早朝よりの仕事を片付け、バイクに乗ってふらりと出かけました。
特に何処に向かうとか当てが在る訳でなく、何となく次の交差点で曲がってみようかな何て感じで『浅科地区』へ。
『旧中仙道・八幡宿』の『八幡神社』を過ぎた辺り寺院の石門が見えました。
余りにも民家に溶け込んでいて、今まで気が付かなかったか。
多分あの奥の林がそうだな。
こざっぱりとした入り口。案内が在るのが嬉しいです。
1493年・室町時代の創設です。
『臨済宗・五輪山・常月庵』を中山道改修の折に当地に移転、境内に泉が在った事から『八幡山・常泉寺』としました。
『臨済宗』も『曹洞宗』も『禅』を通して精神統一を図る宗派です。
どちらかと云え『知識階級・武家』に好まれ、『禅問答』を通して悟りを得ます。
『一休さん』の『作麼生・そもさん』『説破・せっぱ』と問答をするシーン。アレが『禅問答』です。
有名な公案問答に『隻手音声・せきしゅおんじょう』が在ります。『両手を叩くと音がする。では片手にはどんな音がある』 答えは………まっ考えてみてね。
対して『頭使いたくな派』が求めたのが『曹洞宗』誰でも只『禅』を組み、心を落ち着ければ良しとする宗派です。(私の解釈に無理があるかも)
『石川県・総持寺』を訪ねた時、『座禅』を組む機会が在りました。
とてもユーモラスなお坊さんに親切丁寧に説明して頂き、『禅堂』にての『座禅体験』
私、膝が悪くて正座が出来ません。『座禅』も足を組めなかったのですが「無理する事は在りません。足を組もうとした事が大切なのです」 で足を延ばした『胡坐』の格好で『半眼』 其れも長時間座するのではなく「興味を持ったことが大切なのです」と説かれ「僧侶の修行で無ければ『警策』も必要在りません。でも体験してみます?」私ゃ丁寧にお断りしましたです。
でも本当の意味は『座禅中』に襲われる『睡魔』を追い払い心身ともに『覚醒』させる為です。正確には『警覚策励・きょうかくさくれい』と云うそうです。
残念ながら本堂の扉は閉ざされており、扉の前で賽銭と合掌です。
まぁ『御本尊』はググればホームページなどから拝めますから。昨今の防犯理由じゃ仕方ないです。
私が中学生の大晦日の時、曹洞宗のお寺で『除夜の鐘が突けるぞ。皆で集まろう』と云う事になり夜中お寺に集合しました。早く集まり過ぎて寒い中待っていると誰かが『座禅』組んで待って居ようと話が決まり、薄暗い『禅堂』で震えて座禅を組んでました。寺守りの『寺男』が人の声に不信を感じたのかやって来て、『何なら鐘撞手伝ってくれ』と話がまとまりました。『お清めと寒さ対策』と云われ茶碗に注がれた『お酒』を飲んで1時間近く鐘撞堂への急な階段を上り下りする人の手伝い(足元を照らしたり手を貸したり)をした後(来た人全員に突かせたから百八回どころじゃ無かった)暖房の利いた部屋で餅を焼いてくれました。で『お節』と『酒』を振舞われ初めての酔っ払い体験でした。(50年近く前の事で時効って事で………)正月早々酒臭い息で飲酒がバレましたが『お寺』の為にした事だからとお目玉は無し。それが私の飲酒歴の始まりでした。
「門松は冥途の旅への一里塚 めでたくも無し めでたくも無し」
「(この道を行けばどうなるものか)踏み出せばそのひと足が道となる 迷わず行けよ行けば分かるさ」(冒頭部分はアントニオ猪木さんの加筆)
なども『一休宗純和尚』の言葉です。
私ゃ『は~っ 一休み 一休み』が一番好きかな。(アニメだっちゅうの)
第二次大戦終戦直前の『沖縄』は米軍の猛攻撃を受け、悲惨な状況に置かれました。
『佐久市・中込』出身の『小池勇助中佐』は、野戦病院の担当医師として沖縄の女学生で組織された『藤学徒隊』を率いて『ガマ=洞窟』にて負傷兵の手当てに追われていました。アメリカ軍の猛攻により多くの隊は絶滅、若しくは自決に追い込まれてしまいます。『藤学徒隊』も、捕虜になるよりは自決するしかない処迄追い込まれました。しかし『小池勇助中佐』は「決して自害する事無く逃げ延び、この悲惨な状況を後世に伝えて欲しい」と告げ、闇に紛れての逃亡を手助けします。しかし『日本陸軍』の考えに背いた責任を取り『小池勇助中佐』は一人だけ自害します。
詳しくは『小池勇助中佐と藤学徒隊』を参照。
『小池勇助中佐』のお墓が『曹洞宗・大圓山・四明林・本學寺』の境内に在ります。
普通お寺には『宗派・山号・寺院名』と続きますが、『四明林………』案内を読んで納得。
『四大心理を明らめる学舎』と在ります。学舎と在りますので僧侶が学び舎とする所であり、『寺子屋』として子供などに教育をした場所なのでしょうか。
あくまで個人の墓所ですので合掌して写真を撮らせて頂きます。
ん?よく見ると名前が違う………間違えたか。
そして此方が『出世地蔵』 門前を流れる川では子供が川遊びなどしたのですが、このお地蔵さんが建立されると以降は流される事故も無くなったそうです。
『よく遊びよく学べ』の子供はすくすくと育ち『出世』下かは本人次第ですけど。
更に『時宗・紫雲山・来迎院・金臺寺』(家から本堂の大屋根が見える寺院です)
『金臺寺』は現代漢字の『金台寺』と表記されます。
此方の本堂の脇に『地蔵堂』が在ります。鎮座するお地蔵様は『日限り地蔵尊』が在ります。
『〇月✕日は大事な試験の日ですので上手くいきます様に』とか『〇月✕日は娘の結婚式ですのでお婆ちゃんの体調が良くなり式に参加できます様に』とかのように『此の日限りは………』と日を限ってお願いするお地蔵様です。
この『三つのお地蔵様=ぴんころ地蔵・出世地蔵・日限り地蔵』をお詣りすれば願いが叶う事間違いなし!(宝くじが当たります様になんて欲張らなければですけどネ)
で最後は『人形工房・〇ンキュー』さん駐車場に並ぶ『七福神』
此方も参拝してみてください。
因みに『人形工房・〇ンキュー』さんの店舗入り口にもお地蔵様が在りますので探してみてね。
私が小学校5年生の時『リッチランド』がオープンしました。
『スーパーマーケット』と『大型衣料品店』を両軸に地域店舗が多数出展し、飲食店なども在って朝10:00のオープンから閉店の22:00まで人の絶えない商業施設でした。
当時、『中込地区』には『中央名店』と『パラス』の二つの『複合型ショッピングセンター』が在りました。『北高』と『南校』二つの学校に通う学生だけでも相当な人数が『中込駅』を利用していましたから、夕方など『ショッピングセンター』には人が溢れていました。
『臼田地区』にも『サンマルコ』が在り、此方も結構な賑わいでした。3階に結婚式場も在って、当時式出物に使われる『赤飯』の納品手伝いに、階段をヒーコラ言いながら登った事を覚えています。(エレベーターが無かった!)
『野沢地区』も遅れてならじとばかりに『ショッピングセンター計画』が持ち上がり完成したのが『リッチランド』でした。
本屋・スポーツ用品店・薬屋・おもちゃ屋・用品店・画材道具・喫茶店・レストラン・寿司店・土産物店・ゲームセンターなどかなりの出店が在り。店舗だけでなく『旅行社』なども事務所を構えていましたので何時も沢山の人が出入りして居ました。
時は流れて20年もすると段々と集客力も薄れ、見合っただけの売り上げの確保が難しくなると一店、又一店と撤退していき、空いたスペースを利用して『大会議場』~『小会議場』『佐久振興公社』『フリー学習スペース』などに利用されていましたが老朽化から建て直しが決まり、つい最近完成しました。
『佐久振興公社ビル』として『郵便支局』『シルバー人材センター事務所』『地域活動センター』などの入る建屋と『野沢会館』として『佐久市生涯学習センター』や『野沢地区館(公民館みたいなものか?)』『野沢出張所』『佐久広域連合』(意味不明)などが入る建物が在ります。
以前はバス発着所を有し『東京・池袋行き』や地域路線バスの基点でも在りましたがバス路線は『デマンドタクシー』へと変わった為、大型路線バスはほとんど姿を消してしまいました。
閉館時間なのに車が停められているのは何故?
まだプレオープンの段階の筈なんですけど………
『学童会館』の完成に合わせて『野沢多目的公園』ともどもオープンセレモニーをするみたいデス。
少しでも活気が戻ると良いのですが。
私が小学校に入学した当時、此の場所には『野沢女子高等学校』が在りました。
その後『野沢南校』として移転した跡地を『県民広場』として利用していました。
『体育館』や『テニスコート』は女子高の物をそのまま流用。幅跳びの『砂場』や400mのトラックを持つ『陸上競技場』(私は砲丸投げでした)や照明施設とバックネットの在る『ソフトボール場』として地区大会(壮年ソフトボール)などにも利用されました。
基本『芝』の公園で、チビッ子が追いかけっこして転んでも大丈夫。
建物には『フリースペース』や公衆トイレ、『喫茶店』なども在り、嬉しい事に『Free wi-hi』 冷暖房の利いたスペースでゆったりする事も可能です。(但し閉館時間在り)
『親水広場』には手押しポンプが設置され水を汲みだして流れを造る事が出来ます。
夏には子供が喜ぶだろうなぁ。
転んでも大丈夫なように『ソフトビニール張り』の下は『砂』みたい。
早朝よりウォーキングする人が大勢集まります。
何故か皆さん反時計回り、逆らって廻ろうものなら一々挨拶が面倒くさいのでつられて私も反時計回り。
此処に鳥居が在るのは知っていましたが、わざわざ車を停めてまで参拝する事も無かったのですが、何か気になって。(バイクだから直ぐ停められるって事も在ったんですけど)
国道141号線を北上してくると『千曲川』を『浅蓼大橋』で渡り、『滑津川』を『中込大橋』で越えます。佐久郵便局前交差点から左折。住宅地の中を走る道に突き当ります。
此の辺り、『千曲川』と『滑津川』の造り出した河岸段丘の上に在り、景観を求めて崖ギリギリに家も並んでいますけど怖く無いのかな。
さらに面白い事に『三河田古墳』なんぞも在って古代から人気の場所だったみたいです。
この突き当った生活道路が国道141号バイパスが完成する以前の主要道路でした。
クネクネと曲がりながら『湯川』の袂で『小諸中込線』と合流します。
『根々井・公会堂』前で分岐し右折すると佐久平駅方面への近道。直進すると『塚原』で旧中仙道にぶつかります。
三河田の工業団地を過ぎた辺りに、『学生会館・根々井ハイツ』が在ります。
此の絶好のロケーションなのに何故か廃墟? まさか事故物件とか……
駐車場が無いのか。だから借り手が居ないのかな。
投稿された館内の写真を見ても、かなり立派な感じがしないでもないんですけど。
(実は人が住んでたりして)
その隣に朱塗りの鳥居が立ってます。
何故か階段脇には『お地蔵様』
人の登った形跡が無いんですけど………行ってみました。
鳥居にも扁額は在りません。
注連縄なんかは新しい感じですのできちんと管理している人が居るみたいです。
でも何の『神様?』 てっきり『稲荷神』だと思っていたのですが………
ご存じの方一報お願いします。
でもこの灯篭の文字、読める人いるのかね?
周囲は普通に住宅街です。駐車場など在りませんので注意です。
炎に包まれた『神=火之迦具土神』を産んだが為に身体に火傷を負って『黄泉の国』へと旅立った『伊邪那美之命』を奉る神社が佐久に在ったんですね。
『伊邪那岐神社』は確か『淡路島』に在ったような。(しかも日本最古の神社とか)
『伊邪那美神社』他所では記憶に在りません。(試しにググってみたんですけど分からん)
境内には色々な『山岳信仰』や『道祖神』等が奉られていました。
此の地面に埋もれた石には何か意味が在るのだろうか?
此処にも建物が在って基礎に使われていたように見えるんですけど。
古い『祠』なども並んでいます。
石積みを見てもかなり古い形式の『野面積み』
果たして何時頃の物か………教育委員会さん。出番ですよ。
『夫婦道祖神』なども収められています。
一番右の医師が気になる。
拝殿の隣には小さな『御社』 でも何も書かれていないから解りません。
『注連縄の紙垂』が新しいから最近『祭事』でも在ったのでしょうか。
この手の石碑に刻まれた年号を読み取るのが好きなんですけど、ナンセ暑くて。
今回はこんなもんにしときますか。興味ある方一度訪ねてみては如何?
『佐久市・根々井』は『湯川』の北側に在り、川の浸食作用で造られた平地に民家が集中しています。かなり古くから集落が在ったのでしょう、道路は曲がりくねっており、生活道路をそのまま舗装したように感じます。
河岸段丘の上に民家が広がらなかったのは恐らく『飲み水』の問題だったのでしょう。今でこそ『用水』が引き廻され『田畑』が完成していますが、古くは『濁川』が流れていたのみ。飲用には適さなかったのかも知れません。
『根々井公会堂』の裏手に神社が在ったとは知りませんでした。
公会堂にバイクを停めまして。
私、神社参拝の際には出来るだけ『一の鳥居』から潜ります。
車で潜る場合は車の中で礼を捧げます。(安全運転第一です)
此れが結構各地にあるんですよ。
『富士浅間神社』(奥社は富士山頂)とか『出雲大社』、『弥彦神社』なんかも一の鳥居がかなり離れています。中には海の中の『岩に建てられた鳥居』なんてのが『一の鳥居』だったりするのも存在します。
『安芸の宮島・厳島神社』は辛うじて引き潮の時に潜れます。『大洗磯崎神社』は波の打ち付ける岩の上で近づけないし、『福岡・宗像大社』なんてチャーター船でしか行けない。しかも許可なく上陸禁止だとか。
敷地内は児童公園になっていてブランコなども設置されています。
何だコンクリートの塊りだけど……… オブジェ? 遊具? 上に何かが乗っていた?
解りません。ご存じの方googlemapにでも情報提供お願いします。
風雨や害獣から保護する為の拝殿に大きな扁額が掲げられていました。
『伊邪那美神社』 『伊弉諾尊・イザナギノミコト』の奥さんとなり、共に日本を創造した『古事記』に登場する神様です。
『伊邪那美尊・イザナミノミコト』は色々な神様を産みます。
最初に生まれたのが『水蛭子』でも未熟だった為『海』へ流したとされます。ところが生きていて成長し戻って来た時『恵比寿神』と呼ばれる様になります。
次に生まれたのが『淡路島』 『日本の領土=島』を次々と生み出します。『国生み』
その後も次々と『海の神(大綿津見の神)』『山の神(大山津見の神)』『水の神(早秋津日子神)』『穀物の神(大宣都比売の神)』などを産み、『火の神(火之迦具土神)』を産んだ時、全身に火傷を負い命を落とし『黄泉の国』へと落ちます。
嘆き悲しんだ『伊弉諾尊』は亡き妻を負追って『黄泉の国』へ降りて行きます。
地上に出るまで『妻の顔』を観ては成らぬと云う『黄泉の国の神』との約束をたがえてしまい結果連れ戻す事は出来ませんでした。
地上に戻った『伊弉諾尊』は死者の国の穢れを落とす為に身体を洗います。この行為を『禊』と云い、参拝の際に『手水舎』等で手や口を清める行為に通じます。
この『禊』の時、左目を洗った水から生まれたのが『天照大御神 ♀』 右目を洗った時の水から産まれたのが『月読命 ♀』鼻を洗った水からは『須佐之男命 ♂』が生まれたとされます。
『古事記』に『伊邪那美尊』が登場するのは『黄泉の国』迄。
『伊弉諾尊』を奉る神社は『熊野・花の窟(いわお)神社』が在ります。
境内に足を踏み入れると不思議な感覚に包まれました。間違いなくパワースポットです。
『伊邪那美神社』がこんな身近に在ったとは!
でも謂われなどの案内が一切無し。残念です。
自然光のみで撮影したらブレちゃった。
後半へ続く。
佐久平駅の南側~『旧中山道』の北側辺りを『樋桶(だったかな)』地区と云いますが、30年程前はリンゴ畑の向こうに浅間山が見える牧歌的な場所でした。
バイパスの開通や、『新幹線佐久平駅』が出来、駅周辺の開発が進むと『群馬発祥の大型ホームセンター』や全国展開の商業施設が列挙して進出、私が暮らしていた『東京・多摩地区』よりズ~っと開発された街になっていました。
『イ〇ン』と『カ〇ンズ』の間を通る『県道44号線=浅科塩名田線』が『旧中仙道』のバイパスとして開通していましたが、それこそ道の両脇は田圃と畑ばかりしか在りませんでした。
『佐久平駅』や商業地に近く利便性の高さから新興住宅街があれよあれよと広がりました。
『まんが舎』の在る一角に『砂田公園』が完成しました。
前回『まんが舎』を訪れた時はまだ造成中で立ち入り禁止でしたけど。
『ブランコ』や『滑り台』の遊具もまだ新品。
水飲み場も利用できました………が。
近くのコンビニで買い物した後、ベンチで食べたのでしょうか。ゴミが放置されていました。
ゴミ箱が無ければ持ち帰るのが鉄則。ましてやコンビニで買ったのならコンビニのゴミ箱を利用すれば良いだけの話じゃん。
お菓子やらペットボトルの数からして数人がゴミを放置した感じ。
財力から考えても子供じゃ無いだろうし。
非常識な人には利用して欲しくないなぁ。
駐車場・トイレは在りませんから付近住民の特に小さな子供の為の公園です。
ゴミの放置なんて恥ずかしくない?(特に写真は撮らなかったけど)
私の出身中学の大先輩に『漫画原作者・武論尊(本名・岡村善行)』さんがいます。
『北斗の拳』や『花の慶次』で一躍有名になりましたが、私が一番好きなのが『ドーベルマン刑事』です。
『作画・平松伸二』さんの描くかっこよくもチョット危険な刑事像はその後の『危ない刑事』等にも影響を与えたのではないでしょうか。
佐久市では『漫画塾』なる物を『まんが舎』で開いており、講師には『武論尊』さんを始め、武論尊さんんと交流・共感を持つ著名な漫画家さん『あだち充』さんや『編集者』などが塾講師となり、将来漫画家になりたい人を応援しています。
『漫画』って云うと昔は親から『マンガばっかり見てないで勉強しろ」なんて云われ、余り良くないイメージかもしれませんが『アニメ』って名前になると途端に持て囃されるのは何故? (スタジオ・〇ブリのお陰ですかね)
私が小学生の頃、『夏休み』や『冬休み』になると、映画館で子供向け映画を上映していました。『文部省(現文科省)推薦・第○○号』なんて感じで『アルプスの少女ハイジ』『ガメラ』『ゴジラ』なんぞを上映し、抱き合わせ」で『東映マンガ祭り』と称して子供向けのTVマンガを映画編集して上映していました。 『仮面ライダー』だったり『ヒミツのあっこちゃん』なんかを4.5本(コマーシャル無しの10分位)まとめて見せてくれました。
娯楽の少なかった当時、地区の婦人会みたいな人が引率して映画館に行ったのを覚えています。(ぴんころ地蔵駐車場のある場所に映画館が在ったんです!)
『アニメ』がヒットすると、舞台になった街や登場スポットを訪れる所謂『聖地巡礼』が流行ります。
今年は『名探偵コナン・隻眼のスナイパー』の大ヒットのお陰で『佐久平駅幸福の鐘』や『野辺山パラボラアンテナ』を訪れる人が非常に多いとか。どうせなら『ぴんころ地蔵』にも立ち寄ってくれると良かったのにね。
で7月初頭の朝からうだるような暑さの日、朝一を狙って10時に行ってみると………
「開館は11:00からなんです~」と断られてしまいました。
1時間も待ってられないからまた次回ね~と後日の再訪に期待です。
で実は昨日行ってきました。11:00に。
『展示品入れ替えの為臨時閉館』ですと。
ありゃりゃ3度目の正直になりそうだ。
『ごか』の表記には『五筒』の他に『五霞』や『五賀』なども在ります。
『筒』には、水により浸食された『崩れやすい沢』の意味が在り、『五つの沢』が集まる処と考えられます。
この『諏訪神社・鳥居の前』には広場が在り、恐らく周辺の『石像・石仏』等を一所に集めたのでしょう。『六地蔵幢』や『道祖神』中には『?』も
神社の前ですけど『合掌』かな。
で改めて礼を捧げて鳥居を潜ります。
参道を進むと沢の上に立派な橋が架かっています。
神社で『太鼓橋』は神域を意味します。(太鼓橋じゃ無いですけど)
本来の『太鼓橋』は神様だけが渡れるのですが、昨今は『橋の真ん中』を通らなければ良いとされています(一休さんじゃ無いですけど)
綺麗な水の流れの中に『山葵』や『クレソン』が見えます。
おそらく野生でしょう。
先ずは参拝。鳥居や橋の割にちっちゃな『御社』です。
真新しい『祠』も奉納されています。
私のバイクは250ccのオフロード。ほぼ道が在れば走破できます。(道が無くても走る事在りますけど)
林道走行もスピードさえ出し過ぎなければ危険は在りません。(熊も近づいてこない?)
『この道を行けば どうなるものか 危ぶむなかれ』 心の師匠『アントニオ猪木』さんの好きな『道』という詩ですが作者はトンチで有名な『一休さん』とされています。
バイクで道を間違えたら戻ればいいし、行き止まりなら戻ればいい。此処が人生とは少し違うけど人生だってやり直しが効く場合も在るからね。
私の『バイクフィールド』は千曲川を中心に、東は群馬県境を越え『秩父』や『山梨』、西は『八ヶ岳』の麓から『車山』や『戸隠』迄、ほぼ山の中の道は走り尽くしています。
でも昨今の『林道』は完全舗装化されている道が多く、砂利道林道を求めて走り回っても入り口には『営林署』の管轄マークと邪推な『許可車両以外通行禁止』の文字と『ゲート』 正直言って鎖やバーの下を潜れない事も無いのですが、いい大人が禁止されている事をするってえのも考え物ですしね。
林道の中でも『スーパー林道』と名前の付いている道は『公共道路扱い』ですので進入禁止の通行規制は在りません。(自治体に払い下げられた場合は有料道路の場合も在りますけど)それでも決められた制限速度や歩行者・対向車に注意するのは当然ですけどね。
『八ヶ岳の裾野』は大きな道路が取り巻いてますので、入り込めた林道の行きつく先は『舗装路』ってパターンがほとんどです。若しくは『行き止まり』。車がUターン出来るだけの広さが在るから『山菜取り』や『渓流釣り』で入り込む人が多いのでしょうか。
そもそも『林道』って『林業従事者』の為の道路だから、遊びで走るのは二の次ですけどね。
綺麗な水を求めて辿り着いたのが『小海町千代里・五筒』です。
人里離れた山の中に『ポツンと〇軒家』ならぬ集落です。
こんな山の中に(失礼)これだけの民家が在るとは。郵便ポストは勿論、ゴミの回収も来ますし、『移動スーパー』も立ち寄るみたいです。『消防小屋』や『集会場』『広報用スピーカー』も在るみたいです。
こんな山の中の里、『平家の落人集落』とか云われるみたいですけど真意は定かで在りません。
集落の外れに『諏訪神社』が奉られていました。
その前に清流でタオルを濡らしペットボトルに水を汲みます。
余りの冷たさにペットボトルの表面は直ぐ結露してしまう位です。
では水も汲んだし『諏訪神社』参拝してみますかね。次回です。
『小海町・千代里』の『渋沢川』には私だけが知っている(知っている人は知っている)『川の落ち込み』(滝って程じゃ無いですけど)が在って、子供が小さかった頃、川遊びした事があります。二十年振りに尋ねてみた処草木が繁り過ぎてとても川まで行ける状態じゃ無かったです。
じゃぁもう一つの川『荒倉川』へ行ってみるかと。
『渋沢川』と『荒倉川』が合流すると名前が変わって『本間川』になります。
普通は水量の多い川の名前の方に吸収されされちゃうんですけどね。(不思議)
越境したとかも無いのにですよ。
『千曲川』が新潟県に入ると『信濃川』と名前が変わる。長野県内を流れる『千曲川』と呼ばれる部分の方が長いのに、『日本一長い川は信濃川』と誰が決めたんだろう?責任者出てこいヤ~!
イヤー驚いた。道が良く成り過ぎちゃってて全然わからない。
で適当に走っていたらこんなん見つけました。
ぱっと見『墓石?』と思いましたが説明が書かれているからバイクを停めまして。
江戸末期『馬流』に生まれ、18歳にして『甲州韮崎』で私塾を開きます。
26歳の時、郷里に戻り困難とされた『千代里(杉尾)』の開拓に着手します。
漸く完成しますが心労が祟り僅か29歳にして早逝してしまいます。
寝る間も惜しんで世の為人の為に働いてくれたのかも知れません。
『篠原京助』さんの尽力した用水路の遺跡が在るそうなのですが、藪の中で発見できませんでした。(冬場・草が刈れた頃再訪しますか)
昔は『私財』すら投げ売って、世のため人の為に尽くしてくれた立派な人が沢山いるのに、世のため人の為に働く事を約束して選ばれたはずの政治家が余りにもお粗末すぎる。
私財を投げ売つどころか『私腹を肥やす』事しか考えない政治家や、弱みを握られて『外国』の言いなりになっている政治家。あんた等『売国奴』って言葉知ってる?
今度の参院選(7/20) 少しでも政治をまっとうにしたいなら『投票』しましょうね。
『日本の将来』 『子孫の未来』が掛っています。
私ゃ『期日前投票』してきたもんね。
『海尻』 佐久方面から野辺山方面に国道を走ると『短い隧道&急登坂』を越えて直ぐ下りになります。下った先の交差点が『海尻城跡』交差点、角に『医王寺』の入り口が在ります。
この交差点から『大月川』沿いに八ケ岳方面に向かうと『稲子』や『八ヶ岳カントリークラブ(閉業)』 が在ります。『稲子湯旅館』では立ち寄り入浴も出来ます。
『大月川』は西暦888年の『八ヶ岳山体崩壊』の時、『稲子岳』『天狗岳』付近の大量の土砂が流れ下り、『千曲川』を堰き止めて大きな『天然ダム湖』を造りました。この『大きな湖=海』が各地に残る『小海』『海尻』『海ノ口』などの名前の由来とされています。
しかし一年後、天然ダムは決壊し下流に大被害を引き起こしました。そこに創り出された扇状地が『佐久平野』です。
江戸時代になると『佐久甲州街道』街道が整備されます。
『佐久往還』ともよばれ、甲州からは『善光寺詣で』や『物流街道』として大量の物資の移動が在りました。現在の国道141号線がほぼこの道筋にあたりますが、『戦国時代』には重要な『軍用道路』でも在りました。
『宿場町』も『韮崎宿』『平沢宿』『野辺山宿』『広瀬宿』『海ノ口宿』『海尻宿』『上畑宿』『高野宿』『臼田宿』『野沢宿』『中山道・岩村田宿』へと続き、古くから栄えた宿場では必然的に『神社仏閣』が奉られています。
『医王寺』の脇から遊歩道を渡ります。奥が国道141号線、右が野辺山方面。
新しい『導水橋(水道管)』とかなり浸食した『大月川』 結構な高さが在ります。
国道から一本東、裏道に当たる『佐久甲州街道』に立つ大木の松。
『海尻のヒメコマツ』は『長野県天然記念物指定』です。
『ゴヨウマツ』は『五葉松』の事で、通常の『松葉』は二本ですが、五本在るのが『五葉松』 盆栽などに多用される松です。
『盆栽』ってワザと大きくならない様に小さな『鉢』に植えて根の成長を抑えます。
数百年(!)以上経った『松の盆栽』もあるとか。
岩の割れ目などに生育する『松』も小さいけど実は数百年いきているのかも。
『新潟・明星山』で採取された『五葉松』の『真柏』 その幹は白く枯れながらも松葉は生き生きとしており、背丈は小さくとも幹は太く立派です。
お値段最低でもウン百万円とされ、一獲千金を狙って断崖絶壁に挑み、命を落とした人も少なくないそうです。(現在では採取禁止と共に採り尽くされたとか)
育つ環境が違うとこれ程までに差が着くんですね。(私ゃ伸び伸び育てたい)
因みに『三葉松』を『弘法大使・空海』の逸話に例え密教法具の『三鈷杵』と呼びます。
『高野山』『諏訪大社』や『能登見附島』など各地で見られ、拾えると幸運を呼ぶそうです。
簡易郵便局前の駐車場と『医王寺』の間に鳥居が在ります。
何時もは通過ポイントなので横目でチラ見するだけで通り過ぎてしまいますが、今回は『海尻宿散策』ですので。
『佐久甲州街道』は『信州東部』と『甲州』を結ぶ主要街道の一つで、『善光寺詣で』や『物流街道』として重要な役割を果たしました。
現在国道141号線が通っていますが、『海尻諏訪神社』の鳥居が国道脇に建っているので通った人は見ている筈。
でも『佐久甲州街道』は現国道から一本東側を通っていますので『鳥居』だけ移築したのかも知れません。
向かって右が『海尻諏訪神社』幟立ても見えます。でも左の建物なんだ?
『扁額』には『祖霊社』と書かれており、お地蔵様や建物裏手には墓石なども見えます。
調べてみようと思ったら『扁額』の後ろに大きな『スズメバチの巣』を発見。
私ゃ『蛇』や『熊』より『スズメバチ』が大っ嫌い!(刺されてアナフィラキシー持ってます) 兎に角見つけたら近づかないに限ります。
石柱に『第六區・郷社・諏訪神社』と彫られています。 『六區』って何だ?
石造りの鳥居、『笠木』の部分をよく見ると中央部分に継ぎ目が見えます。
左右の柱を貫く『貫』の上にある『額束』が『笠木』を支えている構図です。
直ぐ傍らを砂利満載の大型ダンプなどが頻繁に行き交う場所に建っています。基礎や地盤がかなりしっかりしているんでしょう。(たまに地震などで、崩れちゃってる石鳥居を見掛けます)
先ず拝殿にて参拝。その右手には
『海尻・医王寺』の参道に『海尻城跡』へと続く登り口が在ります。
正確な築城年は分かっていませんが1540年に『海尻城決戦』の記録は残っています。
『佐久市・前山』の『伴野氏』配下『井出長門守』の城として造られた『海尻城』は南から攻めて来る『甲斐武田軍』との最前線としても重要な場所でした。その為信濃の国東部に影響力を持っていた『村上義清氏』も参戦し『武田軍』と対決、此れが『海尻城決戦』です。『村上軍300』に対し『武田信虎群3000』と圧倒的な戦力差に敗退してしまいます。以降『武田軍』の信濃攻め拠点として使われました。逃げ延びた『村上義清氏』は『上杉謙信』に助けを求め後の『信玄VS謙信・川中島の決戦』へと続きます。
『醫王寺』の屋根に『寺紋』が掲げられていますが『武田菱』です。
東信地方の寺院の多くに『武田菱』が見られますが、『武田軍』に忠誠を尽くしている処を見せないと最悪壊されてしまうから?
北信地区では『上杉謙信』の影響力から『竹雀』の紋や『毘』の文字が見られる寺院が多いみたいです。
因みに『仙台伊達家』の家紋も『竹に雀』、戦国武将同士で血縁関係を結ぶ事は戦略の一つでも在り、『上杉家』も『伊達家』から養子を貰いこのお返しとして『竹に雀』の紋を贈られます。(デザインは若干違うみたい)
因みに『真田氏』と『伊達家』も様々に繋がりが深く、『真田の姫様』を『伊達家』がかくまった事も在ります。そのお陰で上田地方に『ずんだ』の文化が根付いた?
『海尻城』とだけ書かれていますが距離とか時間の情報が在りません。
スマホで『グーグルマップ』を確認。遊歩道までは書かれていませんが大体の位置関係からそんなに苦労はしないだろうと歩き始めます。
実はさっき買ったお茶の残りが余りない………
散策路は木陰に覆われているみたいだから何とかなるかな。
10分少々で山頂です。ベンチが在るから一休み。
海尻の地士の協力により一度は『村上氏』優勢にもなったが『武田軍』強すぎでした。
本堂は施錠されていましたが、『薬師寺』と名前が着いていますので『薬師如来』が奉られている筈。
境内を散策してみると
『大悲千手睍・だいひせんじゅけん』
『睍・けん』一文字で『美しい』とか『ちらっと見る』の意味で、 『睍院』とすると『ウグイスの鳴き声』の事らしいです。
靴を脱いで上がり、正面の丸ガラスから覗き込みましたが反射して写真失敗です。
気になる方ご自身の目で確認どうぞ。
御堂の壁に取りつけられた『天女像』も素敵。 紋は『武田菱』これさえあれば壊されないで済んだ?
御堂下の『一葉観音』 普通『お釈迦様』と云えば『蓮の花びら』ですが、『観音様』は『蓮の葉っぱの船』に揺られています。(能登・総持寺で観たのかな)
実は参道の途中、多重塔の脇にこの入り口が在りました。
『海尻城跡』 こりゃ行くしかないでしょう。
さっき買ったお茶の残りが1/3程。足りるかな。
『後何メートル』とか『城跡迄〇分』の案内が無いからチト不安ですけど。
『虫よけスプレー』を腕や顔周りに散布しまして出発。でも次回です。
国道141号線沿い、『海尻城跡』交差点脇に山門が見えます。
此処に寺院が在るのは知っていましたが、流れに乗って気持ち良く車を走らせているとついつい止まるのが面倒くさくなっちゃって。
今回は『海尻宿』の散策ですからバイクで訪れました。
前回『小海線の駅舎』をテーマに『海尻』を訪れた時、入り口は工事の足場が組まれていました。
でもそれらしい工事の跡が見当たらない。何の為の足場だったんだろう?
『天台宗・海尻山・医王院・薬師寺』 山号の『海尻山』を『かいこうさん』と読みます。詳しくはWikipedia。
力強い仁王像が出迎えてくれます。
だそうです。てっきり門番かと思ってた。
さらに進むと石積の上に鐘楼。 ん? どうやって登るんだ⁉
♪ 白樺~ 青空 南~風~ 滔々と春の情景を歌い上げる『千昌夫』さんの『北国の春』 作詞家の『いではく』さんは『海尻』の出身です。
『海尻簡易郵便局』の近く、広めの駐車場にバイクを停め、嬉しい格安飲料自販機『ハッピー〇リンク』で麦茶を購入グビグビと水分補給で人心地です。初夏とはいえグングン上がる気温に身体が着いて行かないです。まして『バイク』は風を切って走っている走行中は良いのですが、信号待ちなんぞで停まった瞬間から『灼熱地獄』の始まりです。だって体の下に『発熱機』が在るようなモノ。江戸時代の唯一の暖房器具は火鉢で、寒い時は着物の裾をまくり上げ『火鉢』を跨いで股間を温めたとか『金〇火鉢』と云うらしいです。
転倒時の安全対策で『革製ライダースーツ』なんぞを着る方も居ますけど夏は無理!
私は『ポロシャツ』の上に『薄手のフリース』程度ですがそれでも熱い!ましてやカメラを構えて歩き廻る時は直ぐ脱げるように『フルジップタイプ』が便利です。
『国道141号線』の脇に『いではく』さん生誕の地の石碑が建っています。
『いではく』さんは、早春の『八千穂高原の白樺林』(観光マップには日本一の白樺林と書かれています)を訪れ『こぶしの花』に春の訪れを感じたのでしょう。
『八千穂駅前』にも『北国の春』の歌詞が彫られた石碑が建っていますが『八千穂高原』への最寄り駅だからでしょう。
『松原湖畔』には『北風小僧の寒太郎』の歌碑が在ります。
此方も『作詞家・井出隆夫』さんの出身が小海町で、厳冬の『松原湖』で遊んだ(スケート?)際に『八ヶ岳下し』と云われる凄まじい寒風を体感し、其の記憶から『北風小僧のい寒太郎』が生まれたそうです。
歌詞の ♪ 電信柱も泣いている 電線が風に吹かれて ヒューン ヒューン ヒュルルン ルンルン ってホントに聞こえるんです。
『北国の春』も『北風小僧の寒太郎』も北海道の歌と思っている方が多いですが実は『長野県南佐久』でした。
国道沿いに『いではく』生誕の地は在りますので今度お近くをお通りの際は訪ねてみては?
位置的から『東』じゃ無くて『南』じゃん。なんて無粋な事は云いません。
地名が『東小諸』かと思ってましたら通称なんですね。
『甲』『加増』『御幸町』などに在る『スーパーマーケット』『中学校』等に『東小諸』という名前を付けてますが地名では在りませんでした。
この『東小諸駅』過去に一度だけ訪れた事在ります。(乗降は無いです)
『国の天然記念物・天狗の麦飯』が在ると聞き出向くと、駐車できる場所を探して当時『タクシー会社』の駐車場(空き地?)を見つけ、許可を貰って駐車しました。
其の時、道路の終点に地下道が続いていました。何だろうと覗き込むと『地下横断道』線路で分断された『歩行者&自転車』の為の通路でした。
果たして反対側は如何にと地下通路を通ると出口に見えたのは『東小諸駅』の入り口でした。
厳重な金網
道路の行き止まり部分に地下道が
この手の地下道、女性一人じゃ通れない様な治安の悪い場所も在るんですが、此処はどうだろう。明るい雰囲気と、民家隣接で安全安心? もっと人通りが在れば尚の事安心なのですが。
此れが『東小諸駅』の入り口。例の『赤い発券機』と『ステンレスの回収箱』
ほろ苦い青春の分岐点だった『乙女駅』 ホームに降り立った事、有ります。
実は以前も写真撮影に訪れていたんです。
其の時は『切符の自販機』が設置されていて、係に人が料金回収に来ていました。
今回訪れてみると? 見当たらない。料金回収の手間暇と『自販機荒らし』のリスクを判断し、例の『赤い発券機』の導入です。
階段を降り『乙女駅』のホームに立って驚いた。
アレ?さっきまで誰も居なかったのに男性が立っている。
駅の反対側から撮影した時も、階段を下る時も人影は無かったのに………まさか
その男性、カメラを構えて、レンズを小諸駅方向に向けています。
一応「こんにちは」と声を掛けると「こんにちは。もうすぐ『しな鉄』が通過しますよ」と教えてくれました。私が首からカメラをぶら下げていたのを見て『撮り鉄』と思ったのでしょう。じゃ私もカメラを向けるしか無いじゃない。
私、この男性のカメラの邪魔になると思い写り込まない場所(階段脇)に身を隠して撮影しました。『軽井沢』方面に走り去る列車の後姿を追った後、ホームの端(小諸駅寄り)に居た男性の方を見ると消えた………⁉
暑い夏、真昼間のホラーかと背筋に嫌な汗かきました。
でも会話したし、足も在ったなぁ。 『幽霊』なら女性で夜に出てくると相場が決まっているし、『お化け』の類が『ニコンデジカメ』持ってるか?
男性の居た方向へ歩いて行くと『乙女湖公園』へと続く階段が在りました。
何だ駅への出入り口がもう一ヶ所在ったんだ。
となれば行ってみるのが世の常ですよね。
階段を昇りきると木陰の嬉しい森の中。休憩スペース『森の駅』なんてのも在りました。
五分程歩いて下った先に見えてきたのは駐車場。
『乙女湖公園・小諸文化センター』の駐車場へと続いていました。
この『小諸文化センター』では『コンサート』や『消防団音楽隊』『高校生合同発表会』などのイベントが時々行われ、訪れた事在ります。でも駅に直結していたとは知らなかったな。というか昔は駅から直接『小諸文化センター』へ行く人が多かったって事だろうなぁ。
『乙女』 何とも『ロマンチック』な響きです。(乙女チック?)
元々名前の由来は『小諸城・二の丸』が千曲川河畔の絶壁の上に建ち『大遠見』の別名を持っていました。『大遠見』へ続く坂道が『乙女坂』、やがて『二の丸』の事も『乙女城』と呼ばれるようになりました。
『乙女湖公園』の南側には高台が在り、南からの侵略(武田軍)に備え見張りの為の『砦』が在ったそうです。(現・信濃仏舎利塔の辺り)
遠くを見渡せるから『大遠見』、其処から『乙女』になった説も有ります。
まぁ『小諸』は坂が多く、チョットした小高い山に登れば『遠くが見渡せる』事から『遠見』や『富士見』の地名が見られます。
案外『東御』の名の由来も此の辺りだったりして。(東部町+御牧村の合成語です)
『乙女駅』は橋の袂から階段を下ります。
駅舎裏手に民家の屋根が見えますけど(今は無人?)其処に廻りこむ舗装路でも駅に辿り着けます。
一見すると『複複線(レールが6本)』にも見えますが、手前の2路線は『JR東日本』から『しなの鉄道』に払い下げられた線路です。維持管理が大変そう。
高校時代(今から40年以上前)『柔道の地区大会』が『上田市体育館』で行われました。終了後に私たちは上田駅から信越線に乗り『小諸駅』で『小海線』に乗り換えです。一方『軽井沢』まで帰る『軽井〇高校・柔道部員』が一本遅れて『信越線』に乗車した模様です。小海線は『東小諸駅』に停車の後、加速の最中に『軽高部員』を乗せた『信越線車両』に追いつかれました。並んで走る『信越線車両(電化)』と『小海線(ディーゼル機関車)』 お互いを確認し最初は窓を開け「来年も頑張ろうな」などとエールを送り合っていたのですが『先輩』からお前らも何か言え! の命令に大声で『来年もやろうな』みたいな事を叫んでました。その内先輩が発した『お前の柔道着、臭かったんだよ』から『ガキの口喧嘩』宜しく罵詈雑言の応酬が続きました。暫くして小海線は『乙女駅』に停車する為、あっという間に両車は離れましたが、車掌さんが『乙女駅』到着のアナウンスの際に、「次は乙女駅に停まります。綺麗な名前の駅ですので余り下品な言葉はお控え下さい」に車内は大爆笑。私たちは顔真っ赤!
余裕のあった時代です。今なら『スマホ撮影』してSNSに即投稿。大炎上でしょう。
ああ。わが青春の分岐点。 因みに線路幅は共に『狭軌=1067㎜』です。
何故半端な数字かというと、『鉄道発祥のイギリス』では『インチ』が使われていたからで『1/2㌅』などを㎝換算した結果だとか。『狭軌・広軌』などの違いは単に車軸幅が狭いと用地買収などのコストが抑えられるから。その代わり『狭い客車』や『スピード』などに制限が付きます。『新幹線』のレール幅(軌間)は1435㎜。此のレール幅の上に車軸が乗り、横5人掛け+通路の客車が乗って時速300㌔で走るんですから。
因みに『ユーロトンネル』(ドーバー海峡海底トンネル)の線路幅も1435㎜です。
おなじ線路幅の為『小海線のディーゼル機関車』が『信越線』に乗り入れ『上田駅』まで走った事も在りました。(昭和45年の頃?)
頑張ってる『しなの鉄道』の銘板は?
旧国道(現県道137号線)からホームの見える『三岡駅』
春、『桜並木』が綺麗な場所です。
道路を挟んで駅の反対側には『木材チップ』の会社が在り、チップにしたばかりの良い香りが漂ってきます。
駅に行くには県道から踏切りを渡って回り込まないと行けません。
故に『三岡駅駅前』を知ってる人どの位いるのでしょうか。
あら。随分久しぶりに訪れたら駅舎が新築になってる。
昔は木造の小さな駅舎だったんですけど。
駅周辺には『物流会社』のトラック駐車場や『自動車運転教習場』(現在は原付実技講習や高齢者運転講習の会場になっています)そして『蕎麦屋』(此処お勧め)が一軒だけ在ります。
駅に着いた時、ホームで車両が待機していました。てことはすれ違い車両が来るのを待っているのかな………
警報機が鳴っている中、不意に建物の陰から現れたのは『ハイブリット高原列車1375号』
『電動モーター』と『ディーゼル機関』のハイブリッド車で、日本で最初に実用されました。『1375』はJR最高地点の高度で、『人みな幸福』と読ませます。
此の『JR最高地点』は『野辺山高原』に在り、『SL C62』の動輪を御神体にした『鉄道神社』も近くに在ります。(昨今の『野辺山』は『少年探偵』の映画のお陰で非常に混雑しているから御注意)
此の車両、駅から発車する時モーターを使います。低回転でも高出力を発揮できるモーターのお陰で、音もなく実に滑らかに走り出します。
『SL』の発進するシーンでは、軽量時はトルクを使ってゆっくり走り出すことが出来ますが、貨物車両などを連結している時は動輪が空回りする位にクラッチを一気に繋いで動き出します。その後ゆっくりと加速しながら回転数を上げて行くと『シュッシュポッポ』のリズムに聞こえます。
『タモリ』さんの『SLの発進の口マネ』で「最初はゆっくりとジョシ 続いてダンシ。此れを繰り返して ジョシ~・ダンシ~・ジョシ・ダンシ・ 女子・男子・女子・男子」
ってのが在りました。『タモリ倶楽部』の鉄道編で披露したのかな。大好きだった番組です。
例の『発券機』発見。 無人駅です。
トイレ・水道・駐輪場。近くにコンビニが在ります。
次は『乙女~。乙女駅です』
私が高校生の頃(上京する前)にこの駅は在りませんでした。
何時造られたのか調べてみたら1988年駅開業となっています。
『小諸市・和田』に工業団地の計画が出来、通勤者の為に新駅の開業となりました。
私の知る限り桑畑や田畑の広がる以外、何も無かった場所じゃ無かったっけ?
小海線のオーバーパス道路には、この案内看板が在るのみ。
河川に掛かる橋ならば、橋の名前と河川名が記される場合が多いですが、此処では『小海線』と書かれた銘板が置かれています。
ロータリーが在り、駐輪場が二か所設置されています。結構自転車も停められていました。訪れた平日、停められている自転車には高校名が書かれたステッカーが張られていますので通学者が多いのでしょう。
トイレ・水道・電話ボックスも在りますよ~
赤い『乗車証明発券機』が設置されています。
『中佐都駅』も降りた事無いです。
昔は田圃中にポツンとホームだけが在ったと思います。(50年も前?)
『中里』ならまだしも、『中佐都』 地名ですかと調べてみると地籍は『長土呂』
『佐久鉄道が『中込駅』まで開通したのが1915年、その後1935年には『小淵沢駅』まで開通し『小海線』になりました。
駅名を着ける時、『中山道』の傍に位置し、『京都と東京の中間に在る佐久』から造られた駅名だそうです。『長土呂駅』じゃ『秩父・長瀞』と混同しちゃうから?
因みに新幹線の『佐久平駅』 何故『佐久駅』じゃ無かったのかご存じですか?
『国鉄』以降『JR』の現在も、切符の誤購入を防ぐ為に、同じ名前の駅名は使ってはならない規則が在ります。
『佐久駅』は北海道に既に既存していた為『佐久平駅』としました。
私が学生の頃、北海道をツーリングして『駅泊』しようと訪れた『佐久駅』、当時周囲に民家も無く、電話ボックスに灯が在るだけの無人駅でした。
夕方、やっとの思いで辿り着いても人影無し。店も無し。昼に一袋5円で買った『パンの耳』の残りで食事を済ませ、酒を吞む事も無く(未成年!)寝袋に潜り込みました。夜中にディーゼル機関車(非電化路線)が駅に着きましたが降りる人も無く、何事もなかったように機関車は出発。元の静寂に包まれました。(ホントは虫の鳴き声がうるさい!し、『蚊』も飛び回ってた)それでも体が疲れ切ってて朝まで爆睡したなぁ。
そんな『佐久平駅』 子供探偵の映画Hitのお陰で『アニメ聖地巡礼』をする人が多く、カメラをぶら下げて駅の写真何ぞ撮っていようものならオタク扱いされそう。
で今回敢えて『佐久平駅』はパスします。
30年前、新幹線『佐久平駅』が完成すると接続する『小海線』を『高架』にする為の大規模な工事が行われました。其れまで砕石の上に置かれた『木製の枕木』に『犬釘』で固定されたレールでしたが、『コンクリート製枕木(木じゃ無いけど)』に『固定クリップ』で固定されています。
周囲は新興住宅街。昔は何も無かった様な………
踏切脇のフェンス沿いが進入路です。
この右手に畑が在りおばちゃんが作業していましたので軽く会釈(不審者に思われないように)
駅舎は小綺麗に掃除されています。さっきのおばちゃん達のボランティアかな。
ステンレス製の四角い箱は『使用済み切符回収ボックス』
前方にいる運転手(小淵沢方面行き)が回収できない時に使用するボックスです。
赤い『郵便ポスト』の様な物は『乗車駅証明券発給機』
『ワンマンバス』などに乗る時に乗車口で受け取る『乗車ナンバー』が印刷された『整理券』の様な物で、駅名が印刷されています。清算の際に必要になります。
この駅も駐車場・トイレ・水道は在りません。
踏切傍に『ハッピー〇リンク』の格安飲料自販機が在ります。
初夏の強い日差しに焙られ、冷たい飲み物が嬉しい!
でも空になった『ペットボトル』は自販機備え付けの『回収ボックス』へ。これ絶対です。
先日、新しい駅舎の完成記念式典が行われたようです。
『岩村田駅』は柔道の対抗試合の為に何度か下車しています。
私が高校の時、『中込駅』や『岩村田駅』にもkioskが在って、一年中『冷凍ミカン』が買えました。(確か四個¥100。カップ入りアイスクリームが¥50の頃) 駅弁も売っていました『高原のカツ弁当』 売れ残ると駅員さんが買っていたみたいです。
ぱっと見『無人駅』の様ですがちゃんと改札が在り、待合室に面して窓口も在ります。
この写真は2025/3、まだ完成式の前です。
構内複線の為、下り線へは跨線橋を渡らなければなりません。
エレベーターが無いから車椅子の場合、駅員さんが人力で運ぶのかな。
改札から先は有料の為、確認していませんが。
建て直す前(2024/3)の『岩村田駅』です。
まだそんなに古くは感じなかったけどなぁ。
駅の文字が旧字体の看板。処分していなければ良いのですが。
以前は『佐久自動車試験場』へ通う人位しか降りなかった駅でしたが昨今、駅周辺が大きく様変わりしました。
『長野県立武道館』の最寄り駅です。会場入りする学生さんなどは公共交通機関を利用する方が多いので、大きな大会などが在ると結構な人数がこの駅を利用します。
他にも『厚生連・佐久医療センター』が近く、路線バスが廃止(市営のデマンドバスは在ります)されて以降、駅利用者も居るみたいです。(尤も自家用車所有割合が高い地域ですからほぼ車で来ますけど)
『駒場公園』には『図書館』『市営プール』や『近代美術館』などが在り各種イベント会場にもなります。
『家畜改良センター・茨城牧場長野支場』の中に在る『松並木の十字路』は散策に持って来い。朝霧の巻く頃歩くのが好きです。
私ゃ格安スーパーの『イオン・ビッグ』が好きでよく利用します。
その線路を挟んだ向かいが『北中込駅』です。
駅前にはロータリーも在り、付近観光案内図も設置されています。
タクシー乗り場も在りますが、電話で呼び出すと近くの『医療センター待機』の車が廻って来ます。
『バリアフリー』の駅入り口。
この駅には『小海線無人駅』には珍しく『切符販売機』のが設置されています。
それだけ利用者が多いのかな。
『中込駅』から『佐久平・小諸方面』に向かうと次の停車駅は『滑津駅』です。
地名からも分かる通り近くを流れる『滑津川』の川床は、一枚岩の上をゆっくりとした流れの川が流れています。夏場、直射日光に照らし出され『藻』が繁殖したりして滑りやすかったのでしょう。
この『滑津川』は『内山峡』から流れる河川で『内山峠』を『分水嶺』として、群馬県側に流れる水は『利根川水系』、『太平洋』と流れ下ります。
『滑津駅』傍の『県道138号線(旧国道141号線)』の少し上流で『香坂』を水源とする『志賀川』と合流します。
民家のすぐ傍にも関わらず、冬になると『白鳥飛来地』となります。『シベリア』から越冬の為に飛来した白鳥は此の地で『産卵』し厳冬期の寒さの中子育てをします。
寒いのは人間だけで、世界的に見ると『河川凍結』しない『佐久の冬』は白鳥にとっては快適なのかも。
民家の脇に在る『滑津駅入り口』 駐輪場も盛況な様子です。高校通学者でしょうね。
民家の間の通路突き当りがホーム入り口の階段です。
『中込駅』から僅か数百メートル。カーブ途中にある為 線路も斜め。ホームも若干斜め?
電車(小海線は機関車です)はハンドルが無い為、カーブを曲がる際は遠心力に耐える為内側と外側の線路に高低差を着けます。高速でカーブを廻るとかなりバンクしなければならない為ですが、ゆっくり走る各駅停車の通過速度と特急などの高速度の車両では必要な傾斜が異なります。そこで取り入れられるのが『振り子式』 台車(車輪&サスペンション)と車体(客車)の間に『振り子機能』を搭載し、高低差の無いカーブでも遠心力に耐えられるように車体を傾ける事が出来ます。
『小海線』を走行する車両では『振り子式』は導入されていない為『滑津駅』では線路そのものを傾けており、若干ですがホームも傾いています。(冬の凍結時は怖くない?)
ホームに『郵便ポスト?』
いえ此れは『無人駅』から乗車する際の『乗車駅証明書発券機』です。
ワンマンバスに乗る時に取る『整理券』と同じ仕組みで、降車時の料金精算の際に必要です。
以前は『ワンマン運転』の車両(電車・機関車問わず)には『乗車口』が在って、整理券を取り、精算時の支払いに使いましたが、中には悪知恵を持ってるヤツがいて『キセル乗車』に悪用でもしたんでしょう。『切符発券機』の無い駅では『乗車証明発券機』の導入が進んでいます。
『小海線の各駅』はいよいよ『中込駅』迄来ました。
『中込駅』が『ぴんころ地蔵』への最寄り駅になります。
最近はほとんどの『路線バス&市内循環バス』が廃止になり『デマンドタクシー』を事前予約して乗るスタイルです。
旅行者には優しくないけど地元民を護る為致し方ない措置だとか。
中込駅前にはタクシーが常時待機しています。
でもほとんどが電話を受け、無線連絡で(迎車走行)出て行きますけど。
植え込みの中に『佐久市周辺案内図』が在りましたけど観る人いるのかな。
因みに『中込駅』を利用する人は通勤・通学者共に結構います。
野沢地区に二つの高校が在るのと、合同庁舎職員・銀行員は公共交通の利用を推奨しているから。
『野沢北高・野沢南校』とも駅から平たん路を1.2㌔程歩きます。『千曲川』を渡る景色は中々のモノで私もウォーキングの際には橋を渡るようにしています。
他、『北斗の拳・デザインマンホール』(現在工事中)が在ったり、『松本開智学校』より建築が古い『中込尋常学校』が在ります。
この学校は『ステンドグラス』が使われていたり、時刻を知らせる『太鼓』が吊るされた『太鼓楼』が在ったりと貴重な資料ですが、一番は『農民』の寄付により校舎建設された事です。此れが『長野県=教育県』の由来です。
『テストの点数=成績』である現代では『受験テクニック』がモノを言うから、塾通いには敵わないです。(と『ドラゴン桜』を観て思った)
『中込尋常小学校』の隣には『資料館』が在り、『SL』や『ガソリン機関車』の展示も在ります。
どうです『中込駅』下車してみません? で『ぴんころ地蔵』も宜しくです。
『蒸気機関車=SL(steam locomotion)』の時代から在った『整備庫&格納庫』
その手前にはかなり昔『転車台』が在りました。基本『SL』は前進走行のみなので上り下りの際に向きを変える必要が在ります。
誘導員の合図で運転手が『汽笛』を鳴らし『動くぞ!』と警告。その後暫くすると連結器の閉塞する音が響きます。連結器の数だけ『ガッチャン』『ガッチャン』と音が聞こえました。今から50数年も前我が家から1㎞も離れているのに音が聞こえました。夜9時に此の音が響くと「そろそろ寝なさい」と云われたもんです。
『太田部』の名前の由来は『太田氏の田圃』とか『大きな田圃』が在ったからだそうです(byウキペディア)
『常和地区』を流れる『田子川』や合流する『吉沢川』の造り出した広大な田園地帯は、かなり古くから田畑に適した土壌だったと思われます。
しかも『水田』を造るうえで欠かせない『河川』が無いと水を供給し続ける事が出来ない。(千曲川から水を引くのは高低差が在り過ぎる)
2019年、発達した台風19号は佐久市の東(県境沿い)を通過、佐久市東部に甚大な被害を引き起こしました。通常『偏西風』に乗って西側から来る台風は、『アルプス&八ヶ岳』の二重のバリアにより被害は軽減されますが、東側を通過した事によりモロに降った雨が斜面を下り、土砂を巻き込んで濁流となり、一緒に流れた樹木が橋脚などにダムとなって堰き止め橋を破壊してしまいました。
山の所有者は林業を維持しづらくなり、樹木を伐採 『禿山』となった跡地は『メガソーラー発電業者』などに転売。広大な面積が太陽光発電の無機質なパネルに覆われています。樹木が繁っていた頃は降った雨は枝葉により緩衝して地面に落ち、地表の草や苔、落ち葉から地面に吸収されていきます。しかし『太陽光パネル』に降り注いだ雨水は流れとなって斜面を下り、地面に吸収される事無く流れを造ります。側溝があっても土砂が流れ込むと一挙に溢れ、予期せぬ場所に集中して土砂災害を招きます。
今後益々『地球温暖化』により偏西風の流れが乱れ、更に『森林開発』という名前の『環境破壊』が拡大すれば………。しかも『大手メガソーラー』は『中〇系企業』が多く、被害が起きても補償すら見込めない。
『東日本大震災』後暫くは街中の街灯が消え、節電意識が高まったのだが、現在は「熱中症対策の為にエアコンを使いましょう」とメディアは繰り返している。これって電力の過剰消費を誘発し、『メガソーラー発電基地』や『原子力発電』の妥当性をこじつけているだけに聞こえるのだが?
当初『45年計画』で認可された『原子力発電所』が何故か『60年使用許可』が成立している。いつの間に?誰が?(〇〇党だろうなぁ)
『太田部駅』 今まで一度も乗降した事在りません。(今後も無いだろうなぁ)
『中込駅』から上り方面『小淵沢寄り』に最初に停まる駅なんですけど、駅の場所さえ正確に知らなかった自分に驚きです。
道路の歩道が直ぐ駅の入り口に成ります。
小さな白い駅舎。トイレ・水道は在りません。
ウイキペディアによると1日の乗降者数は20人程とか。
通学・通院がメインでしょう。無ければ困る人が多数います。
皆で小海線に乗って盛り上げましょうよ!(鉄道なら昼からビール吞めるし)
『臼田駅』から一つ小諸よりの駅です。
駅名の『龍岡城』は『徳川家直系・松平乗謨(まつだいらのりかた)』の居城として築城が開始されました。西洋式築城技術を取り入れた『五稜郭』の予定でしたが時代が『明治』になり、政府発令の『廃城令』により、『星形のお堀=五稜郭』が完成する寸前に築城禁止になります。故に戦死者ゼロ。『松平乗謨』は名を『大給恒(おぎゅうゆづる)』と改め明治政府の要職に就きます。政界を退いた後『博愛社(後の赤十字)』の設立に尽力しました。
『龍岡城・五稜郭』と呼んで『函館・五稜郭』並び日本に二つしかないお城です。
『五稜郭公園』には『牛の吾蔵』の異名をとる『川村五蔵記念館』が在ります。
牛の彫像を造らせたら世界第一人者と称賛され、その力強い『牛』は貴方も観た事在るはず。(上野・西洋美術館所蔵)他にも『ニューヨーク私立図書館・玄関脇彫刻=美と哲学』の作者でも在ります。第二次大戦後、『日本総領事・マッカーサー元帥』に呼び出され胸像の製作を依頼されます。その後も各界の著名人の胸像を多数制作。その『川村五蔵』さんは『臼田町』の出身です。
『長野県佐久平総合技術高等学校(旧臼田高校)』の生徒の通学駅でも在ります。(歩いて25分)
『小海線』は民家すれすれ(江ノ電程じゃ無いですけど)を走ります。
駅舎の裏は普通の民家。
晴れていればこの線路の向こうに見える『浅間山』が素敵。
ホームの長さは『ディーゼル機関車×2両分しか在りません。臨時で接続される3両編成や『高原リゾート列車・1375号』は最後部がホームからはみ出します。下車出来ませんので前より車両に移動してからホームに降りて下さい。
『ローカル線』の車両では『ドア』は自動開閉しません。
折角冷暖房した空気を外に逃がすような無駄を無くす為で、自分で開閉牡丹を押します。降りた後ドアの『閉』ボタンを押すのは義務では在りませんが、高校生は皆一様に他者を気遣い『ドアを閉めて』行きます。流石!
出来るなら、卒業しても 都会の絵の具に染まらないで帰って………
平成の合併以前の『臼田町』 玄関口にあたる『臼田駅』は高校生の通学や、佐久病院への通院者で賑わった駅です。
車社会になり、生徒数も減少すると駅の利用者数も極端に少なくなりました。
訪れたこの日は『臼田・小満祭』まじかで、『モニュメントの狐』とカウントダウンが置かれていました。
私の高校時代、同級生は更に臼田駅から歩いて2㌔の距離を30分ほど歩いて通っていました。時刻表との兼ね合いで時に走ったそうです。
駅の待合室に入ると何故か大勢の旅行者(?)が。
構内は複線。上り下りのホームが分かれています。
跨線橋が無いから、車両が構内に無い時に線路を渡る仕組み。
臼田駅は有人駅で、窓口を見ると硬券切符が並んでいたりします。
小海線駅舎の老朽化により、そろそろ立て替えられる運命だとか。
駅前広場には『臼田』の由来になった『臼』が置かれていたり。助産婦として活躍された『柳本みつ』さんを表彰する碑が建っています。
駅前ロータリーには 観光案内図・タクシー乗り場・トイレ・公衆電話ボックス(貴重です)・自販機などが在ります。(タクシーは電話で呼ぶみたい)
『五稜郭・龍岡城』や『川村吾蔵記念館』への観光は此方が最寄り駅です。
私の恩師や知り合いが『入沢集落』に住んでいますので、『入沢』や『佐久穂町・大日向』方面に行く時『青沼駅』の脇の踏切を渡ります。
『臼田小学校』が合併する前は『青沼小学校』が在り、子供の元気良い声が響いていました。現在も保育園が在りますので、走行はゆっくりと安全にお願いします。
訪れたのはまだ田圃に水が入る前。田圃か畑かは畦(畔シート)が在るか無いかで分かります。
踏切の遮断機の脇が駅入り口。一応バリアフリーの造りにはなっていますけど、石段とスロープの在るべき位置が逆じゃない?
若しくは転落防止のガードレールを設置するとか。
一応トイレ・水道も在ります。これも近所の人が清掃・手入れしているんだろうな。
有償なのか解りませんが、もしボランティア活動なら『企業名(個人名はどうかな?)』を明記してあげたらどうでしょう。
因みに『ぴんころ地蔵駐車場トイレ』は『(株)大進』さん。 『原・バラ公園トイレ』は『(株)佐久印刷』さん。『伴野城址公園トイレ』は『中小屋区民』の方々がそれぞれ『掃除・トイレットペーパー補充』などをしてくれています。
ゴミ箱など設置していませんからゴミの放置は『もっての外』絶対禁止!です。
多分ゴミの放置などする人は、公共の場所を一切片付けた事無いんでしょうね。
(アメリカでは軽犯罪者に道徳を学ばせる為、公共の場所の掃除・ゴミ拾いなどをさせるそうです)
負けた腹いせにパチンコ屋の駐車場にゴミをぶちまける貴方もですよ! そんな人は運気も逃げていくのに。
白くて可愛らしい駅舎。ゴミなんか無い方が良いに決まってる。
電線が無いから晴れていれば『浅間山』が綺麗に撮れそう。
『佐久穂町』は『旧八千穂村』と『旧佐久町』が平成の合併により生まれました。
その『旧佐久町』は南北に貫く『千曲川』と東から流れて来る『余地川・抜井川』、西から流れて来る『北沢川』が十字に交わり、古くから栄えた場所です。
『小山寺窪遺跡』には『竪穴式住居跡』等の他、『平安時代』以降、各時代の『多宝塔』などが発見され整理されて展示(?)されています。
『北沢の大石棒』は『子孫繁栄のシンボル』として日本最大を誇るとか。
『旧佐久町』は『高野町』という商業地が栄えていましたが駅名には使用されていません。何故?
前記の『海瀬駅』と今回の『羽黒下駅』です。
此の『羽黒下駅』が栄えた理由は、広大な面積の木材の集積所が在ったから。
周辺の山間部から伐り出された木材はトラックで運び込まれ、専用貨車に積み込まれ『東京・木場』等に運ばれました。
今でも『羽黒下駅』に隣接して有名な材木商『(株)吉本』が営業しています。
尤も現代では『建設木材』に加工する『プレカット材』の需要が高まり、丸太での出荷は減少しているみたいですが。
私が子供の頃、家の裏に『製材所』と『銭湯』が在りました。
製材所が木を加工する際に出る『おが屑・鋸屑』や『樹皮』を燃料に『釜』を焚き『銭湯』に供給する仕組みでした。
『ベルト式鋸』や『回転鋸』が在って危険な為、作業時に入ると怒られましたが、終業後などに行くと、削りたての木の匂いが何とも心地よく、湿った『鋸屑』の山に潜って遊んでいました。
当時、『防腐剤』やら『農薬』なんて一切使ってなかったから、『鋸屑』の下の地面には大きな『蚯蚓』(読める?)が沢山いて、『鯉・ニジマス』の『釣りの餌』には絶好でした。
『羽黒下駅』では上下線すれ違いの為『複線化』していますが昔は更に『材木置き場』への引き込み線も在りました。
駅前はロータリーになっており『構内タクシー乗り場』も在りましたが今は電話で呼ぶみたい。(恐らく『千曲病院』が在るからかな)
その他にも、公衆トイレ・水道・自販機・観光案内版・駐輪場などが完備。但しコンビニは在りません。
『(株)吉本』の事務所と同じ建物に『簡易郵便局』が入っています。
業務委託でしょうか。(写真撮ったんですけどデータエラー)
気になる方一遍『羽黒下駅』で降りて確認どーぞ。
私ゃバイクで行きましたけど。
此処も有人駅でした。時刻表を見れば田舎のローカル線の現状が解ります。
『旧佐久町』の街並みを見下ろす高台の公園ですから、おそらく以前には『城』か『砦』のの類が在ったのでしょう。
『佐久穂・茂来館』の手前の分岐から廻りこむと果たして
特に説明とか無かったですけど、城主のお墓かと思って近づいたら『御即位記念』
その横に何やら『養蜂箱』らしきを確認しましたので近づかないですけど。
『御即位』ですから『大正天皇』か『昭和天皇』でしょうか。
張り出して『杉の根』が石垣を崩しかけている事から考証するに『明治天皇』も在り?
立派な『東屋』があり、大勢がお弁当を広げられます。
惜しむらくは眺望がゼロ。
隣接の広場は『ドッグラン』になっています。
『ハードル』は分かるんですけど此のモニュメント天皇?
そしてフェンスで囲まれた
此れだけの水量の水が何処から流れ来るのか不思議です。
上流を探しましたけどチョロチョロと流れる農業用水しか確認できず、これだけの水は一体どこから
『厚生連・佐久総合病院』と『千曲川・左岸道路』の間を『道川用水』が流れています。
民家裏から突然大量の水が湧き出ています。
此れは『稲荷山』の下からトンネルを掘り、『サイフォンの原理』で地下から地表に噴き出させている場所です。上流が無いから不思議な場所です。
『秋葉城』の水路も地下トンネルを流れてくるのでしょうか。
『〇電』はホント謎の多い会社です。
更に小海線を北上しまして『海瀬駅』
実は何処に駅が在るのかも知りませんでした。
佐久穂町の国道141号線、『千曲病院入り口交差点』から東に延びている『国道462号線』は『国道299号線』と区間同一です。
千曲川を渡ると『切通し』を抜けますが、其の時『小海線』を潜ります。
まさか『切通し』のすぐ脇に駅が在ったとは。
高架下の『イエローライン』の在る道が国道299号線(兼462号線)
民家を廻りこむと『小海線・海瀬駅ホーム』です。
『使用済み切符回収箱』が在るから正規の出入り口です。
小さな駅舎が在ります。トイレ・水道は無いみたい。
ありゃりゃマナー違反。ゴミは持ち帰りが鉄則なのに放置されている。
『八千穂駅』は降りた事あります。でも小学校5年?のキャンプです。
駅から『駒出池』まで往復歩き! 片道3時間の強行軍の末、到着してから『テント張り』『飯盒炊爨』『キャンプファイヤー』と内容盛りだくさん。でも子供って疲れ知らずだから出来たんでしょうね。今じゃ絶対無理。(引率の先生は大変だ)
『八千穂駅』は今まで何度もブログに登場してますので今回割愛バージョンです。
お勧め。『奥村土牛記念館』『黒澤酒造・酒の博物館』『むかたん(昔し探検)・旧八千穂中学校跡』『第一建設・ドクターブルー(鉄道保守点検車両)』などが駅周辺徒歩圏内です。
車が在れば『八千穂高原自然園』や『八千穂レイク』更には『白駒の池』や『麦草峠』がお勧めです。
八千穂駅は有人駅だったんですね。
多分、上り車両と下り車両のすれ違いをするからかな。
『タブレット閉塞』は小海線では見られません。『信号式閉塞』になっています。
『タブレット閉塞』は昨年『津軽鉄道』で見た位かな。
私の高校時代の同級生は八千穂から『小海線』で通学していましたが、バイク免許を取得してから『バイク通学』専門でした。時間の制約が無いのと、最寄り駅から学校まで歩くのに30分、往復一時間無駄にする位なら雨でも雪(!)でもバイク通学してました。
何で佐久の高校って最寄駅から歩くのかな。『岩村田高校』だけは別ですけど。
失礼ながら『高岩駅』が何処に在るのかも知りませんでした。
千曲川右岸道路『佐久=川上線』は良く走行しますが、駅入り口は何処だ?
『高岩駅』も民家のすぐ脇に在って、清掃などは近隣住民のお世話になっている筈です。
そっか『蟻城跡地』や『東電調整池』の在る『穂積集落』へ上るのに、新しくできた道を登っちゃうからこの踏切を渡った事は無かったです。
割と新しい駅舎です。トイレ・水道・自販機などは在りません。
通学者の皆さん。突然の下痢とか無いのかな。
私が電車通勤していた頃、年に2・3回は腹を下したりして駅のトイレを利用しましたけど。
私の利用していた『京〇電鉄』は各駅に必ずトイレが設置されていて、綺麗なのは勿論、トイレットペーパーに困った事は在りませんでした。
『小海線』の車両内にトイレが設置されているから何とかなるのかな?
私の記憶では、『小海線車両内』にトイレが設置されていましたけど、駅構内でトイレの使用は禁止でした。 何故? トイレが『垂れ流し式』だったからです。さすがに沿線住民から苦情が出て『タンク式』の車両に変わったみたいですけど。(今から55年くらい前の話です)
此処『高岩駅』の千曲川を挟んだ反対側『小海千代里』は『コンビニ』が二軒並んでいたり、『宅配業者』や『配膳業者』も在るエリアです。車で10分も走れば『八千穂駅』から『小海駅』迄行けちゃう。
でも車社会の現代、尚の事交通弱者の事を考えなければ………
この駅も以前ブログに記載しましたので今回は簡単に。
『佐久広瀬駅』が『小海線一の秘境駅』ならば『馬流駅』は『小海線一の面白い駅』
先ず入り口。車で辿り着けるどころか細い路地を進むといきなり『駅のホーム』です。
「黄色い線の内側………」には人一人立つのがやっとの狭いホーム。
ホームに『民家の出入り口』が在る。などなど。
此の地は『秩父困民党』が政府軍に鎮圧された地で、『秩父困民党』が陣を構えた民家(現在在住の為写真は在りません)も保存されています。
『秩父事件』とは明治17年(1884年)に起きた『農民蜂起』の事で、江戸時代ならば『百姓一揆』です。
『現・埼玉県秩父』の農民が『政府の悪政』(此処大事!)や『悪徳高利貸し』の取り立てに対し『秩父困民党』を結成します。元々秩父は『絹』生産で裕福な土地だったのですが需要の減少などにより借金をして農家に転換、しかし不況や不作により高額に膨れ上がった利息に返済不能になってしまいました。
そんな土壌を舞台に『自由党』が結成されれ、『困民救済』を政府に訴えました。
しかし『悪政』と結託していた『高利貸し』は過酷な取り立てを敢行。農民らを『武装蜂起』にまで追い込みます。
『秩父』で起きた『農民蜂起』は『上州』各地にも飛び火し、各地で決起集会を起します。
『明治政府』も武力で鎮圧しようとし『武装蜂起』した『秩父困民党』と幾たびとなく衝突。追われた『秩父困民党』は『長野県境・十国峠』を越え『東馬流』に到達。政府軍の一斉攻撃に鎮圧されます。この時一般民間人も巻き添えの犠牲になっています。
『秩父困民党』は最盛期、10000人規模の集団でしたが最終決戦に於いて多数の戦死者を出し、幹部は死刑・無期懲役の判決を受けます。
尚且つ政府の判断により『秩父困民党』=『クーデター』と位置付け、戦死者の墓を許可しませんでしたが『秩父暴徒戦死者の墓』とする墓石に刻む事で埋葬が許可されたそうです。
『令和の米騒動』と呼ばれる昨今の『米高値』 まっとうに働いているのに食べる事すらできない人が居る反面、外国人でありながら(今まで納税すらしていない)『生活保護申請』し、それを許可する『自治体』と受給する『〇国人』
『日本の国家主席』が『自民党〇〇』じゃその内『一揆』が起きてもおかしくない!
誇張された『SNS』の投稿を鵜呑みに出来ないですけど、正義を振りかざしているだけの『マスメディア』の偏った報道も全てを信じる訳にはいかない。
『フェンスの切れ目』が民家の入り口。
駅舎の掃除や草花の手入れをしているみたいだから有難い事です。
50数年前まで、此処を『蒸気機関車』が走ってたんですから。
羨ましい………いや『五月蠅かった』だろうなぁ。
「次は 高岩 高岩駅 停車です」
まだ蒸気機関車が『上野』~『長野』~『直江津』を結んでいた『信越本線』を走っていた頃、佐久に一番近い駅は『御代田駅』でした。(場所によっては小諸駅)
独立した貨物線の無い『信越本線』では『貨車』の操車場を備えた広い駅構内が必要であり、トラックを横着けして荷物を積み込んだそうです。
その後『佐久鉄道』が『小諸駅』~『中込駅』区間で1915年開業。物資の積み替えは『中込駅』が担うようになりました。
しかし『南佐久郡』内の伐り出した『木材』の運搬などには不便も在り、『小海駅』まで延伸し『国鉄・小海線』に成ります。(当時は小諸行きが上りだった筈)
1935年には『中央本線・小淵沢』まで開通します。
『SL C62 』が客車を牽引して小海線を走り『高原のポニー』と呼ばれました。
中でも『小海町』は大きく発展し、映画館が二軒、銭湯が数件、料亭や歓楽街まで有ったそうです。
『八ヶ岳』の『稲子岳』の麓には伐り出した木材を運搬する為の『森林鉄道跡』が残っています。『トロッコ』に木材を積み込み、ブレーキ操作だけでトラックの乗せ換え場所迄運んだそうです。そして空になったトロッコは馬に曳かせて伐り出し場まで運び上げました。
現在は『ハーベスタ』などの『重機』が道なき道を切り開きながら山の中へ入り込み、アタッチメントで木を切りながら枝払い・均一の長さにカット。待ち構えていた『クローラー』に積んで道なき道を下り、トラックに積み込んだらそのまま長距離輸送。
少ない人数でも山を禿山にするのは訳無いそうです。
木の無くなった禿山では『太陽光発電パネル』がズラリと並んでいたりします。
山に木が在り、樹木に枝葉の有った頃は降った雨や雪が時間をかけて地面に落下し、土の中に吸収されていきますが、『太陽光パネル』に降った雨は表土を流れ、集中した水は時に土砂を削りながら流れ下ります。山道の両サイドの側溝は土砂で埋まり溢れた雨水は道路を流れます。未舗装路では土がえぐれて車の走行が出来なくなり、(林道にゴム板が道を遮るように埋められているの観た事無い?)舗装路でも縁の切れ目などから斜面に流れ出して土を削り、道路の法面崩落を招いたりします。私ゃ太陽光発電は賛成ですが、『メガソーラー発電』と呼ばれる大規模な自然破壊は反対です。(しかも原資はほぼ大陸系)
それも道路を車で走っているだけではぱっと見『メガソーラー』が解らないようにカモフラージュされてる場合が多いから腹立つ! 山などに登った時に、眼下に広がる『太陽光パネル』なんぞを観た日にゃ………
『ショッピングモール・アルル』が出来た頃、テナントには生鮮食料品店・花屋・靴屋・レストランなどが在り、大変賑やかな場所でした。
此処の『トイレ』が有名であり(私ゃ男性用しか見た事無い)『和式トイレ』のドアを開けると一面が便器! 足を乗せる場所が在り、水を流すと足場以外を水が渦巻きながら流れる代物。今でも在るのかな?
『蕎麦』の幟が揺れていましたから『食堂』は営業しているみたいです。
この駅は『北相木村・村営バス』『南相木村・村営バス』(って事は越境していた)の発着の他にも『松原湖行き』や『八ヶ岳循環バス』などが在り、『八ヶ岳』他のアプローチに欠かせないターミナルになっています。
山登りって車で行くと目的地と駐車場の往復しか出来ないから、『縦走・通り抜け』には公共交通機関が必要です。(一部例外在り)
登山客専用の車の『回送専用代行運転』も場所によっては在りますが、お値段結構するのよね。
例えば『黒部立山アルペンルート』を『扇沢』で車を乗り捨て、『立山駅』まで回送して貰うのに基本¥27000+ガソリン代+高速代。(此処は代行者がケーブルカーやロープウェイ・電気バスで移動できるからまだ安い方です) 例えば北アルプス縦走を計画したとして、『上高地』から入山し『白馬』等へ移動する場合は『バス・電車』を利用できるから安価で移動できます。『バス便』などが無い場合『タクシー』って事になりますが、単独行動では馬鹿にならない金額だったりします。更には『回送』、人気の高いルートでは多社が競合しますので納得出来る料金の範疇ですが、『八ヶ岳』を東西に横切る場合、『回送料金』は馬鹿にならない金額です。(基本料金が人件費×2+ガソリン代)
『小海駅』は何度かブログに取り上げていますので今回割愛しますが、こんなの見つけました。
顔出し看板『しあわせ戦隊KOUMIマン』(ピンクは女性じゃ無かったっけ? イエローも胸のふくら………) 男女格差はいけません。ウエストが太く感じるのは遠近法のせいです!
駅構内には『佐久厚生連・佐久総合病院付属・小海診療所』が在ります。
『備蓄米』の放出で何かと問題視される『農協』の厚生施設が『厚生連』です。
特に『佐久総合病院』では『若槻俊一院長』が就任、『農村医療』の改革を目指し、休日を利用して無医村地帯に出張診療を始めました。多くの医師が共感し『集団検診』や『相談員巡回』などの基礎を造り上げました。
私は当然全国規模で同じ事が行われていると思ってましたが、実は『佐久病院』がその先駈けでした。今では日本の離島・アジア・アフリカなどでも『国境な無き医師団』が活躍しており、『若槻俊一院長』はその功績を称えられ『マグサイサイ賞』を受賞。
『アジア版ノーベル平和賞』とでも云うべき賞で『医師・故仲村哲さん』や『黒澤明映画監督』2024年には『宮崎駿アニメ監督』らも受章しています。
『小海駅』行ってみたくなったでしょ?
国道141号線沿いに『松原湖入り口』の交差点が在ります。
『松原湖』とは『猪名湖』や『長湖』『大月湖』など大小併せて五つある湖の総称です。
一般には一番大きくて水深の在る『猪名湖』の事を指します。
冬には名物の『ワカサギの氷上釣り』や『天然スケートリンク』で賑わいます。(昨今は暖冬でスケートは禁止?)
新緑の頃はもとより紅葉時期の『松原湖』は大変美しく『絵』になります。
『松原湖駅』 小海線の車窓から観た事は在っても下車した事は在りません。
『松原湖入り口』交差点の傍に小さく『松原湖駅』の看板が出ています。
民家の間を歩いて『松原湖駅』迄数分ですが、誰がこの道を通るのだろう?
やはり高校生が通学で使うみたいデス。
今回も私はバイクで『松原湖駅』まで。
小さな駅舎のベンチは5人も座ればぎゅうぎゅう。
『松原湖駅』周辺にトイレ・公衆電話・観光案内板などが在ります。
木陰が在る為か、車の中でサボリーマンが昼寝してたりします。
この駅の近くに千曲川を渡る県道と鉄橋が在り、『小海線マニア』の撮影ポイントになっています。
バイクで『千曲川右岸道路』を走って、次の『小海駅』を目指します。
国道141号線を『松原湖入り口』から『野辺山』方面に南下します。
途中『海尻洞門』(土砂崩れ対策の半分解放されたトンネル)を潜ると短い区間ですが急な上り坂が現れます。
すぐ下りになって『海尻集落』ですが、この盛り上がった部分が『仁和3年・888年』に起きた『東海地震・南海地震』による『八ヶ岳崩壊』の土砂の跡。『堰止湖』を造った『天然ダム』の部分です。
「〇〇尻』とは終わりの部分を意味します。「堰止湖=海』の終わりの部分だから『海尻』です。
国道を通過する事は在っても、『海尻集落』に立ち寄る事は無く、『海尻駅』も小海線の車窓から観た事は在っても駅を利用した事は在りませんでした。
踏切傍の空き地にバイクを停め、道路から駅舎を撮影。
冬の寒さ対策の為に扉の付いた待合室です。トイレ・水道等は在りません。
駅の向かいは畑になっており、近づくと警報音が響きます。(赤外線センサー対応)
農作物の『盗難対策』なのか『害獣対策』なのか。まだ『苗』が植えられたばかりですから、多分『害獣対策』なのでしょう。
踏切の脇から舗装された坂を上るとホーム直結です。
『使用済み切符の回収箱』が在るから正式な出入り口でしょう。
驚いた事に『旅行者』らしき人が居ました。
内部の写真撮りたかったけどプライベートを邪魔しちゃ悪いし。
すると警報機が鳴り出しましたので慌ててホームから退去します。
暫く待機していると『下り・小諸行き』の車両がやって来ました。先程『海ノ口駅』のベンチに座っていたお婆ちゃんの姿も見えました。
(ここでカメラをビデオモードに切り替え、撮影したはずなのですが………?データが無い? 折角YouTubeにアップしようと思ったのに)
『JR小海線・海ノ口駅』 私は利用した事ありません。というか何処にあるのかも知りませんでした。(大体の場所は知っていましたけど)
南牧村役場の目の前、コンビニが出来、広い駐車場越しに建物は見えていたのですが此れが駅だったとは。
車が結構停まってると思ったら駅に隣接して『診療所』が在りました。
『小海町』には『厚生連佐久病院』の分院が在りますが、南佐久郡には個人病院と診療所が数ヶ所しかなく、重篤患者は『佐久市』迄通うそうです。
免許を返納した高齢者には通院が大変で、誰かに車に乗せて貰える人はまだ良いにしても、バスや小海線に頼らざるを得ないそうです。更に駅から病院まで歩ける距離じゃ無い………通院の費用も馬鹿に出来ないでしょう。
市町村営のバスは『越境』しませんので、直通便が無いのが難点。果たして交通弱者に優しいのか疑問です。
『JR駅構内』に立ち入ってますから『入場券』が必要ですけど、券売機が無い。(もし請求されたら支払いますけど)
『単線区間』ですので上りも下りもホームはひとつ。此方は小海・佐久平・小諸方面の下り。
長野県東信地区に『海』に因んだ名前が多い事にお気付きとは思いますが、由来はご存じでしょうか?
仁和3年(887年)、『南海地震』『東海地震』が相次いで起き『八ヶ岳』が山体崩壊します。
『八ヶ岳』は西側の穏やかな傾斜と、崩れ落ちた部分がそそり立った崖になっている東側斜面では山の形がまるで違います。
特に『天狗岳』付近から崩落した山体は土石流となって『大月川』沿いに下り『小海線・海尻駅』の辺りで千曲川を堰き止めます。大きな『堰止湖』が出来、天然ダムが崩壊するまでの間は『舟』で通行したそうです。
この『堰止湖』の天然ダムの在った辺りが『海尻』(海が終わるの意味)、千曲川が流れ込む部分が『海ノ口』 (海ノ口・湊神社社史より) 流れ込む『瀬』が『佐久広瀬』です。
『小海』の名前は大きな堰止湖以外にも小さな『湖』があったからとか。
其の時に出来た地殻の割れ目(窪み)に水が溜まったのが『松原湖』と云われています。(観てないから聞きかじりです)
『八ヶ岳・編笠岳』から崩れ落ちた土石流は南に向かい『長坂』『甲斐大泉』『日野春』と三角形の広大な台地を形成しています。(三分一湧水・山津波の記録より)
話は変わりますが『塩尻』 『木曽街道』の分岐に在る『塩尻市』と『上田市・塩尻』も在ります。
『日本海・糸魚川』で製造された『塩』を馬の背に括り付け、『千国街道』(塩の道)を売りながら南下してくると『木曽谷』や『伊那谷』『諏訪』の『塩商人』が待ち構えていてこぞって『塩』を買い求め、塩が売り切れる場所だったから『塩尻』
『直江津』から塩を運んできても『青木村』『佐久』『嬬恋』方面の『塩商人』が集まったのが『上田・塩尻』(らしいです)
『武田信玄』が農民の為に『塩』を入手したくても『太平洋側』は『徳川(松平)』『今川』『北条』の強力武将に囲まれ、仕方なく『日本海』に向けて侵略(長野はいい迷惑だ!)『上杉』と何度も合戦するが(長野以外でやれって~の)結局はドロー。(その内に大将が寿命ですと)
唯一の救いは『足軽兵(最下層兵)』は農民が多く、春の耕作時や秋の収穫時には各々地元に引き上げて農業に勤しんだとか。
しかも当時『決戦の地・川中島』は『川の中州』で在り、地元農民の農作物には被害を与えていないらしいです。(川中島史料館より)
『戦』に於いて『略奪』が無かったとは思えないし、『映画・七人の侍』みたいな事は何処にでも在ったんじゃないだろうか。
え~。結論から言いますと『戦争絶対反対』(『ロ〇ア』『イス〇エル』は侵略者=インベーダーです)経済戦争の発端『ト〇ンプ』や『ウィ〇ル自治区・ホ〇コン』を完全支配下に置き、『台〇』しいては『日本』まで指揮下に置こうとする『中〇共産党』
日本は『戦後』ではなく『戦前』に在るのではないだろうか。
もう一つ『日本南海トラフ巨大地震』 30年以内に70%の確率で巨大地震が発生すると報道されています。でも被害を想定しているのは『津波』がメイン。フォッサマグナの内側に在る『活火山』は活動を開始するだろうし、脆い地表の斜面は崩落が懸念されます。例えば車が在るから『ポ〇ンと一軒家』に住んでる人も道路が崩れ孤立するかも知れない。ハザードマップに『崩落危険個所』が記されていれば付近の住宅は安全だろうか。活断層の上に在りながら、『原発安全神話』を信じ込み『老朽化・取り壊し年数』を経年しても稼働許可を出す政府。 『姶良火山噴火』『天明・浅間噴火』『富士宝永噴火』などの堆積物から推察するに『火山噴火』による『降灰』は農作物を壊滅させてしまうかも知れません。飲み水も然り。対応の遅い政府が動き出すのを当てにしていては助かる者も助からない。各自災害に備えろと云うけど、サバイバル・スキルを上げとこっと。
子供の頃映画で見た『小松左京原作・日本沈没』や漫画『さいとうたかお・サバイバル』がリアルになって来た………。
今日のニュースでは『古くなったガス管』の引火爆発事故が起きてしまいました。
『ガス管』も埋設から50年以上が経過し老朽化、『水道管』『下水管』などと共に交換時期が迫っています。政府は『米』(コメ・対米政策も)の事しか騒いでないけど早急に対処しないと。(名ばかりの国会と議員ですか?)
今回のタイトル『佐久海ノ口』でしたっけ。(ついつい愚痴ばかりに)
『海ノ口駅』の西側に『温泉宿・和泉館』が在ります。
山に向かって細い道に入って行くと源泉が湧き出しています。
更に奥にも露天風呂が在ったと思ったのですが『共同作業施設』になっていました。
情報を仕入れようと『南牧村役場』を訪れました。
正面玄関近くに立てられた『ハザードマップ』 『土砂崩落危険地域』が表示されています。
う~ん『リアル・日本沈没』にならなきゃいいけど。
次回こそ『海ノ口駅』です。
今でこそ車で『市場坂』を走ればあっと言う間に高度を稼ぎ、千曲川の流れる位置から野菜畑が広がる『野辺山高原』迄一気に駆け上がれます。
『市場坂』の名の由来はこの坂の途中に『馬の市場』が在ったからだそうです。
農耕に牛馬を使っていた時代、労働力で在ると同時に貴重な収入源でも在った牛馬の売買は公平を期す為に『公設市場』が設けられたそうです。
『佐久広瀬』は『佐久甲州街道』の宿場町として栄えた処です。『市場坂』からは見えませんがかなりの戸数が存在する集落です。(今は商店すらありませんが)
集落から坂を下り千曲川の傍にポツンと建つ小さな駅舎。『佐久広瀬駅』です。
駐車場から駅に向かうと、ホームの端には白い柵が。此方は入口じゃ無い?
看板には『近くの踏切………』って『千曲川』しかないじゃん。
『JR駅構内』に立ち入ったのですから、『入場料』の支払い義務が発生する筈ですが、切符売り場が無いからどうした物か?
ホームの反対側に『切符回収BOX』が在りましたから正式な入出場口は此方。
だから駐車場側に柵が有ったのか。でも正式なアプローチは泥道………?
『ワンマン運転』の『小海線』の場合、進行方向前方の『運転席』側に出入口が有れば運転手が切符を回収しますが、出入り口が後方の場合『回収BOX』に使用済み切符を投入する仕組みです。
『小海線・中込駅』で『小海線』の切符を購入すると今だ『硬券切符』が入手できます。
申告すれば記念に持ち帰れるそうです。(私、切符は捨てない派です)
この駅から佐久方面の高校に通学する場合、6:59発車に乗り遅れれば遅刻確定です。
野辺山~小海辺り出身の高校時代の友人は、高校近くにアパートを借りて独り暮らししていました。(溜り場ってやつですね)
帰りもクラブ活動なんてしてたら下手すりゃ『佐久広瀬』到着が最終!
そりゃ『帰宅部』在籍になる訳です。
『小海線・岩村田駅舎』の落成式が有ったと新聞に書かれていましたが、私ゃ完成前に訪れちゃってた。まぁ完成前でも普通に通勤通学者は駅を利用して巻いたけど。
五月初旬。ゴールデンウイーク中は休めなかったので久々の『バイク』の日です。
特に行先を決めてませんでしたが、前回は『ビーナスライン』で『ラーメンタイム』(お湯沸かしてカップ麺+おにぎり)したから今回は………?
なんも考えず気の向くままに走り出しまして,走り出しながらそうだ『野辺山天文台』で『名探偵コナン(着ぐるみ)』に逢ってこようかな。
ところが『佐久穂インター』から合流してくる車&バイクが県外ナンバーばかり。(平日なのに?)皆さん一様に野辺山方面に向かっているみたい。
『映画・隻眼のスナイパー』の人気は凄いらしいが、アニメの『聖地巡礼』をする方々がこれ程多いとは驚きでした。(皆が皆、天文台のパラボラアンテナに向かう訳じゃないだろうけど)
バイクでトロトロと走りながら考えました。野辺山行ってもどうせ混雑してるなら、人の行かない所にしよう。
で考えたのが『秘境駅・佐久広瀬』
『佐久甲州街道』の宿場町の在った『佐久広瀬』の峠に立つ『石碑石仏』
昔の旅人は此の峠から『市場坂』を抜けて『野辺山』から『平沢峠』経由で『清里』へ抜けたそうです。
現在の道路事情で考えれば『国道141号線』を快適に走れば、小一時間で走り抜けてしまいますが、徒歩で歩いた時代はどんだけ掛かったんだろ。
毎年ゴールデンウイークに開催される『佐久強歩大会』は『山梨県・韮崎市~佐久市』迄の78kmを歩く大会ですが、夜中の21時に『韮崎小学校』をスタートして、トップは翌日朝の5時21分には『佐久総合体育館』に到着ってんですから。実に78km÷8:21≒9.5㎞/h(正確には秒単位で計算しなきゃですけど)実にマラソン選手の半分ほどのスピードで走り続けてることになります。しかも長~い上りの坂道もあって高低差考えたら大変!
『トレール・ランニング』などの過激なレースに挑む方もいらっしゃるから世間は広い。
『ONE STROKE』と云うレースは、『富士山』の五合目に四つある登山口から、一日で走って四往復する過酷なレース。しかも優勝者は佐久長聖高校出身。人間の限界ってとてつもないですね。
『佐久広瀬公民館』&『ゲートボール場』の脇に案内図が立てられていました。
よく見ると『ハザードマップ』 土砂災害の危険串区域を航空写真で告知していました。
考えてみたら『フォッサマグナ』の中に在り、『八ヶ岳』なんぞは『休火山』 ひとたび『南海トラフ地震』が起きたら安全な場所なんて無いのかも。
家の横には『用水』が流れています。通常の『河川』と違うのは『水門』により水量を管理出来る事ですが、もし水が流れなくなったら溜まっている『泥濘』は悪臭を発するでしょうから他人事では無いんです。
駐車場入り口に何やら見えます。 『野菜神?』
駐車場には自転車が停められていました。高校の通学許可シールが張られていますので『通学者』が毎日利用しているのでしょう。
考えたら駐車場が在っても『車』で此処まで来て小海線に乗り込む人は居ないだろうな。てな事考えながら次回『秘境駅・佐久広瀬の巻』
『光前寺』の境内に『早太郎のお墓』が在ります。
そりゃ『ペット専用霊園』や『ペット専用火葬場』まで在る現代ならさほど驚きませんが、建てられたのが鎌倉時代(?)と記されているそうですが、正確な年号は解らないそうです。
『光前寺』 正式には『天台宗(別格本山)・寶積山(ほうしゃくさん)・光前寺』
『別格本山』とは総本山に次ぐ『特別な地位・格式』を与えられている寺院に付けられます。
話が飛びますが、 『長野・善光寺』は宗派にとらわれない無宗派の寺院で在りながら、住職を『天台宗・大勧進貫主』と『浄土宗・大本願上人』の二人が努めます。
『山号』の『定額山・じょうがくさん』を用いる寺院は他になく『単独寺院』です。
『甲府』や『飯田』に在る『〇〇善光寺』は、戦国時代に戦利品として持ち帰った『一光三尊阿弥陀如来』を安置する為に建造されたとされています。(信長や信玄ですね)
この『御本尊』は『絶対秘仏』で誰も観た事がない筈なのに、コピーの『前立て本尊』が造られ御開帳されます。観た事無いのにどうやってマネしたんでしょう?
善光寺に参拝の際は拝観料を払って『本堂内陣』と『御戒壇巡り』は絶対にして下さい。
特に『御本尊』が収められているとされる『瑠璃壇』の厨子に一番近づける『御戒壇巡り』 では、『瑠璃壇』の入り口に在る『錠』に触れる事が出来ます。
更に七年に一度の『御開帳』の時は『龍幕』の緞帳が開けられ『御本尊(コピー)を拝む事が出来ます。(長野びんずるでも公開したかな?)
鎌倉時代に造られたコピーとはいえ、一目見るだけで感涙モノです。(撮影禁止)
で『早太郎のお墓』
私はどちらかと言えば『猫派』ですので、特に『犬』に思い入れは無いのですがそれでも『光前寺』に来たのですから参拝。
で写真を撮影した筈ですが何故かデータが飛んでる………(早太郎のお墓だけ)
右から二番目の像を見て『家康しがむ』を思い浮かべました。
左の『首なし地蔵』は『廃仏毀釈令』により壊されました。
変な『法令』であっても従わなければ『違法=犯罪者』ですから。
苔むした石垣に時代を見て取れます。
『青森・恐山』に霊場を開いた『慈覚大師円仁』の弟子『本聖上人』が貞観2年(860)に建てたとされる『光前寺』
『武田信玄』『羽柴秀吉』など権力者から絶大な支持を受け、特に『徳川家』からは大名格の待遇を与えられたそうです。
『パワースポット』間違いなしの『光前寺』 ほら行きたくなったでしょ。
参道は石垣に囲まれた石畳を歩きますが、脇にはこんな素敵な『苔の古道』も在ります。保護の為に立ち入り禁止ですが。
湿度が高くて直射日光が当たらない場所に苔が生えるのは当たり前の事ですが、緑に輝く『苔』って心洗われます。
此れが『京都』辺りの寺院だと『拝観料』とか取られちゃうんですからねェ。
佐久にも『貞祥寺』という『曹洞宗』のお寺が在りますが、『苔』に差し込む光との調和が大変美しいお寺です。三重塔も在り、秋の紅葉期お勧めです。しかも無料。
石畳の参道を進むと『三門』です。
普通、寺院には『門』が在ります。
昔は『土葬』だった事も在り、集落から離れた山間部にお寺が建てられました。
石段などを登った山の上に在ったので『山門』
若しくは『山号』と『寺院名』が刻まれているからとの説もあります。
門番として『邪悪』なモノの進入に睨みを利かせていたのが『仁王門』
『禅宗』などの寺院に多く見られる『三門』は『悟りの境地』を表し『三解脱(空・無相・無作)』の境地を意味します。
同じ『さんもん』の発音だからややこしい。
他にも『鐘』が吊るされた『鐘楼門』や『薬医門』などが在りますが興味持った人ウィキペディア。
『門』と云っても単なるでは入り口では無く、『俗界』と『聖域』の境界を意味する場合も在ります。
『輪廻転生』の際、生まれ変わる世界を間違えないように『六地蔵』を奉っています。
門を潜る際はこれから聖域に足を入れますと謙虚な気持ちを持ち一礼を捧げます。
開閉式の『扉の在る門』では、『敷居』が横たわっている場合が在りますが、この『敷居』は踏んではいけません。必ず跨いでください。
『家の敷居』を踏むな。とは昔の家は基礎の造りが簡素で在った為、無理な力を掛けるなという意味合いが在ったのでしょう。
『寺院の門』は『現世』と『あの世』との境を意味し、『敷居』はどちらの世界にも属さ無い『あやふやな場所』と考えますので足を踏み入れない方が宜しいかと。
中には跨ぐのも一苦労する程『高い敷居の門』(物理的に)も在ります。
まぁ中には違った意味で『敷居の高い場所』が在るみたいですが。
二階の在る門では、門の上に『仏像』などが安置されている場合も在ります。
本堂の方を向いている場合や、来訪者を見守っている場合、奉られている像も『如来』だったり『菩薩』だったり『十二神将』だったりと実に様々です。
階段が在るので上がれるのでしょうけど………大抵落とし戸は開きません。(防犯上仕方ない)
組木の美しい門です。
この先、本堂では撮影禁止。ルールを守って参拝です。
早太郎伝説 今から700年程前の鎌倉時代、遠州府中(現・磐田市)に、一晩で田畑を荒らしてしまう化け物が現れ人々を苦しめていました。土地の氏神『見付天神』では作物を護る為、祭りの日に『白羽の矢』を立て、選んだ『娘』を生贄に捧げ事なきを得て来ました。旅の僧『一実坊弁存』が通りかかった時、『人身御供』の話を聞き正体を見届けようとします。物陰に隠れ様子を伺っていると大きな化け物が現れ「今宵、早太郎は居るまいな。信州信濃の早太郎は居るまいな。早太郎には知られるな」と化け物が呟いたそうです。化け物の天敵が『早太郎』で在ると突き止めた『弁在』は、『光前寺』に『早太郎』という『犬』がいる事を探し当て、訳を話して借り受け、急ぎ『遠州府中』に引き返します。祭りの夜、人身御供の身代わりに『早太郎』が隠れていると、其処に現れたのは大きな『ヒヒ』(大型の猿)で『早太郎VS猿の化け物』=『犬猿の争い』が勃発。ヒヒの退治に成功します。しかし大怪我を負ってしまった『早太郎』は何とか『光前寺』まで辿り着きますが、門前で遠吠えをしたのち力尽きて息を引き取ってしまいます。『光前寺』では『早太郎』を『霊犬』と称えお墓を建てて手厚く奉っています。『早太郎』を借り受けた『弁在』は供養に『大般若経』を『光前寺』に収め、寺宝として現在も大切に扱われています。
まぁ私が『早太郎伝説』を知ったきっかけは、偶然録画した深夜アニメ『ゆるキャン△』
です。(アニメオタクじゃ在りません)
『深夜アニメ』では『スーパーカブ』というタイトルのアニメが在りました。一人暮らしの女子高校生が、免許を手に入れ、『HONNDAスーパーカブ』と出会う事で展開していく青春バラエティーみたいなアニメでした。舞台が『山梨県・北杜市』で『日野春駅』や実在する『スーパー』(一部店名など加工)などが登場します。親近感もあってバイク好きにも見応えの在る内容でした。友人となった女の子が『ハンターカブ』で富士山を登りたいと壮大な計画を立て、『荷物搬送クローラー』の安全確保のための道路点検の為の仕事に辿り着き夢を実現させます。まぁ其処はアニメですから。でも実際に『クローラー専用道路』は在りますから、走れるモンならるなら私も走りたい。(でも一気に高度を上げると高山病に成ります)
話を『ゆるキャン△』に戻して。ストーリー展開の中で独りの女の子が『早太郎温泉』に『ツーリング』に来て、『光前寺』で『早太郎のお守り』を入手します。私はどちらかと云えば『猫派』ですが、『早太郎』のお守りが欲しいなぁと。で今回『光前寺』に参拝した次第です。
で『霊犬・早太郎』とはウンヌンを調べてみました。(検索だけですけど)
本堂付近は撮影禁止になっています。
領布所にて一枚。
我が家に来た『早太郎』です。
『土鈴』です。 此れで『ヒヒ』が襲って来ても守ってくれるでしょう。
ってか『ヒヒ』って何だ?
『光前寺』の仁王門から続く参道を進むと参道の脇に積まれた石垣を皆さん覗き込んでいます。
案内が出ており『ヒカリゴケ』と記されていました。
『光苔!』 『佐久市・岩村田』の崖下に在る洞窟内で旧制度中学生(現北高生)に発見され、『国の天然記念物』にもなっています。
日本で最初に『ヒカリゴケ』が発見されたのが『佐久市』で、植物学者の『牧野富太郎』さんも彼の地を訪れているとか。
石垣の隙間を覗き込みますが光って………る? 何となく緑色の苔は見えますけど。
訪れたのが四月下旬。 微妙な『湿度』や『差し込む光』の加減で必ず見えるとは限らないとか。(カメラ撮影は無理でした)
『岩村田・ヒカリゴケ』も訪れる度に発行具合が異なり、保護のために取りつけられた分厚い鉄格子から中を見ても「なんだこれ?」の場合が在ります。
『天然記念物』を検索してみますと『絶滅の可能性』や『珍しい物』などで保護する値打ちのある物として法律で保護されている自然物。と在ります。
『佐久市』には他にも『市の指定天然記念物』が在ります。
『十二町・女男木』もその一つ。(夫婦じゃなくて女男がナイスです)
『浅科・関所破りの桜』『常田・白山神社の疣取りいちい』『春日・山の神のコナラ群』等々沢山の樹木が指定されています。
興味在る方、検索&訪ねてみては?
ついでに………
『佐久市』の指定する『景観重要建築物』と『景観重要木』が在るのをご存じですか?
『景観重要建築物・第一号』は『常和・山田神社の参龍殿』 建物に彫られた数々の彫刻が見事!特に龍の力強さは素晴らしい。でも『第二号~』はどうした?
『前山南・倉澤の観音堂』とか『八幡・(八幡神社境内の)諏訪神社』の本殿の彫刻も素晴らしいですよ。(グーグルマップで確認できます)
『景観重要木』も『平尾・守芳院の弾正の杉』と『跡部・茂原邸の松』が指定されていますが他には?
佐久市・行政はちゃんと歩いて仕事している?
『伊那谷』大好きです。
『岡谷』からズ~っと下って『阿智』迄、ほぼ真っ直ぐな高速道路。
修行かと思わせる『飯田線』各駅停車の旅。
『天竜川』沿いに『飯田』から『佐久間ダム(静岡県)』までの山間道路。(バイクならでは)
『伊那谷道中』大好きです。(同名の温泉施設は閉鎖しちゃいましたけど)
『名犬・早太郎』で有名な『光前寺』を目指しました。
途中の水田畦道にこぼれんばかりに咲き誇る『スイセン』
地域住民が手入れをして観光名所に育て上げています。
上の写真は『光前寺駐車場』のもの。こんな感じに咲いてる『スイセン』があちこちに『白いフラワーベルト』を造っています。只、他の場所は農道の為、車を停める場所が無いのが残念。
今年も色々な場所に『桜』を観に行きましたが、今年の見納めかな。
山門を潜ろうとすると向こうからやって来たのは『文金高島田』
付き添いの方が誘導していますのでホンモノの結婚式みたいです。
偶に見かけますよね。人の迷惑顧みない『撮影』だけの〇国人。
今回は和服姿の『新郎』さんも(後ろに)いましたので「おめでとうございます。撮影して良いですか」と声を掛けてカメラを向けました。
いや~いいもんだな。花嫁姿。
『善光寺・大勧進』で『仏前結婚式』に参加した事有ります。
『貫主』の読経の中式が執り行われました。
『クリスマス』や『バレンタイン』で『キリスト教』を経験し、『結婚式』や『建前』では『神道』、亡くなると『仏教』とコロコロ宗旨替えしない信仰や潔し。(バレンタインやクリスマスなんてイベントですけど)
その後『御本陣』での披露宴で何故か洋食のコース料理でしたけど。
先ずは『仁王門』で一礼を捧げまして
そう云えば昔、冬になると婆ちゃんが養命酒をチビっとづつ飲んでいた。
じ~っと見てると小さなカップに付いてた数滴の『養命酒』を嘗めさせてくれたっけ。
それが私が『酒好き』になるきっかっけ? 三歳頃の記憶です。
『養命神社』からの戻り路、ふと工場の方を見ると銅像が見えました。
何とか正面に廻りたかったのですが『工場敷地内』は衛生面からか一般立ち入り禁止になっていました。
多分創業者とか、薬酒の製造法を教えた人だろう位に思って遠くから撮影。
売店で買った『養命酒』の袋の中にはおまけとして『養命酒のど飴』が入ってました。
普段『のど飴』とは無縁の私ですが試しに一粒。ウン?いけるんじゃない。
因みに商品ラインナップとして『クラフト・ジン』も製造販売しており『香の森』はコンクールで金賞受賞だとか。飲んでみたい。けど『養命酒』買っちゃったから………今度見掛けたら買います。(某安売り店に在ったらですけど)
『養命酒』の箱の中に『アンケートはがき』が入っていました。
私、この手のアンケートには極力協力しています。だって企業側にしてみれば生の意見が欲しい筈。
スマホでは『〇〇が当たる』からアンケートに応えよ。みたいな勧誘が頻繁に見られるけど、当たるかどうかも解らない(詐欺かも知れない)ものに個人情報は提供したくないって。
今回は『養命酒』行きのアンケートはがきでしたので、アンケートに答えると同時に「銅像の正面が見たい」と記入しました。
後日返信が届きました。
やっぱ成長する会社は違うぜ。
でも『クラフトジン』って何だ? 調べてたら………飲みたくなっちゃったじゃん。
今夜は『ジントニック』で決まり。トニックウォーター買ってこよう。
『養命酒製造工場』は広い『くらすわの森』の中に在って、散策するには結構な広さ、良い運動に成ります。でも高齢者や車椅子の方にはチョット広すぎる?
全天候型の『フォレスト・リング』の中から観たり、ショッピングだけで充分ならフラットな床と冷暖房完備で車椅子の方にも優しいのですが。
一旦『フォレストリング』から離れ緩やかな坂道を登ると『製造工場』の裏手に出ます。
小さいながら『滝』が在り、『水芭蕉』の咲く池に流れ込んでいます。
『ビオトープ』として『昆虫』や『小動物』にも配慮しているみたいです。
石段を昇ると白い鳥居が見えます。
今の世の中、色んな色の『鳥居』(赤・白・ピンク・水色・紫………)が在りますが、『白』は『穢れない』意味を持ち、神域の入り口に建てられます。
『鳥居』はそもそも『神の鳥=鳳凰』がとまる『止まり木』の事です。
だから祭りで担ぐ『御神輿』には必ず『鳥居』が建てられ、屋根には『鳳凰』が君臨しています。
森の中から『ウグイス』の『地鳴き』が聞こえてきました。
♪ もうすぐ春ですねぇ 恋をしてみませんか
ウグイスの『ホーホケキョ』は雄鳥が雌鳥を誘う声です。
鳥居の正面は『水神』様。 中央が『養老神』様。 左……なんだっけ?
『養命酒製造工場』の瓶詰め工程を見学後、森の中に造られたショッピングモールへ。
全天候型の散策通路がリング状に造られています。
『Ring』と聞けば『大阪万博』 釘を一本も使わない日本独自の『組木建築』と謳っておきながら安全対策の為に『補強金具』をボルトで固定って………詐欺じゃん。
しかも国産の材木を使用しているかと思えば大部分は『フィンランド産』 此れで『森林保護税』ってどういうことだ? 関係者答えてみぃ。
『ミャクミャク』が可愛い? 私にゃ気持ち悪いんですけど。どう見ても『仮面ライダー』の悪役。
しかも木造リングの海面埋め立て部分はもう浸食崩壊が見つかってるとか。
反対を押し切って開催し、あれよあれよと建築費がかさんで挙句の果て高すぎる料金から一般人から見向きもされない。決算が赤字になっても『ツケ』を国民に回さず、開催者責任で変換してよね。
『東京オリンピック』だって赤字を税金で穴埋め? 電〇と、裏金貰った政治家に払わせりゃ済むじゃん。
何時まで『馬鹿な政治家』の『くだらない政策』を国民に押し付けてんの?
仕舞にゃ『国民一揆』勃発かな。
いかんいかん私情が強すぎるです。
『Ring』と云えば『テレビ』から幽霊が出て来るホラー映画を想像しますが、時代は『ビデオ』全盛の1998年。
私は『録音』に関しては『手廻し式蓄音機』こそ知りませんが『LP・EP・SEレコード』『オープンリールデッキ』『8トラカラオケ』『ラジオカセット』『ウォークマン』『レーザーディスク』『MD』『SD』とほぼ全て経験していますし、『録画』に関しては『VHS』vs『ベータ』、その『VHS』も小型にした『VHS-C』と『VHS』が別れていました。『ホームビデオ』の名のもと、各家電メーカーが様々な方式で『ビデオカメラ』と『ビデオテープ』を販売、家はS社の『Hi-8 ハンディカム』でしたが実家はV社の『miniDV』 互換性が無いから大変でした。今は『MicroCD』が在りゃ何とかなる。
それから『カメラ』 私は『フィルムカメラ』で一眼レフを購入し、めんどくさくなったころ『レンズ付きフィルム』が登場。そして『デジタルカメラ』ですが今は『スマホ』が在れば何とかなる。
結局のところ『高性能レンズ付き大容量スマホ』が最強って事ですね。
春先なのに20℃超えの気温。先ず『ジェラート』を………お高いのね。
黒を基調にした建物と周囲は全面ガラス張り。それでも『エアコン』のお陰で涼しい中を歩いて各ショップを廻れます。
『べーカリー』『カフェ』『スィーツ』『マルシェ』『ミート&デリカ』 お金に余裕が在ればあれもこれも買っちゃいそう。此処は気を引き締めないと。
森の中に造られた『リング』から外に出て散策
やっぱり今の時期、外が良いなぁ。
花の香り、風のそよぎ、水音にまで心洗われます。
次回まだまだ『養命酒工場』です。
でも何で『ボクシングやプロレス』は四角いのに『リング?』
駒ヶ根を訪れた際、時間が空いたので前から気になっていた『養命酒』の工場を訪れました。
駐車場入り口に大きく『くらすわの森』と書かれています。
九州に住む知人が確か『くらす』=『やっつけるの意味』だと云っていたような?
駐車場入り口に居たガードマンさんに「くらすわの森とはどんな意味があるんですか」と尋ねると「暮らしと和から造られた造語で、観光施設が完成した時に名付けました」と丁寧に返事を頂きました。更に『くらすわの森』と書かれた入り口にカメラを向けようとすると、ガードマンさんはそっと離れて身を隠し、撮影が終わるとまたもとの位置へ。お主出来るな。
晴れていればこの辺りから『南駒ケ岳(昔は木曽駒って言ってたのに)』や『越百山・こすも山』が見える筈………まぁ私ゃ曇り男ですから。(滅多に雨は無い。てか雨の予報なら出かけない) 前回も駒ケ岳ロープウェイに乗ろうとしたが、ガスに巻かれて視界悪そうなので中止。晴れなきゃ意味ないもん。
流石に昨年10月に完成しただけ在って、どこもかしこも真新しい感じ。
元々は『養命酒製造工場』だった広大な場所に『観光施設&フードショップ』を併設し、森の中を丸いリング状の『全天候型歩道』で繋いだもの。
『大阪万博のリング』に意味が在るのか私には不明だが、此処のリングは『冷暖房完備のフラットな床』、各ショッピングサイト『ジェラート・ベーカリー・カフェ・ミート・マルシェ』等々が大きなリング状通路で繋がっており、暑い日でも寒い日でも雨が降っていても快適に森の中を散策気分で歩けます。
とその前に先ずは工場見学。
駐車場からすぐの建物で二階に上がると『原材料』の生薬の説明から始まり『抽出』『熟成』『瓶詰め』などの工程を廊下を歩きながら見学できる仕組みです。
大抵は一番最後にお土産売り場が在ってお金を使う様に出来てますけど。
ハイ。私も見事に購入者です。
工場見学の入り口。脇にはエレベーターが在り、車椅子にも対応しています。
階段を昇って工場見学スタート。勿論エレベーター在り。
この日『高ボッチ山』から『鉢伏山山荘』まで車で上りました。
『高ボッチ山』の駐車場には数台の車が停まっていましたが人の気配は無し。
『高ボッチ展望台』にでも行ってんのかな。と気にせずトイレを済ませて、山荘へ向かうと、道路を歩いて『鉢伏』へ向かう人が居ました。皆歩いて行くんだ。私ゃ車で行くもんね。
駐車場に車を停め、駐車場使用料¥500と入山管理費¥300を係員に支払いました。
聞くと今日から管理人が詰める様になり、駐車場が有料になったとか。(昨日来れば良かったなんて思わないの。ちゃんと自己申告用料金ポストが置かれています)
残念ながら前日小雨が降った後、気温がグングン上昇し『春霞』の発生で遠景は望めませんでした。
それでも風向きによっては眺望がと期待したのですが、時間が経つ程に視界が遮られてきました。
『北アルプス』も『富士山』も『諏訪湖』すら見えん!
辛うじて『王ヶ頭』のアンテナ郡が見えただけ。
他にも数人が山頂に居ましたが、皆さん晴れ間を期待して山頂展望台の中に身を寄せています。
『山頂展望台』の屋上は展望テラスになっていますが、以前来た時は外階段が破損していて『立ち入り禁止』になっていました。
今回『展望テラス』に上ってみましたけど、景色が見えなきゃ意味ない。
『鉢伏山頂・展望テラス』の方位盤。山の写真は無いです。
晴れてれば『松本空港』に離着陸する飛行機も見える筈なんだけど仕方ない。
諦めて下り始めると急に晴れて来るんだもんなぁ。
このままではつまらんと『前鉢山』に行ってみました。
『ヘリコプター墜落事故』の時に造られた林道を歩き、とちゅうから笹薮の中へ。
山頂到着の頃は段々と霞も無くなって来たのですが『前鉢山』って眺望ないじゃん。
一応『前鉢山山頂標識』と『三角点』をカメラに収めて渋々山を下ります。
先に『前鉢山』に登っとくんだった。
辛うじて『高ボッチ展望台』からの眺望です。
『お地蔵さん』とは『地蔵菩薩』の事で、『菩薩』とは悟りを得て『仏』に成ろうと修行している行者。
特に『輪廻転生』の考えに於いて、死ぬまでの行いによって死後『天国』『人間』『修羅』『畜生』『餓鬼』『地獄』の六つの世界に生まれ変わるとされ、お寺の入り口付近に並ぶ『六地蔵』はこの六道の入り口に立ち、その各界に間違って入り込まないように道案内をしてくれると考えられています。
良い事をすれば『良い世界』へ『悪い事』をすれば『悪い世界』へ行く事を『因果応報』と云います。
又、人間界に於いて様々な『苦しみ』から救ってくれるとされ、特に『子供』を救済するとされるお地蔵様は『赤ちゃん』を連想させる『涎掛け』を掛けている場合が多いです。
道路の脇にポツンと立っている『お地蔵様』も誰かが祈念して彫った(奉納した)物でしょう。
『菩薩』の中でも最高位に在るとされるのが『弥勒菩薩』で、『お釈迦様』の次に『仏』になる事が確約されていますが、『釈迦入滅』の後から『56億7000万年!』の修業期間を得て悟りを開き人々を救うとされています。現在は『兜率天・とそつてん』と呼ばれ、天界で修行をしています。
『高野山・奥之院』などにお墓を造る人は、『弥勒菩薩』が『仏』に成る時、死後の世界から甦ると考えられているからだとか。
地球が誕生してから『約46億年』とされていますが『56億7000万年後』………地球はどうなってるんだろ? 一説では『地球の寿命は後50億年』とされてます。
間に合うかなぁ?
『中山道』は『和田峠』を下り次は『諏訪宿』、此処は『甲州街道』の分岐点でも在り、『諏訪大社』や『温泉』等も在り大いに栄えた町です。
『上方(京都方面)』へ向かうと次は諏訪湖の畔『岡谷宿』、『塩嶺峠』を抜けて『塩尻宿』から『木曽路』に入ります。
現在は国道254号線で『和田トンネル』『湖北トンネル』国道20号線に乗り換えて『塩嶺バイパス』で『塩尻』まであっと言う間ですが、敢えて『旧塩嶺峠』を走ります。
『岡谷I・C』のすぐ近くから『旧中仙道』への入り口を探すのですが、立体交差に阻まれウロウロしちゃいました。『旧中仙道・塩尻峠』から更に下ると『夜通道』 道幅が狭く大型乗用車じゃキツイかも知れません。
『夜通道』と書かれた標識が在りますが、『塩尻』に住むうら若き女性が、男の住む『岡谷』まで毎夜この道を通ったからとされています。 女性が一人で山道を毎夜?
『新潟・番人堂』には『佐渡』に住む女性が毎夜『たらい船』で海を渡って男に逢いに通った伝説が在ります。男が『御堂』に蝋燭を灯し目印にしたそうですが、『男』だったら自分で行動しろ! まぁ『惚れるが負け』かも知れませんけど。
この辺り、『天明の飢饉』で餓死した人を慰霊する為多くの石像・石仏が建っています。
リアル『楢山節考』が在ったのかも知れません。
実は江戸初期(1602)『家康』の制定した『五街道』の一つ『中仙道』は『塩尻峠』を通っていませんでした。
『岡谷宿』を出てから現在の県道254号線を西に向かい、『牛首峠』経由で木曽の『小野』付近から『奈良井川』に沿って南下(木曽街道)していました。
地元の権力者『大久保長安』が木曽谷の森林開発促進の為『牛首峠』を開通させたました。
当初『塩尻峠』は水場も人家も無い山道を数里も歩かねばならず、治安も悪かった筈。
そこで『塩尻峠』に『茶屋本陣』などの施設を造り交通の便を良くしました。
日本海側から塩を運んだ『千国街道』が『糸魚川』~『塩尻』までを繋いでいた為も在って、次第に『塩尻峠』経由の需要が高まります。
享保年間(1716)に『岡谷宿』が『中山道』の宿場町に数えられるようになり、『中仙道』から『中山道』の表記に改定されます。
『牛首峠』経由の『旧道』は『旧楡沢一里塚』などにその痕跡が見られるだけになりました。何時の時代も『道路の進化』が在るんですね。
この『牛首峠』付近に『日本土真ん中』が在ります。
地図上なのか『最端』からの距離なのか。更には球面上の緯度経度から測定?
『日本中心の標』は『辰野町(137.59.36 36.00.47)に在りますし、『日本のへそ』は『平面直角座標系第Ⅷ系原点』として『長野県南牧村市場坂』に存在します。
『石川県珠洲市・緑郷崎灯台』には『日本列島ここが中心の碑』が在りました。
日本の中心は『東京』だけじゃ無いんですゼ。
発行は『東信州中山道連絡協議会』
『中仙道』の文字から『中山道』に改定されたのが『享保元年・1716年』
時の将軍は『暴れん坊』と噂の『吉宗』 でも『享保の改革』を行うなどの実力者です。
中でも『幕府財政』の立て直しを目的とした『勘定奉行』の在り方や、財政関係書類の洗い直しなど、其れまでなぁなぁの内に消えて行った『莫大な金額』を洗い直し(此処重要‼) 庶民の生活安定に努めました。(政治関係者、耳の穴かっぽじいとけ) 『生類憐みの令』により途絶えていた『鷹狩』を復活させたりしたのも『暴れん坊将軍』
それまで『幕府』のい方針を押し付けていた『農業』に『農地農業改革』を取り入れ『民間資金・技術』を動員し各地に『農業用水』を引きます。しかしそのお陰で『米価格』が暴落。農家の収入を安定させる為、『小判』や『銀貨』などの貨幣の含有量を見直し『鉄銭』の流通量を増加するなどの政策を取りました。
『定見法』により田の面積を詳しく調べ、年貢制度は『五公五農』にしますが農民にはやはり大変な重税でした。
現在、米価格が高騰しているのに政治家は何をしているのだろう?
『備蓄米』を『JA』に入札させたが一向に米は出回らない。『JA』が幾らで米を入札し、一般消費者に幾らで販売しているのか。そしてその流通量はどの位一般に還元しているのか。(騙されないぞ) 懐を潤すのが『JA関係者』と『政治家』じゃ許せない。
「越後屋、お主も悪よのぉ」 「いぇいぇ お代官様程では在りません」なんて笑っているのなら『トランペット』の音と共に『仕事人』登場。若しくは『世直し漫遊の旅』の一行が悪人どもを懲らしめる。なんて事は在るのかな。
国会議会開催中でもろくな会議をしない『国会議員』 県政にパワハラを持ち込み呆れられている『知事』 ろくなもんじゃねぇ。 ♪ピィピィピィ~ ピィピィピィ~
『軽井沢宿』『沓掛宿』『追分宿』『小田井宿』『岩村田宿』『塩名田宿』『八幡宿』『望月宿』『芦田宿』『長久保宿』『和田宿』の各宿場町のカードです。
配布先は 『軽井沢商工会』=『軽井沢宿』『沓掛宿』『追分宿』
『御代田町産業経済課商工観光課』=『小田井宿』
『佐久市観光課観光振興係』=『岩村田宿』『塩名田宿』『八幡宿』『望月宿』
『立科町観光商工課昇降係』=『芦田宿』
『長和町産業振興課商工観光課』=『長久保宿』『和田宿』
集めるのに丸一日掛かりました。
『歌川広重』と『渓斎栄泉』の共作で描かれた『中山道(木曽街道)六十九次』の絵画、一部加工しています。(著作権は………時効かな)
昔、『お茶図漬け』のおまけに付いていた『東海道五十三次』のカード、何処に行っちゃったかなぁ。コンプリートしなかったけど。今あれば高値転売?
和田宿を散策していて『トイレ』に行きたくなり、国道沿いの道の駅迄戻ろうかと思ったが、『本陣』に来たんだから『脇本陣』の写真だけでも撮って来るかと移動しました。
『ラッキー』公衆トイレが『脇本陣』の脇に在りました。
何やら『オーブ』みたいに写り込んでますが、単なるレンズの汚れです。
心霊現象と大騒ぎする人いますけど、水滴が着いたり、埃が乱反射を起しているだけ。
その証拠が光の屈折現象で、全てが丸くなっています。
えっ。門の左手、松の木………見なかった事に。
実際の処、撮影時には全く気が付かず、パソコンの画面で観て始めて気が付きました。
旧中仙道沿いの風景です。『丸い郵便ポスト』といい何ともレトロ
『黒曜石資料館』を訪ねて行くと、何故か『林業資料館』?
人気の無い建物の中に入ろうと………有料施設です。
誰も居ないみたいですから、只見も出来ちゃいそうですけど、いい大人のする事じゃ無いし。お金払ってまで見たいかとも思わないから此処まで。
旧役場建物を解体せずに『林業資料館』として発足。その後出土した『黒曜石・石器』を展示し資料館として利用。までは良いんですけど、有料資料館としてどれ程の利用が在るのだろう?無料開放した方が人件費などと相殺しても安上がりになるんじゃないのかな。
などと思いながらバイクに戻ると、ドアセンサーが反応したのでしょうか。入れ違いに車が入って来ました。私ゃ観てないですから。
『脇本陣』撮影後に『レンズクリーニング』とかしていませんけど何故かその後光の屈折は無し。まさか本物の『オーブ』だったりして。
『旧中仙道・和田宿』は京都寄り(西側)に『中仙道一の難所』と云われた『和田峠』を控えています。
旧中仙道は泥道だった為、雨でも降ると『草鞋』では滑って危険。『下駄』では岩場を歩くと下駄の歯の間に石とかが挟まり歩き辛い。『山伏』など山で修行する人は『一本歯の下駄』を使用したとか。
Olympic女子スケート選手の『小平奈緒』さんも一本下駄を履いて体感トレーニングしたそうです。
『一本下駄』には、歯が前後中心に付いている物、前よりに付いている物、後ろ寄りに付いている物、など形状が様々。後ろ寄りについている物はかなり歩き辛そうですけど。
私も買ってみようかと思いましたけど、トレーニングに使える物はかなり高価です。
普通の下駄でいいや。
門を潜りますと
『和田城』の在った山麓を背景に案内が立っています
『参勤交代』にも使われた『中仙道』 幾つかの『峠』こそ在り大変に思われるが、東海道には大きな河川に橋が無く、一度雨が降れば『川止め』となり水が引くまで宿場で待たなければならなかった。其の時に大人数の『大名行列』と重なれば一般民は宿にすら泊まれなかったそうです。
中仙道一高低差のある『和田峠』を越えて『諏訪宿』へ。結構距離も在ります。
『鐘楼門』を潜り抜け参道を進むと
私の好きな説明文を読んでみますと
『県歌信濃の国』で先生と呼ばれる『佐久間象山』が師と仰いだ『十四代住職・活紋禅師』ですと! つまり『先生』の『先生』
『寺宝』も凄そう。拝みたい。
はい扉は開きませんでした。
『木魚』の原型とも言える『魚板』が進化し立体的になった物です。
『木魚』は読経の時にリズムよく叩かれ、精神統一をする為と云われていますが、眠気払いとする説もあります。
本来は『起床』や『食事』など、時刻を寺の中だけに知らせる必要が在る時に打ち鳴らされた物です。その横の金属製プレートもおそらく『銅鑼』の原型ではないかと推察です。
江戸時代、一般に『時間』を計るのには『水時計』『日時計』『線香』の燃焼時間などを利用していました。(尤も江戸城などにはキリスト教宣教師より献上された『時計』が存在していますが)
お寺で時を告げる『鐘』を突き鳴らして時刻を告げていました。
『不定時法』と呼ばれた独特な時間観念で、『日の出~日没』迄を六等分し、それを『一刻・いっとき』としました。夜も『日没~日の出』迄を六等分。つまり『春分・秋分』の昼と夜が12時間づつなら問題在りませんが、『夏至』に至っては『一刻』の長さは現在の2時間40分、『冬至』では1時間50分程しか在りませんでした。
時の数え方も独特で、(昼と夜が同じ時間=春分・秋分で考えます)12時(午前零時・午後零時とも)を『九つ』と呼び、鐘を九回鳴らしました。2時間(一刻)経った後が『八つ』この『八つ』の鐘の後に食べるから『おやつ』 更に2時間経つと『七つ』(鐘が七回鳴らされます) 『♪お江戸日本橋 七つ立ち』と童謡に歌われたのは午前4時頃日本橋を出発する事の意味です。
『六つ』でよく使われる慣用句は『明け六つ・暮れ六つ』 現代の朝夕6時頃。それから『五つ』(8時)『四つ』(10時)と数え零時になると又『九つ』、九回鐘が突かれます。
落語『時蕎麦』(関西・上方落語では『時うどん』ですが)で、屋台で『二八蕎麦=16文』を食べ終わり、支払いの時一文銭を一枚ずつ出しながら「ひぃ・ふぅ・みぃ・よぅ・いつ・むぅ・なな・やぁ………」と数えたタイミングで「今何時だい?」と聞き、蕎麦屋店主に「九つでぃ」と答えさせ『一文』ちょろまかす。それを観ていた男が翌日真似て、そばを食べ終え、「ひぃ・ふぅ………やぁ」と支払いながら「今何時だい」と尋ねると「四つでい」と答えられたから『一文銭』を「五つ」から数え直し余計に支払う羽目になる。
この落語、初めて聞いた時、何処が面白いか解らなかったけど江戸時代の時間観念を知れば成程でした。江戸時代中期に上方で考案(当時は新作落語)され、江戸で大流行した落語です。
聞きたくなった方『YouTube』
境内の一角に、私の干支の『護り本尊=虚空蔵菩薩』が祀られていました。
合掌。
あ~ぁ。この車が無けりゃな。
お寺の名前に『信定』と付いていますから『和田城主・大井信定』の菩提寺でしょうか。
権力者が亡くなると、そのお墓と位牌を護る為にお寺が建立されたりします。
『大井信定』のお墓は『故・羽田孜総理大臣』の実家近くの『若宮八幡宮』の敷地内に在りますが、恐らく亡骸を埋葬した場所でしょう。
戦火が去って改めて菩提寺にお墓を造り位牌を収めたと思われるのが『信定寺』(だと思います)
変なアングルでしょう。(普通は正面から撮る筈)
入り口は『鐘楼門』になっていて中々見応えあるのですが、ナント車が停まってやんの。
お宝が沢山あるみたい。
『鐘』の真下には音響の為に穴が開けられています。
『撞木・しゅもく』で突いた『鐘』は接した空気が振動し音が広がります。其の時『鐘』の外側から振動する空気より、鐘の内部から振動する空位の方がより共振する為、遠くまで音が届きます。山の上に在る山寺の『鐘』など、穴の開いた下の地面に傾斜面を造り、音を反射させてさらに遠方まで届かせる工夫がされています。
此処の場合、車が反射の役目? なワケ無いな。
階段が良い雰囲気。昇って『鐘』まで行きたいけど、許可を貰ってからね。
山道をウロウロと ほっつき歩いて(佐久の方言?)いたら喉が渇いて来ました。
そうだあそこに行けば水が湧き出てた。
でやって来たのが『釈迦堂橋』の袂です。
『和田宿・道の駅』傍の交差点から『美ヶ原高原』への道案内が出ているから走った事ある人も多い筈。途中までは走り易い、広めの片側一車線道路ですがその内………まぁ長野県の山道なんてみんなこんな感じですけど。
岩に彫られた『白い顔』が印象的で覚えていました。
何時もバイクで走る時は、非常食替わりの『ビスケット』を持って行きます。
『ぴんころ饅頭』をの製造過程で余った生地を焼いただけですけど、只捨てるのも勿体ないから、コンビニ等でおにぎりを調達できなかった時用にカバンに放り込んであります。
『固焼き』に仕上げ、脱酸素剤大目に密封していますので半年位は普通に食べられます。
イザって時の非常食用に大量にストックしてますので食べちゃわなきゃ。
で『湧き水』と『固焼きビスケット』で休憩。
『美ヶ原高原』でを水源とする川は意外と多く、『野々入川』が『追川』に合流し水量も豊富で綺麗な流れを愛でながら。まだ地鳴きのウグイスが初夏の訪れを感じさせます。
戦国時代の混乱期、信濃東北部を治めていた『村上氏』に連合して『佐久・大井氏』も挙兵します。同族の『武石・大井氏』らも加担しますが『甲斐武田軍』の圧勝に終わり、『和田城主 大井信定・信正親子』は破れます。
その後の『和田城』は『武田』配下に成り、家臣の『真田氏』が統治します。やがて『武田軍』の勢力が落ちると代頭して『真田氏』が頭角を現し『東信~群馬沼田』にかけての広範囲を勢力下に置きます。
元々『真田氏』は『武田家臣』で在り、報奨として信濃の領土を与えられた『豪族』(大名では無い)でした。それが『上田城』で『徳川家』と対峙したり、『織田軍』~『武田軍』~『上杉軍』と和平の相手を選びながら戦乱期を生き延び、更には『関ケ原の戦い』に於いて『東軍=徳川家』に『長男・信之』 VS 『西軍=石田家』に『父・昌幸、次男・信繁』が別れて闘い、どちらが勝っても『御家取り潰し』を逃れる作戦に出ました。
私、結構『城跡巡り』好きで色々な城跡を訪ねていますが、守りを固めた『山城』は急峻な坂を登らないと辿り着けない。戦国時代は重い甲冑を身に着けてこの山道を行き来したんだろうけど、今回は………止めとこ。(足が痙攣しそう)
湧き水の豊富な『和田宿』 街中を流れる川も澄んでいて綺麗な水が豊富に流れています。
川沿いにバイクで走っていると小さな『祠』を見つけました。
石碑に刻まれた文字は残念ながら判読不能(私の読解力?)
『社』ですので神様を祀っている筈。
解らないので石段を昇ってみますと。
石段を昇りきると『観音様』や『六腕』の『阿修羅像』しかも足元には『見ざる聞かざる言わざる』の『三猿』(日光東照宮は徳川家康のお墓として建立され、後に神格化して神社になった) 元々は古来中国の『道教』(庚申信仰)が発祥と考えられています。
『お地蔵様』もどことなくユーモラスなお顔立ち。享保の年号(1716~1736)が読み取れます。
御堂の中に『仏像』が祀られているのですが硝子が反射して撮影失敗です。
参拝を終えバイクに戻ってくると、(私の行動を不審に思ったのか)ご近所の方が此方に歩いて来ました。
何時ものコミニュケーション能力を発揮して、「この石像は何かを祀ってるんですか?」と質問すると「下は神明社と上は文殊堂だ。江戸時代から在るらしいが詳しい事は知らん」
其処で『神明社』をググりますと………狭義では『天照大御神』の事。 広い意味では『神様』を意味する。(早い話が神様)
『文殊堂』 『文殊菩薩』を祀る御堂。『文殊菩薩』は『知恵・智慧(ちえ・仏教用語で真理を悟る洞察力)』を授けるとされる。学問の神。
早い話。この一角は『水』を求めて人が集まった場所であり、人が集まったからこそ感謝の気持ちから石像などを納める人が居たって事に成ります。
この水は何処から流れて来るんだろう?
バイクで坂道を駆け上がって行くと『西洋水芹=クレソン』の群生地が在りました。
勝手に採取する人が居たのでしょう。立ち入り禁止になっていました。
『ステーキ』の付け合わせ位でしか食べた事無いですけど、サラダにすれば美味しいとか。(立ち入り禁止を謳っている以上、トラブルは避けねば)
果たして山道に差し掛かると例の『熊出没注意』の金網と『通行止め』の看板。
Uターンして
お~。雪の残った『蓼科山』と桜。
『棚田』は『畔造り』が終わって後は水を入れるだけ。
正しい春の里山の原風景ですね。
普段、カメラを持って出かけるのは『オフロードバイク』が多いですので、車では入って行けないような道でも(道が無くても)躊躇無く入れます。(時に行き止まりでもアクセルターン出来るもんね) 只、奥の奥に住宅がポツンとある様な道路だった場合、不審がられる事も在りますけど。
奥地に入り込む例のTV番組、最初は絶対に不審がられてるって。
和田宿の旧中仙道からも外れた道に素敵な水場を発見しました。
こんな処も『グーグルカー』が入ってるんだから凄い。
『神明脇來水沢水神宮』 此の場所、間違いなくパワースポットです。
江戸時代から、街道を旅する人の喉を潤してきたのでしょう。
朽ちかけた『橋』は私の体重に」耐えられそうに無い………
水槽はコンクリート製。水口は塩ビ管。水底には藻。
でも良いんです。
水を掬ってゴクゴクと飲んでみました。旨い。
タオルを濡らして顔を拭いて。さて次行きますか。
『和田中学校跡地』の前に『和田神社の鳥居』が在りました。
時代の流れと共に道路も進化します。
生活道路が舗装・拡幅され、一車線が二車線に。更には交通量が増えるとバイパスが造られ。
カーナビで指示される道は『バイパス推奨』のルートが多く、知らない街で旧道を走るなんて事は皆無です。
でも私のバイクにゃそんな高尚な物在りません。走りたい道を走るだけ。
知らない道を走っていて、明らかに周囲と違う『杉木立』などが在れば神社仏閣が在るかも。
昨今の神社は『金属製幟立て』が常設されていますので後は鳥居を探すだけ。
『寺院』の場合は高くそびえる『本堂大屋根』を見つけられれば参道口に石門を探すだけ。
『和田海洋センター』で周囲を見回すと、山裾に『幟立て』が見えました。
進んでいくと広い駐車場が鳥居前に在り数台の車が停まっていました。
傍らにバイクを停めて。駐車場に併設して『保育園』が在りました。
宗教法人経営の『保育園』なども結構多いですので神社経営かなと早とちりしてしまいましたが調べてみると経営母体は『長和町福祉協議会』でした。
神社の駐車場と勘違いして駐車してしまいましたが、私が滞在していた時間、他に車も来なかったみたいです。
『ほいくえん』の文字が植え込みで見えなかった。と言い訳です。
二の鳥居手前の手水舎へ。自然水利を引いているであろう『水の出』が良すぎて、時折吹き付ける強風に地面が濡れる程。カメラを構えた次の瞬間、レンズに飛沫が掛ったほどです。
四月中旬。気温がぐんぐん上がって冷たい水が心地よく、手水だけでなくグビグビと飲んじゃいました。
鳥居を潜って。参道を行きます。
『和田宿』の『旧中仙道』を走っていて、ん?
『和田中学校』が荒れている。いや生徒が荒れているんじゃ無くて、校庭は草だらけ。
校門前も掃除されていない。隣の『小学校』は生徒の気配がするのに。
学校でウロウロしていると直ぐに通報される時代。写真だけ撮影して移動染ます。
この『中学校』と『小学校』は『連絡通路』で繋がっていて、中学校側に在った『給食センター』で造られた給食を小学校に運ぶ為と以前新聞か何かで読んだと思うのですが。
いや『小中共学校』になったのかな。
二つの建物を繋ぐ連絡通路の下を潜ると『長和町海洋センター』に出ます。
『海洋センター』と在るけど『海』とは関係なくて『プール施設』なんですけどね。
水は汚れちゃってるけど、夏の前に大掃除する筈です。でも屋根とするビニールが裂けちゃってる。まぁ無くても問題ないみたいですけど。
『有刺鉄線』などが在るのは、夜 勝手に潜り込んで泳ぐ輩がいたのかも知れません。
『旧中仙道』は『依田川』と『大門川』の合流する『大和橋』で『大門街道』と別れます。
『大門街道』は『白樺湖』を抜け『茅野』へと続く道で、途中の『大門稲荷神社』境内には、高さ3メートルもある『土俵=高辻』が保存されており、江戸時代『相撲・虎の穴』みたいな秘密練習場が存在したとか。(雷電為衛門も彼の地で練習していた?)
今回は『和田宿』を目指しますので『青原』交差点から旧道へ入ります。
『是より和田宿』と彫られた石碑など並び、『和田宿』に入った事を示すも周囲に民家は無し。
街道を行くと『蚯蚓神社』や『三千僧接待の碑』『馬頭観音』など江戸時代に建てられた石碑・石仏などが多く情緒を感じます。(故・羽田孜氏墓所なども在りますが観光地では在りませんので今回割愛させて頂きます)
普通の民家前にこんな感じで石像や道祖神が祀られています。
左の石に刻まれた居るのは『和田・宿場祭り』の一コマでしょうか。
ふと見ると『地下横断道』の入り口らしき建物が見えました。
バイパスが完成する前はこの道が国道142号線本線で在り、大型トラックなどが猛スピードで駆け抜けたのでしょう。歩行者保護の観点からも地下横断道は必需だったのでしょうが、バイパス完成後の交通量は激滅し私が此の場所に居た10分程で通過車両はゼロ。(どころか『和田宿・旧中仙道』を端から端まで走って対向車は僅か数台)
折角バイクを降りたので『若宮八幡神社』へ。
参拝を済ませ、案内を読んでみると。
境内に『和田城主・大井信定親子』の墓が在りました。
佐久の『大井城主』は『清和源氏』の流れを汲み、『村上政清』に滅ぼされるまでは一大勢力を誇っていました。
一方『武石城』や『和田城』の城主の『大井氏』は『甲斐武田』の家臣だったと思ったのですが………『甲斐武田氏』に攻め込まれる。戦国時代はよくわからん。(私の解釈が違っているような)
『愛宕山・桜公園』から『大門峠』方面への抜け道となる山道の途中に御堂を発見しました。
鳥居が無いから『寺院』だと思うのですが………
額には『照福庵』と読めます。
『鰐口』も『賽銭箱』も見あたりません。ガラス窓を覗き込んでも中は良く見えません。
御本尊らしき物も見えるのですが定かでは在りません。
何だろ此処は………?
長和町の指定文化財。読んでみますと。
『通夢道人=花井璞紋』は1814年、大門村の名主『内田安良太』に請われて『上田・金窓寺』より『慈福寺』の住職に成ります。大変達筆な方で遠近問わず書を求められたそうです。『加賀藩参勤交代』の際に『幟』に書かれた書体を観て思わず感嘆したとか。
『11代・徳川家斉の娘 溶姫・ようひめ』が『加賀13代藩主 前田斉泰・なりやす』の元に嫁いでいるそうですのでその頃の逸話でしょうか。
『庵』の裏手に廻ってみますと
良く読み取れませんが一番下に『〇〇大和尚』と読めますのでこの墓碑が『通嫁道人』和尚の墓碑でしょう。
合掌。字が上手くなります様に。
『長久保宿』脇の国道142号線沿いに『桜公園』の看板を見つけました。
住宅地の中を抜けると『愛宕山・桜公園』
まだ一週間ほど早かったかな。
公園入口に鎮座するのは『さくら地蔵』
なんでも有志が公園を管理しており、お地蔵さまも有志の寄付で建てられたとか。
生育の良い大木は八分咲きでしたがそれ以外はまだまだ蕾。
こりゃ一週間後にもう一度来てみるか。
と云って再訪したのが上の写真です。
旧中仙道を挟んで『濱屋』の向かいの『丸木屋』も公開されていました。
しかし此方には照明が無く、薄暗くて余り良い写真に成りませんでした。
というか江戸時代、あっても『行灯』位でしょう。窓を閉めた家の中って昼間でも薄暗いから当時の人は暗さに慣れていた。(現在が防犯理由で明るいだけなのかも)
『長久保宿』を東から下って来て交差点に差し掛かる処に何やら石碑が在りました。
中仙道は此処で折れて『和田宿』に向かいます。
反対方向に行けば『依田窪』経由で上田方面、『善光寺街道』や『保福寺峠』経由で『北国街道』へと繋がります。
ん! 柱は何だ?
何やら書かれた跡が在るのですが判読不可能です。
丁度その時、『第一村人発見』いや買い物袋をぶら下げた人が通りかかりました。
「スミマセン。この柱が気になるのですがご存じですか?」
その方の説明では「文久年間(1861~)長久保宿が大火に見舞われ、街道に面した建物が軒並み消失してしまったそうです。翌年には『皇女和宮』が『十四代将軍徳川家茂』に嫁ぐ事が決まっており、『京都~江戸』迄を中仙道を道中する事も決まっていましたので宿場町では大急ぎで復旧に取り掛かります。再建された街並を護る為、火除けの神様『三峯神社』を勧進し宿場町の入り口に奉ったそうです。
柱の上の『御社』も珍しいですね。
長和町教育委員会さん。説明書きが必要では?
木製の急階段を二階へ。 足腰の弱い方へ注意喚起の張り紙が在りました。
数段の階段を昇りきると黒光りする板の間です。階下を見下ろす様に障子窓が設えて在ります。
更にこの階段は蓋つき。戸板を被せ閂で締め切る事が出来る様になっています。
さては二階部分に泊まる人は何かを警戒していたか、若しくは『博打場』』的な使われ方をしていたか。
幕末の『池田家事件』でも、仮に戸締りできる部屋だったら『竜馬』も死なずに済んだかも。
二階も資料展示室になっています。
『駕篭』も在りましたが、『一般大衆用』には『御簾』が無い筈ですし、身分の高い人用は『漆塗り』などの装飾された『板囲い』の筈です。担ぎ棒が長いから『四人』で担ぐ『早駕篭』でしょう。
他にも貴重な資料として『宿場』発行の紙幣通貨『宿場札』等も展示されていました。
現在の『地域限定金券』ですね。隣には実物の『武鑑』が在ります。
諸藩の『紋』が記されており、『関所』や『宿屋』に於いて人物の特定をする為に欠かせない、云わば『家紋図鑑』みたいな物でしょうか。
江戸時代、『十両盗めば首が飛ぶ』(十両盗んで摑まれば斬首刑)と云われており『九両三分二朱』しか盗まないとか何とかの落語が在りましたが、その頃のお金の換算が独特です。
『金貨(両)・銀貨(分)と(朱)・銅貨(文)』に分かれ『一両』=『四分』=『十六朱』=『四千文』と決められていました。泥棒は万が一捕まった時の事を考えて『九両三分二朱』しか盗まなかったとか。
又、『ねずみ小僧』が千両箱を肩に担いで高い塀から飛び降りたりしますが、本当に千両入った『千両箱』(時代により重さ(金含有率)が異なる)は20㎏にもなるそうです。厳重な木箱を肩に担いで飛び降りたりしたら『骨折』モノですね。
『金』=『一両』は『銀六十匁=四分』=『十六朱』=『銅(銭)四千文』とされていました。
『落語・時そば』で考証すると『立ち食い蕎麦=十六文』を支払おうとします。現在『立ち食い蕎麦』の『かけ蕎麦一杯¥400』として一文=25円(400÷16=25)一両は四千文ですので(25×4000)¥100000。これも260年と長い徳川幕府の中で、かなり価値は変動します。
因みに「お主も悪よのぉ」に登場する『小判包』には『二十五両』入っており『二百五十万円!』の価値? 時代によっては『小判一両』が現在の価値に換算して¥40000~¥100000とかなり変動しています。仮に『小判一両=¥四万円』としても一包で百万!
賄賂に金が掛かったのは今も昔も変わらない。てか昔、悪人は成敗されたんですけど現在の悪徳政治家は………
主食も満足に買えないような国家にした『政治家』の責任は重い。
何処かで『トランペット』のアレが流れ出し、悪徳政治家に天誅………
『トランプ』の狙撃失敗を聞いた時、しっかりしろよ狙撃手と思った人はどれ位いるだろう。
日本でも『首相狙撃事件』が実行されてしまったが、何だか裏がある様な気がしてならないのですが………(以上あくまで個人的感想です)
前回『長久保宿』を訪れた時は『冬季閉鎖』(3月でしたが)の為に閉鎖されていた『史料館・濱屋』 国道沿いに出ている案内看板は目にしている人も多いと思いますが、通過ポイントの為に態々旧道を走る人は物好き?
更に物好きな私は4月に成るのを待って再訪しました。
駐車場の『椿』が満開。 さすが『木篇に春』 桜より『椿』ですねぇ。
前回は閉ざされていた『大戸』が解放されていました。
有料施設ならば受付が在り、係の人が此方を見てにっこり笑いながら料金徴収するのですが、此処は無料。『長和町』では無駄な人件費は掛けません。
その代わり入場者が自分で電源スイッチを操作して照明を点けます。『人感センサー』なんて無駄な投資はしません。
受付代わりに記名帖が在り、何時・誰が(代表他人数)訪れたか記入します。
個人情報の為に記入しない人も多いらしいのですが、何か在った時協力出来るように私は必ず、『来場地・佐久市』と個人名を記入します。(もし盗難や火災が起きた時、情報提供できるかも) あっ同じような理由で『ドライブレコーダー』付けてますけど、警察に画像提供した事も在りますデス。
電源スイッチを入れ照明を点けると足元に『レコーダー』が!
再生ボタンを押すと『長門町甚句』が流れ出し、簡単な『長門町』の説明が流れます。
まさか『カセットレコーダー』じゃ無いですよね。家には在るけど………
小学校時代、おばあちゃんちがこんな感じの竈門だった。
普通に懐かしい感じ。
旧中仙道を佐久に向けて走行中、交差点の信号待ちで見つけた石像。
『小田井』には『佐久地籍』と『御代田地籍』が在ります。
『小田井』と云う集落が『市町村制度』により二つに分けられてしまったとか。
『佐久市小田井』の小学生は『岩村田小学校』へバス通学しています。
『御代田町小田井』の小学生は『御代田南小学校』へ徒歩通学です。
『御代田町』と云えばもう一つ面白い発見が、『佐久インターウェーブ』の中に在る『サンキ』や『ゲオ』は『御代田町』らしいです。(企業税などは『御代田町』に入るのか)
信号待ちをしていてふと見つけた石碑。気になってバイクを降りました。
一応フェンスで囲まれていて、入り口にロープが張ってありましたけど『立ち入り禁止』とかにはなっていませんでした。
石碑には『御嶽山座王大権現』や『八海山』『三笠山』などの山岳信仰の文字が刻まれています。
此方の石仏は『御代田町』不動明王』でしょう。
剣を持ち、背中に『迦楼羅炎・カルラエン』と呼ばれる炎を纏っています。
通常顔は『憤怒』の表情で『悪』を睨みつけているのですが、此方の『お不動様』どこかのんびりしてるみたい。
『修験道』に於ける『山岳信仰』や『真言密教』の『お不動様』、更には『石の祠』などなどが一堂に会した形になっています。
恐らく『旧中仙道』の舗装工事の際、分散していた『石像・石碑』を管理しやすくするために此の場所に集めたのでしょう。
普段、信号や交差点に注意する為、見過ごしてしまう場所だっただけなんですけど新しい発見でした。
碓氷峠を超える機関車が電化される前、御代田駅は『スイッチバック』の引き込み線駅だったって知ってます?
その名残に『SL D51』が展示されていますが、其のレールこそが『スイッチバック』の在った場所です。
今は『しなの鉄道』が頑張って営業を続けてくれていますが、元々は『JR東日本』
更に民営化される以前は『国鉄』でした。
流石に私は『電化』以降の記憶しか在りませんけど、軽井沢駅で『碓氷峠専用電気機関車=EF63』を連結して碓氷峠を超えました。峠を越えた『横川駅』では連結した機関車を外す(=解放)為に10分程の停車時間が在りましたが、この時間こそが『釜めし』を購入する時間でした。(下りでは横川で連結し軽井沢駅で解放していました)
でも『軽井沢駅』で駅弁買った覚えが無いのは『横川の釜めし』が余りにも有名だったから?
因みに『軽井沢駅』は『駅構内立ち食い蕎麦』発祥の地とされています。
『駅待合室』で『立ち食いそば』の提供を始めたのが明治39年だそうです。
格安で素早く食べられる『立ち食い蕎麦』は瞬く間に日本全国に展開していきました。
で話を『御代田駅』にもどします。
バイクツーリングなどで知らない地域を訪れる時、観光案内図を見る為に立ち寄る事が多いです。(あわよくば観光パンフレットや割引券なんかも入手できるかも)
お勧めポイントは写真などが掲載されていて、食指が動かされる事が多いのですが、如何せん『期日限定行事』や『シーズンの見所』などはどうしようも無いですけど。
この『御代田駅』の一角には『西軽井沢ケーブルテレビ』の放送局が在ります。
世界一小さなテレビ局と云われています。(本当ならギネス?)
『放送中』の電光看板が目立っています。
興味ある方『YouTube』で検索どうぞ。
駅前ロータリーに『木柱』が立っていますが文字が消えちゃってる。
植え込みの中なので勝手に入り込む訳にも行かず………
ご存じの方情報提供お願いします。
平成の大合併でも他市町村との合併をしなかった『御代田町』
超有名観光地『軽井沢町』と、新幹線駅を中心に発展し続ける『佐久市』の間に位置しながら『有名企業』の工場などが林立し企業からの税金で(かなり)潤っているとか。
住環境も静かで福祉制度なども充実。『軽井沢』の様な渋滞も無く、佐久市の商業地迄車で10~15分程で行けます。
都会からの転入者が多いのも頷けます。
『御代田町役場』の前には何故か『ポットスチル』
私ゃ『ウイスキー蒸留工場』かと思ってました。
隣接して『浅間縄文ミュージアム』や『町立図書館』が在るからイマイチ『お役所感』が在りません。
高級ウイスキーの『三楽オーシャン』が造った銘酒『オーシャン軽井沢』を蒸留したポットスチルでしたか。(お高いんです。飲んだことないからなぁ)
そりゃ『お宝』だ。
私は『中仙道カード』を貰おうと観光課に立ち寄ったんですけど意外な発見でした。
でも『樽』に直に蒸留した原酒を落としていた?
役場入り口交差点からも見えますのでお近くをお通りの際はどうぞ。
佐久平駅の北口を『浅間口』、南口を『蓼科口』と呼んでいますが此れは『浅間山』と蓼科山』から来ています。
『蓼科山』は八ヶ岳連峰の一番北の端に位置し、山頂部は『溶岩ドーム』の体を成し丸くなっています。丸い山体と丸い溶岩ドームが重なっていて、佐久から見ると『お供え餅』の様に見える事から『御供え山』とも呼ばれます。
八ヶ岳の西に広がる温泉・別荘地などの観光地は『奥蓼科』と呼ばれています。
『東山魁夷』さんの絵画で有名な『御射ヶ池』や、縄文時代の土偶(国宝『縄文のビーナス』『仮面の女神』)が発掘された『尖り石遺跡』など見所も沢山あり人気の観光地です。
対して『立科』
『蓼科山山頂』や『女神湖』を有し(残念ながら『白樺湖』は茅野市)、美味しいりんご(私の知る限り美味しさはピカイチ)で有名な『五輪久保』なども在りますが一番の特徴は『立科町』の形です。
南北に細長く、東西の一番狭い処では幅が50mしか無い部分もあります。
更に北の部分も不思議な突起が在り、『エヴァンゲリオン』に登場する使徒『シャムシェル』みたくもないかな(個人的感想です。ツッコまんでね)
因みに『使徒』の名前は『聖書偽典』とされる『エノク書』に登場する『天使』(神に使える者)の名前だそうです。
『旧中仙道・芦田宿』で発展した『立科』ですが、国道やバイパスの発達により栄えるのはロードサイドばかり。一本裏道に入るだけで大変静かな住環境に成ります。
鉄道が無く、公共交通手段も乏しい為、町内には『立科高校』も在ります。
聞いた処では『保育園~高校』迄、同級生はほぼ一緒だとか。
旧中仙道を走っていて見つけたのが
高台にポツンと建つ『正明密寺』 真言宗のお寺です。
赤いトタンの下は分厚い『茅葺屋根』でしょう。
何も無いお寺ですがそこがまた良い。
参拝して御本尊拝観と思いきや、扉は閉ざされていました。
物騒な話題の多い昨今、戸締りは致し方ないか。
『平成の大合併』により『旧長門町』と『旧和田村』が合併して『長和町』が生まれました。
『平成の大合併』以前の長野県には、120もの市町村が存在しました。
役場の数も120,首長も120人。役場に勤務する人数たるや………
因みに『佐久市』も『旧佐久市』『旧臼田町』『旧浅科村』『旧望月町』の四市町村が合併し、人口10万人を超える市政になりました。
♪ 知らない街を歩いてみたい 何処か遠くへ行きたい。
旅行で観光地を訪ねるなら事前に観光ガイドなどで予備知識を蓄えていきますが、偶々訪れた町を歩いてみようかななんて思った時は先ず『駅』若しくは『道の駅』に向かいます。
簡単な観光パンフレットや、あわよくば『割引券』なんぞも手に入るかも知れません。
『駅』や『道の駅』が無い場合、『役場の観光課』を訪ねる事に成ります。
普段、在住者以外は訪れる事も無い『役場or役所』ですが、訪ねてみると意外な発見が在ったりします。
今回『長和町』を訪ねたのは『商工会議所』の発行している『中仙道カード』を入手したいが為です。
『長和町役場』では親切丁寧な対応で「道の駅の観光案内所で配っていますので其方へどうぞ」と案内されました。
長和町の道の駅は実に充実していて、『農産物直売所マルシェ黒曜』『長門温泉やすらぎの湯』『食事処のんのん』『コンビニ』などが大型駐車場の周りに集まっています。
知り合いの大型トラック運転手は、食事して温泉に入って湯上りにコンビニで買った『〇〇〇』を吞んで、ひと眠りしてから長距離運行に出るそうです。(飲酒運転はしないでね。)
『長和町商工会』の建物ですが『観光案内所』や『レンタサイクル』も在ります。
長野県の有名な観光地『白樺湖』や『車山』『霧ヶ峰』『王ヶ頭』『美ヶ原高原美術館』『旧中仙道和田峠』などは、 惜しい! 全てに隣接していますけど『長和町』じゃないんですね。
私がお勧めする『長和町』の観光名所。
『黒曜の泉』ペットボトル持参の事。
『星糞館』山の中を歩きます。こんな山の中に?と驚く様な展示。
『不動滝』途中の帯状節理が素敵。
『和田峠茶屋~旧和田峠までの旧中仙道』新緑の頃歩きたい。水持参の事。
『蚯蚓神社』歩道が在りませんので注意。
如何です。『長和町』 訪れてみたくなったでしょう?
戦国時代は『真田氏』の領土として統治されていた『旧中仙道』二十七番目の宿場町『長久保宿』 東に『笠取峠』、西は『依田川』と『武石村』との境をなす急峻な山並みに挟まれ、『上田』や『松本』『茅野』方面への交通の重要な分岐点です。
1449年、『覚信』により建てられた御堂が元になりますが場所は不明だそうです。
1600年、領主『真田氏』に請願して『松尾山福応寺』として依田川沿いに建立されましたが。河川氾濫により流失、1632年に現在の場所に『観音寺』として再興されました。
正式名称『真言宗・松尾山・観音寺』
『五十鈴川』沿いに駐車場が在ります。
『観音寺』の御本尊が『地蔵菩薩』と云うのも不思議な話だと早速境内へ。
先ずは本堂にて参拝。時代なのか扉は開きませんでした。
庫裏に申し出れば拝観は可能なのでしょうけど………お賽銭が五円玉って訳にはいかない。音も無くㇲッと落ちていくのにしなきゃねぇ。
お釈迦様の誕生日『灌仏会=花まつり』(今日4月8日だけど行けないな)にでも解放されるかも知れません。
境内の隅には石積の上に『宝篋印塔』 良い感じに寂びています。
参道の『二十三夜塔』に『文政十三寅年仲冬』の文字が読み取れます。『仲冬』とは陰暦の11月の事です。『1830年・寅年の11月』にこの石碑が立てられました。
『二十三夜』とは『月待ち講』の一つで、月齢二十三日の夜、月の出を待って老若男女が集い、飲食などを共にして親交を深めた行事です。
娯楽が少なく、移動手段も限られていた時代、『祭り』や『月待ち講』などは年頃の男女が出逢える貴重な機会の一つでした。
『神社仏閣』の高台などに在る『月見櫓』に皆で集まり、飲食しながら歓談し『月の出』を待つ習わしです。
石碑を立てて『月待講』が在るのを告知したのでしょう。(スマホが在れば『SNS』等に写真を投稿するのでしょうけど)
この石碑の周りに若い男女が集まって、月を見ながら………ご自由にどうぞ。
『高札』とは宿場町の主要地点に掲げられた『定め書き』とか『告知』の事です。
時代劇などで町人が集まって「なんて書いてあるんだい」「どれどれワシが読んで進ぜよう」などと会話されるアレ。
『お尋ね人』などは現代の『指名手配写真』のようなモノで、立て札に張り出されましたが『高札』とはチョっと違います。
大体はその宿場の権力者の協力により土地を提供されたり、『神社仏閣』などの人の集まる処に建てられました。
こりゃまた立派な『高札所』です。
『定』で始まるのは『法や規則』 末尾に『奉行』と書かれています。
『毒薬』や『偽薬』なんて物を売るな。とか『博打の禁止』なんてのも書かれています。
年号は『正徳=1711~』と書かれていますが当時は『草書体』の筈。
このような『仮名文字』が在る訳でなく、現代のフォントで書かれています。
ですので『資料館』が出来た時に造られた物でしょう。
此方は『問屋場』の料金表。
『芦田宿』迄『荷物』を運ぶのに『百三文』
『和田宿』迄『荷物』を運ぶのに『百四十五文』とか決められています。
大きさや重さは関係なかったのだろうか?
本陣の前。
惜しいなぁ。電線が無きゃ『映画ロケ地』に推奨出来たのに。
『旧中仙道・長久保宿』には三叉路が在り、東へ行けば『笠取峠』経由・岩村田方面。
南に下れば次の分岐で『旧中仙道宿場町・和田宿』と『大門峠』経由の『茅野』方面に分かれます。
北へ向かえば『おたや祭り』で有名な『豊受大神宮』などの前を通って『青木村』から『保福寺峠』経由で『松本方面』、若しくは『大屋』から『善光寺街道』等に出られます。
交通の要所という事は『戦国大名』にとっても押さえておきたい地点のひとつ。
此の辺りは『真田氏』が押さえていましたが、『甲斐武田軍』との軋轢もあった事でしょう。
映画『七人の侍』の様に自然農民も武器を備えていたかもしれません。
江戸時代になり『街道制度』が制定されると、『本陣』や『問屋場』の設置が義務付けられ、街は更に発展します。でもその割に『造り酒屋』が無いのが不思議。
特に和田峠下の『黒曜の水』なんか最高の『酒』が出来そうなんですけど。硬度の問題とかかな。
町管轄の休憩所は『旅籠』として建てられたそうです。
逆に現代なら停まってみたい人いるかも。(ユースホステル何か良いんじゃない?)
歴史館。冬季閉鎖でした。 再訪してみますか。
『銃刀法』とは『銃刀剣類所持取り締まり法』の略で、銃砲や刀剣類の所持・使用を規制する法律です。
此れに違反すると『処罰』の対象になりますが、資料などとして展示する際には『盗難防止策』や『許可申請』が受理されれば認可されるそうです。
『火縄銃』なども美術品として価値があると認められれば『登録・所持許可証』が発行されるとか。
盗難対策のケースに反射しちゃって見づらいですが『古式銃=火縄銃』です。
『火薬入れ』や『玉入れ』も保存されています。
更には
『刀』と『朱槍』
手前に在るのが『銃刀法登録許可証』かな。
『刀掛け』の中央には『おもだか紋』 有名処は『福島正則』と『水野勝成』ですが、『水野家子孫』が『小諸藩主・千石秀久』に使えていますのでその繋がりかも知れません。(確証在りません。あくまで個人的見解です)
この『吾一庵』 只の農家と見くびるなかれ。
『旧中仙道・長久保宿』の一等地に間口を構え、『馬』を所持していた。(馬具とか有ります) 農家なら『牛』を飼うでしょうから、『問屋場』などにも関与していたのかも知れません。
沢山の『能面』なども展示されていますが、それらを所持していたって事は神社に『舞踊奉納』する程の権力者だったのでしょう。
ええっと『良寛さん』? だったかな。
日本地図と云えば『伊能忠敬』が有名ですが、それ以前にはこんなデフォルメされた地図が在ったんですね。
逆にチョット衝撃を受けました。
『能登半島』何かちょこっと突き出てるだけですし、『紀伊半島』の突出具合なんて『浜松』辺りまで来ちゃってる。『伊勢湾』に比べて『琵琶湖』のでかいの何の。
『信濃の国』を東から観た地図ってのも珍しい。
でもこの地図は意外と正確かも。
噴煙を上げている『浅間山』や『千曲川』も正確に描かれています。
でも何でこの向き?
階段を昇って2階へ。階段幅も狭いし天井も低いですが、江戸時代はこれで良かったのでしょう。
江戸時代に『蓄音機』や『目覚まし時計』は無かったでしょうから、『明治~昭和』の生活道具です。
『勲章』やら『タバコ』『履き物』『寄附帳』『信濃新聞』と様々な物が展示されています。
『農家』として説明されていますがかなり裕福な家だったのでは。
『旧中仙道』の宿場町だった『長久保宿』 『江戸方面』からは笠取峠を超え、清流の流れる『五十鈴川』を渡ると宿場町に入ります。
東西に開けた宿場町の西端は『依田川』が流れ、南に下れば『和田宿』経由で『和田峠』を越え『諏訪』、若しくは『大門峠』を超えて『茅野』方面へ続いています。
北へ向かえば『大屋』で『善光寺街道』と合流、又は『保福寺峠』経由で松本方面へ繋がっています。
車社会の現代では舗装された道を快適に走り、たとえ道を間違えても簡単に戻れますが、『徒歩』で未舗装の泥道を歩いた江戸時代では、一歩間違えれば命に係わる場合も在りました。
地図の無かった時代、『最短距離=安全』ではない為、旅人はさぞや苦労してルートを決めたのでしょう。
『長久保宿』は夜間の峠越えを回避する為にも重要な場所だったのでしょう。
その宿場町が発展していたかどうかは『神社仏閣』を見れば想像できます。
大きな『寺』が幾つもある様な宿場町では、それだけ多くのお墓が必要とされていたと解ります。(人口密度が高かった) 故に商業も発達するでしょうし、必要とされる食料も膨大になります。山間部で在りながら『依田川』の造った平地が多いこの付近では『稲作』に適していたのかも知れません。
江戸時代からの建物が残る『長久保宿』の中程に『吾一庵』が在りました。
私が『長久保宿』を訪ねたのは3月下旬の陽春の日。
他にも『長久保宿』内に観光施設などが在るのですが、どこも『11月~3月末まで閉鎖』の所が多いみたいです。(観光客が少ないから冬季閉鎖って事?)
街道に面して、広い間口を持ちながら『農家』?
引き戸を開けて中を伺いますと。
『引き戸』と『案内』の間を(古いガラス戸)『馬』が通り抜けていたそうで、土壁には当時の『農機具』が展示されていました。
引き戸を開けると土間
越後のちりめん問屋のご隠居を隠れ蓑に、助さん格さんを従えて『諸国漫遊の世直し旅』に出掛けるのは『光圀』
『靖国』は『東京九段下』の『英霊』を供養する為の神社です。
『日清戦争』以降、国の為に戦って戦死した『御霊』を『英霊=神』として祀る神社です。
毎年『終戦記念日』に首長が『靖国神社』に参拝すると各メディアがこぞって「公人としてですか、私人としてですか?」なんて大騒ぎするけど、もっと他に報道すべき事あんだろうが!
命懸けで戦って命を落とした人を慰霊して何が悪い?
戦争で負け『サンフランシスコ条約』に調印したから今の日本が構築されたので在って、戦死した人を慰霊してはいけないとは謳ってないじゃないか。
『特攻機』に乗り込む際、「靖国で会おう」を誓い合って国の為に命を懸けて戦ってくれた人達。私は慰霊碑を見るたびに礼を捧げます。
その『靖国神社』の鳥居に落書きをした中〇人! 本国で逮捕されたそうですが日本に対して謝罪は無いとか。日本は『武士道の国』あんまり舐めてると痛い目に遭うヨ。
『松尾大社』がこの場所に移築されましたが、本来の参道の正面に鎮座するのが『靖国霊社』
徴収され、出兵・戦死して『神』と神格化されたら『靖国神社』に祀られますが、戦死が確認されない人達(遺骨が無かったり行方不明)は『靖国神社』に名前が残されないそうです。
『靖国神社』に奉られなかった方々を慰霊する為各地に『靖国霊社』や『慰霊碑』が建てられました。
このすぐ裏手は旧中仙道、訪れた時は修復工事の最中で、道路工事の音が響いていましたが、社の周囲だけは少し雰囲気が異なります。
風も無いのに『紙垂』が揺れたのは気のせい?
沢山の『摂社』『祠』が祀られています。
『注連縄』と『紙垂』が新しいのは最近『春祭り』が在ったのいでしょうか。
『松尾大社』が移築された此の場所。中仙道を歩いてきた人達にとってはオアシスの様な場所だったのかも知れません。
現在はすぐ脇をバイパスが通り、大型トラックが引っ切り無しに走行しています。
近くを通ったなら一度寄ってみて下さい。(酒好きは特に)
『松尾大社』の境内の様子です。参道の橋を渡って来ると左手に拝殿を見る形です。
でも手水の脇に『御柱』が立ち『太い注連縄』が下がっています。
『赤松』の根を捲くように石畳が続いています。
奥には鳥居が。『松尾様』とは別の御社が見えます。
上の写真の一番右が『松尾大社拝殿』渡り廊下で繋がった奥が『松尾大社本殿』です。
『注連縄』下の石畳を来ると真っ直ぐ石段に繋がっています。
中央の石灯篭の右側にも参道が在り鳥居を潜ると石段へと続きもう一つの御社に続いています。
先ずは『松尾様』の祀られている『本殿』拝見は前回まで。
一度戻っ石畳沿いに向かって左の御社へ。
でも何も書かれていません。何の神様?
囲いの『白木』は新しいようですが、屋根の分厚さからおそらく『茅葺』です。
『千木・鰹木』を備えていますら、由緒ある神様の筈です。
酒蔵見学をしていたら『あそこ』に行っていない事に気が付きました。
『あそこ』とは『旧中仙道・長久保宿・松尾大社』
『旧中仙道』で『望月宿』~『茂田井・間の宿』~『芦田宿』から『笠取峠』を超えて下った先が『長久保宿』 今でも国道152号線が『旧中仙道』のすぐ傍を通っていて、峠道のクネクネが終わり「る頃、右手に見えて来る鳥居が『松尾大社』の鳥居です。
鳥居の先(鳥居・まつり地蔵等の写真が何処かに行っちゃった) 川を渡ると『松尾大社境内』です。
『五十鈴川』と聞くと『神宮』を想像してしまいます。
試しに橋の上から覗き込むと水は綺麗ですが護岸工事で固められた川底には魚影は見当たりませんでした。
この川の上流には『ゴルフ場』や『大規模農園』は無い筈。水は綺麗なんだから魚がいてもおかしくないのに。岩陰に出も隠れていると良いんですけど。
『ゴルフ場』や『農場』では大量の『農薬』などを散布します。それが雨と共に川に流れこむと水質に敏感な魚(特にヤマメ・イワナ)は途端に姿を消してしまいます。
昔は『フライフィッシング』で誰も居ない渓流を独り遡ったりしましたが、今じゃ無理! ってか『熊』や『スズメバチ』が怖いなぁ。
手水鉢には水道管から水が流れっぱなしでしたが、よく見て欲しいのは『蛇口』
『蛇』では無くて『くじら』?更にハンドル部分も独特で『潮吹き』を表現しているのでしょうか。(拡大した写真も確かに撮影したのにデータが無い……)
先ずは『松尾大社』に参拝です。
『今年も美味しくお酒を吞めます様に』
本来は『酒造り』の神様ですから『杜氏』などが『今年も美味しいお酒が造れます様に』と拝むのがホントですけど。
ガラス戸越の撮影ですので鮮明さがイマイチ。
拝殿から廻り込み、裏手に廻って本殿を伺います。
『酒蔵』『味噌・醤油蔵』『ワイン醸造所』『beer醸造所』『ウイスキー蒸留所』
色々な製造所直売のお店って何か好きです。
只、飲酒運転は絶対禁止なので『バスツアー』などで行かないと試飲出来ないのがつまらない。
造り酒屋の『蔵開き』など大変面白いのに、車で行く事出来ないのがネックです。
『蔵元』と『酒の資料館』からカーブを降りた処に直売所が在ります。
隣に喫茶室もあって『甘酒』なども頂けるのですけど先ずは『蔵』を改造した『直売所』へ。
店内には誰も居ませんでしたが、センサーでも在るのか直ぐに係の人が来ました。
おそらく『喫茶室』兼務?
許可を頂いて店内撮影。
『黒澤酒造』の看板商品『井筒長』や『㋣』『八千穂』『百姓物語』更には年末年始のみ販売の『商売繁盛』と品数も豊富です。
更には『そば焼酎』の『井筒盛』や『甘酒』、『白樺』の樹液から造ったジュース『白樺の恵』等も在ります。
『松原湖』の氷結した湖底で眠らせる『湖底ロマン』なんてのも在りますのでどれも飲んでみたい! 商売上手いんだから。
入口に置かれた『ワンコイン自販機』 だから車で来ちゃダメだって。
今度、小海線にでも揺られて来るしか無いか。今日は『㋣』をかいまして。
㋣の商品名は『日が昇る』を意味するそうです。
蔵の一階部分に『酒造りミニチュア人形』が展示されていましたが、他はどちらかと云うと『古民家家具』や『農具』が多かった様な。確かに『秤』や『蒸篭』なども在りましたが『酒の資料館』と呼ぶには? と思いながら庭へ。
『酒』の神様は『松尾様』ですので『造り酒屋』には必ず『松尾大社』が祀られている筈。しかし途中から立ち入り禁止になっていましたので『松尾様』は拝めませんでした。
蔵の二階部分へ上る外階段を上って見ると。
色々な銘柄の書かれた『四合徳利』や『薦被り』がズラリと展示されています。
靴を脱いで奥へと進むと、湿気を嫌う為か二重ドアが在ります。
凄い数のコレクションです。『徳利』『杯』『猪口』『樽』興味ある人が見ると大変面白いかと。
神棚が在りましたので『松尾様』は此方かな。
こんなの見ながら『お酒』(モチロン日本酒)飲んだら美味しいだろうなぁ。
『蔵』の入り口に置かれた『大釜』と酒米を蒸す為の『甑・こしき』
釜の下ではガンガンに火が燃やされ、蒸気の立った甑の横を梯子で登る。
現代なら『危機管理能力』がどうの『安全対策』がこうのなんて問題視されて、動画投稿サイトに直ぐアップされちゃう。
蔵の引き戸は解放されていました。
ショーケースの中にはミニチュアの人形がズラリと並んでいて、順を追って『酒造り』の模様を表現しいます。
いやこの精巧さはもっとアピールして良いんじゃない?
作者の名前も記されていましたが失念してしまいました。
他にも『古民家』で使われていた『囲炉裏』や『道具』がズラリ。というか脈絡なく置かれています。
中には『お宝〇定団』に出したら面白いかも。なんて物もチラホラ。
中には『我楽多』かな? ってえのも。
私この手の『ガラクタ』(失礼)『古民家具』観るの大好きです。
『顕微鏡』やら『分銅秤』『ろ過装置』『只の空き瓶』
まぁ時間の許す限りご堪能下さい。
車を『奥村土牛記念美術館』に停めたまま(許可を得てます)歩いて『黒澤酒造』へ。
途中の『蔵』は『醸造所』として使われていたそう。『黒澤醸造』の跡です。
なんて『昭和レトロ』を感じる通りだろう。
歩くのが楽しいですから是非とも散策して下さい。
『黒澤酒造・酒の資料館』 受付等が見当たりませんでしたので並びの建物で出荷作業している人に確認しますと、有難い事に「無料です、ご自由にどうぞ」ですと。(誰が何といっても、文末には句読点を使います)
時代劇などに見る店先の『日除け暖簾』とか『店頭幕』と呼ばれる布が良い味出しています。
本来は『看板』であると同時に、店に差し込む太陽光を遮り、商品を『日焼け』から守ったり、ガラス戸の無い時代の『風よけ』や『埃よけ』に用いられました。
もう一つは『顧客のプライバシー保護』の為の目隠しの意味合いもあったそうです。
『高知・はりまや橋』の小間物屋さんに『日除け暖簾』が在ったなら 、坊さんが『簪』買う処を見られずに済んだのに……。(それじゃ『よさこい節』が生まれなかったってか)
暖簾をくぐると『井筒長』の『一斗樽(陶器)』 (これ家にも在るもんね)が置かれていました。木製の樽は『アルコールの抜ける(気化)』のが早いし、木が水分を吸収しちゃう。樽に入れて直ぐに飲み切るなら『木製樽』でも十分足りるそうです。
『陶器製の樽』は『料亭』や『角打ち』などの酒屋に置かれ、『木栓』を捻ると『キュ~ッ』と良い音がするんです。それを『桝』に受けて『キュ~ッ』と飲み干す。(たまらんなぁ)
個人で『酒』を消費する為のモノじゃ無いですから家では『貯金箱』になっています。(これも貯まらん)
『井筒』とは『井戸』の地表部分の『木枠』や『石組』などを言います。
正にこれが『井筒』です。
『筒井筒』という表現が在り、井戸の周りで男の子も女の子も混じって遊んでいた。段々と成長するにつれ疎遠になってしまうのだが、大人となり、ひょんな事がきっかけで昔の仲良かった相手が気になりだしやがては夫婦となる。『伊勢物語?』(正直、古文が大っ嫌いでした)
よく見ると軒下に『鶴瓶車』が設えて在ります。
石の枠組みの上には『手押しポンプ』が見えます。
これ経験したい人『ぴんころ地蔵』の脇に春~秋迄設置されます。(冬期は凍結損壊を防ぐために撤去)
尤も『電動揚水ポンプ』が開発されたら全て過去の遺産です。
かなり古い『消防ポンプ車』も置かれていました。
『消防署・消防団』が復旧する以前は『自警団』として大きな商店や工場などが自前で『消火器具』を持っていました。
『消火器』が無い時代には此れが最高級の消火対策でした。(尤もこれはエンジンポンプ)
『野沢・伴野酒造』さんには『手押し式の消火ポンプ』が店頭に置かれています。
車を引き廻す『取手』の上に置かれた『防火頭巾』が時代劇を思い出させます。
『赤穂浪士』討ち入りの時、『大石倉之助』が被っているのも『防火頭巾』です。
『赤穂藩』を脱藩し(責任を藩に取らせない為)『浪人』(主君に使えない=給料を貰えない)となってからは自活の為、その多くは『火消人足』として江戸の町に身を隠しました。
武士だった者が在る者は『蕎麦屋』『居酒屋』などに身をやつし、『吉良上野介邸』の『絵図面』などの情報を集めたのは全て『仇討ち』の為。
『一打ち・二打ち・三流し』と呼ばれる『山縣陣太鼓』と共に『火消装束』を身に纏った『赤穂四十七士』が吉良邸の門を破壊し突入します。
この『破壊道具』こそが当時の『消火活動=破壊消火』に使われた『大槌』や『鉞・まさかり』『大鋸・のこぎり』などで、『梯子』や『鳶口』も携えていたそうです。
詳しくは『映画・赤穂浪士』を観る事をお勧めします。
毎年12月にこの映画を見ると『賃餅=超繁忙期』が始まります。
『奥村土牛記念美術館』の2階へ。
先程の庭を2階から見下ろすと。
池は氷結したのではなく、降った雪が池の中に溜まった状態。
水温が氷点下近いと起きる現象です。(過冷却とはチョっと違う)
この建物は『黒澤家合同会社』の所有物で、結婚式などが行われた事も在るとか。
その控室などに使われたであろう小部屋には色々なものが展示されていました。
大きな額の中央、実物を見たのは初めてです。
『大日本国璽・こくじ』と彫られています。
勲章贈与の時、勲記(賞状)に押される『印』で、印刷では無く『朱肉』で押印されるそうです。
これとは別に『御璽』と呼ばれる印も在り、国亊行為に押印される天皇家の『印』で『天皇御璽』と彫られているそうです。
例えば『総理大臣任命書』等に押されているとか。(見た事無いですけど)
陳列ケースの中には『勲章』がズラリ。
私の観た事ある勲章は、消防団長が貰った勲章『瑞宝章』位かな。
額の中に賞状と勲章が収められていました。(て事はその時に『国璽印』を見てる?)
『奥村土牛』も凄いですけど『黒澤家』恐るべし。
では次に『造り酒屋』の『黒澤家』に行ってみますか。
以下次回です。
戦時中、『旧・八千穂村』に疎開していた『奥村土牛さん』は、地元の名家『黒澤家』の手厚い庇護を受け数々の作品を残しました。
101歳でその生涯を閉じると、遺族から作品の数々が『黒澤家』に提供されました。
『黒澤家』の合名会社(造り酒屋・味噌醤油醸造・薬品販売など)が社屋として使っていた『迎賓館』的な社屋『黒澤会館』の離れに居住していた『奥村土牛さん』 戦時中でも絵画に没頭できたのは『黒澤家』在っての事でしょう。
1990年、『黒澤会館』を改築し『奥村土牛記念美術館』として公開、数々の作品を展示しています。
※詳しくは『佐久穂 黒澤酒造株式会社 黒澤の歴史』
庭に面した順路を進むと庭が見えました。
事前に撮影の了解を得ていましたのでカメラを向けると「ご自由に窓を開けて下さい」と係の方から声が掛りました。普通は「作品保護の為、窓を開けないで」と云われるのかと思っていただけにチョット驚きです。
では遠慮なく。(と云っても寒気が室内に入らない様に気を使って)
ホント雪が積もった松は絵(写真か)になります。
うちは庭が無いから尚の事憧れちゃう。(固定資産税とか大変だろうな)
窓ガラスは昔ながらの『板ガラス』微妙に凸凹している為景色が歪んで見えます。
そして鍵。 懐かしい! 此れを差し込んで、ぐりぐり廻してロックします。
あっセキュリティは万全ですから。あくまで懐古主義の為です。
レトロな『ガスストーブ』も展示。暖房は隣の大型ヒーターが活躍しています。
『奥村土 牛』ですと地域特産品種の『牛』のように聞こえてしまいますけど。
佐久穂町・国道141号線沿いに『奥村土牛記念美術館』の案内が出ています。
日本を代表する画家の一人で本名は『奥村義三・よしぞう』
中国の『寒山詩』 「土牛 石田 を耕す」 の一節から名前を頂いたとか。
国道の案内に従って『八千穂駅』前に向かうと
二日ほど前に降り積もった雪がまだ残っている3月初頭に尋ねてみますと。
入館料は¥500/大人 ちと高くない?と思うのは私だけ?
そもそも『奥村土牛』 名前は聞いた事ありますけど、どんな作風とかは余り知りませんでした。
駐車場の中でWikipediaを見ますと。
近代日本画家を代表する方で、101歳の長寿を全うされた方。
日本美術院の理事長を務め、その作品は『皇居』にも飾られているとか。
『東京都京橋』に生まれ若き頃から『日本画』を学び、数々の賞を受賞。
武蔵野美術大学の日本画教授に抜擢される。
戦時中『八千穂』に疎開した縁から『町立美術館』建設に至ります。
『文化勲章』を受賞し『日本美術学院理事』に任命。東京都名誉都民に選ばれる。
1990年 101歳にて永眠。
入口に教育委員会の設置した説明書きが在ります。私こういうの読むの好き。
ふむふむと読み始めますと……
八千穂の名家『黒澤家』の迎賓館的な建物を『奥村土牛美術館』として改築。町の文化財として保存しています。(もぎりの方は佐久穂町職員かな)
入口の『松に白雪』を観るだけで、何か得した気分です。
入口で入館料を払いまして。
入ってすぐ、一枚の写真が飾られています。この方が『奥村土牛』
93歳にしてこの眼光。かくしゃくとしています。
では展示室へ……次回です。
読めます?『鼻顔稲荷』 『はなづら稲荷』と読みます。
『日本五大稲荷』とも『七大稲荷』とも数えられる『鼻顔稲荷』
『鼻顔』の語源は地名に在りまっす。
『湯川』の形成した河岸段丘東側に在り、『鼻っつら』の様に突き出た形だった(現在は浸食作用によりかなり形が変わった模様です)処から『鼻面』 転じて『鼻顔』になったそうです。(だったと思う)
毎年『初午』に出掛け、『商売繁盛』を祈願して『御札』を頂くと同時に、全国各地の『稲荷神社』で願掛けした『商売繁盛』の『願ほどき』と新たな『願掛け』をするのですが、今年は都合で後日の参拝となりました。
鳥居脇の駐車場も舗装され利用し易くなりました。
その駐車場の脇、祠が在るのですが
石灯篭の火袋に貼られた紙は新しい。新年に張り替えられたみたいです。
『だいにち神社』とも『だいひ神社』とも読めるらしいです。
『大日』と云えば思いつくのが『大日如来』
『仏教神』を崇める為の神社、『神仏習合』の名残でしょうか。
Wikipediaで検索しても的を得る答えは見つかりません。
日本各地に在るみたいですが『佐久・岩村田』の『白山神社』の脇にも社が建っています。
注連縄が張られているから『神様』の『御社』=『神社』ですので此方が『大日神社』みたいです。
隣家と近い……
此ちら、『白山神社』の脇の建物。
仏像が納められていますから『御堂』って事に成ります。
神社の境内に『仏様』を祀る『御堂』
しかも『新しい線香』やら掃除が行き届いている処をみると頻繁に人が来ている模様です。
奉納幕に個人名が書かれていますので、熱心な方が寄進されたのでしょう。
『神と仏』が民衆文化によってごっちゃになった『神仏習合』
『仏教』の考えでは『神』も『仏の化身』=『本地垂迹』と教えていますけど、明治政府が『神仏分離令』を発したからややこしいったらありゃしない。
どう考えても『大日神社』も『大日如来』に掛かっているんじゃないの?
ご存じの方。googlemapにでもクチコミ願います。
『岩村田・湯川』の西岸には、かつて『河岸段丘』を防御の要とした『豪族・大井氏』の居城『黒岩城(大井城)』が存在しました。
現在は『王城公園』として緑地公園になっていますが此処の『大欅』は見事です。
県道156号線で分断されていますが道路南側にも城址が確認できます。
その更に南側は住宅地に成っていますが、その一角に『白山神社』が建っています。
切り立った崖の上に在るように見えますが、元々『城跡』の高さに建っていたのでしょう。
擁壁やら石積みやら見ると比較的新し目?
藤棚の下、ベンチも置かれていますがその奥には剥き出しの岩。
堆積岩のように見えますが詳細不明。 って木の幹……?
『岩村田駅・新駅舎完成』と聞いて岩村田の町を訪ねました。
『旧中仙道』の時代より大変栄えた『岩村田宿』
『中仙道』はもとより『佐久甲州街道』『下仁田街道』なども交わる交通の拠点で、現在でも『官公街』として『警察署』『裁判所』『検察局』『税務署』などが並び、他にも大きな『神社仏閣』や『高校』なども在ります。
長野県最古と云われている『佐久ホテル』の近く、現在は『岩村田中央公園』が在りますが、以前は一年365日を表す丸太が植えられており『誕生日の丘』が在りました。残念ながら丸太が朽ちてしまい今は撤去されています。
此の場所は宿場町の時代には『歓楽街』『遊郭』なども在り、治安維持の為の『警察詰め所』(警察署でも交番でも無い?)を建てた場所だそうです。
現在は『佐久警察所』として岩村田駅近くに移転しています。
そんな公園の片隅に鳥居が立っていました。
『神明神社』と鳥居に書かれている以外手掛かりは無し。
鳥居の形式が『神明造り』ですので『天照大御神』や『豊受大神』を祀る『神宮』の摂社かも知れません。
『神社庁』さん。『佐久教育委員会』さん出番ですよ。
道路を走っていて目にする『〇〇迄何㎞』の道路案内。不思議に思った事在りません?
高速道路を走っていて次の『SA』や『IC』迄、この標識から何㎞と書かれていれば納得ですが、地名で書かれている場合、一体何処の地点を示しているのか。
例えば『ぴんころ地蔵』参拝後に『別所温泉』へ行こうとしたとします。
『カーナビ』に『別所温泉』と入力すると『別所温泉駅』や『別所温泉駐車場』などから選択する筈です。
国道18号線などを走行中に『上田市・〇〇㎞』などと書かれている場合、標識の建っている場所を起点にしていますが、目的地は『上田の何処?』
大抵の場合はその地域の『官公庁舎』、県庁所在地では『県庁舎』前、 市町村の場合は『市町村舎屋』前を示す場合が多いみたいです。
が『長野市』の場合、県庁が在るにも関わらず、目的地となるのは『善光寺』の門前になるみたいです。
『善光寺の門前』には『長野市・道路原票』が在るからです。
江戸幕府が制定した『街道制度』 『江戸日本橋』を起点に『五街道』が制定され、『関所』の他にも『本陣』『宿場町』『問屋場』など細かな決まりが設けられました。
時間経過と共に『五街道』以外にも準ずる幾つもの『街道』が整備されます。
例えば『中仙道追分宿』から分岐して『長野・善光寺』迄を結ぶ『北国街道』(正式には『北国脇往還』)も造られました。一般には『善光寺』に参拝する人が多かったから『善光寺街道』とも呼ばれたそうです。
交通手段のメインが『徒歩』であった為、防犯上から日没までには『宿場』に辿り着かなければならず、おおよその目安にしたのが『一里塚』です。(一里≒4km) 江戸時代の旅人は一日八里、健脚家で十里(40km!)~十ニ里も歩いたそうです。
東海道を順調に歩いて旅すると『江戸=京都(≒495km)』は2週間掛るのが普通で、橋の無い川の増水時などは『川止め』と云って通行出来ず、更に日数を要しました。
その為『冬期』以外では『中仙道』を選ぶ旅人も多かったそうです。
最終目的地まで、後どの位の距離か、何処で宿泊するかなど予定を立てる為にも『目的地=道路原票』が必要でした。
佐久市にも『道路原票』が在るのをご存じですか?
場所は『岩村田』の『岩村田交差点』の脇、電柱に隠れる様に建っています。
この交差点は今でこそ『餃子直売所』で有名ですが、『旧甲州街道』と『鼻顔稲荷』経由の『下仁田街道』の交点として栄えた場所でした。
更に『岩村田宿』は、『甲州』の人が『善光寺』を目指して歩いた『佐久甲州街道』も合流する『中仙道一栄えた宿場町』だったそうです。
その後に『廃藩置県』や『市町村精度』が発令され、『佐久市役所』も建てられましたが、道路上では『佐久道路原票』が佐久の起点になっています。
何となく文字が彫られているのですが、光の加減も在って読み取ることは出来ませんでした。
『佐久教育委員会さん。出番ですよ~』
もし『佐久市まで〇〇㎞』の標識を見掛けたら多分此処を示している筈です(違うかも……責任持てません)
私が『岩村田駅』を利用した事は過去一度だけ。(高校時代の部活遠征のみ)
バイク免許を習得してからは、バイクの方が『岩村田』に行くの早いんだもの。
その『岩村田駅』が新しくなったとか。行ってみますか。(もちろん車で)
何か、かなりこじんまりしちゃった?
以前は売店も在ったと思うんですけど。(何時の話だ)
中込駅にも売店(JRだからkiosk)が在って、『高原のカツ弁当』を売っていたのは私が中学の時まで。その後駅弁も無くなり、暫くすると売店すら廃止。
売り上げに対して人件費やロスを考えると採算取れなかったんでしょうね。
駅舎は待合室と切符券売機が在るだけ……無人駅になってました。
て事は『改札』も無い。
いやよく見れば窓口が在るから無人駅じゃ無さそう。
新しくなったのは良いのだけど、何だか寂しく見えるのは何故?
以前の駅舎。駅務室がかなり広いと思ったけど気のせいかな。
『岩村田高校』『佐久長聖高校』などの高校生がかなり利用していたと思うんですけど、生徒数もかなり減少しているみたいだし。
『小海線』は『JR東日本』の管轄だから苦しくとも何とか現状維持しているみたいです。
これがもっと利用客が少なくなると存続すら危ういかも。
交通弱者の為に無くてはならない『小海線』です。
たまには『小海線』に乗りますか。
ぴんころ地蔵から車でほんの数分も走れば、黄金色輝く田圃が広がります。浅科区では五郎兵衛米というお米が獲れます。内緒にしておきたいくらい美味いです。
新米が出回るのはまだまだ先ですが、一度お試しください。道の駅、お土産売り場等で買えます。五郎兵衛米です。ブランド価格します。
40年も昔の話。田圃にコンバインの姿が無く、稲刈りした稲束をハゼという棒に掛けて天日乾燥させていました。
群がるのは イナゴ。バッタのことですが漢字では 蝗。稲穂を食いつぶす害虫です。
小学校の授業の一環で、イナゴとり がありました。イナゴを全員で採取して駆逐し、尚且つ業者に売るのです。その利益で図書館の本や備品購入代金にするのです。
買った業者はどうするのか?佃煮にして売るのです。
信州三大珍味。(ゲテモノ?) ハチの子ご飯。イナゴ、カイコの佃煮。ザザムシの佃煮。えっ?本当に食べてたんです。今でも缶詰や瓶詰で売られています。しかもお値段なかなかの高級食材。
都内某所の居酒屋で、イナゴの佃煮7~8匹で¥500でした。
高級食材入手の際、田圃でのトラブルはお避け下さい。
北大路魯山人 の逸話に、「田螺の生茹でが大好物。この田螺に寄生していたアニサキスのせいで早死にした。」とあります。ほんとうかどうか真意はさて置き、田螺もたべていました。
秋の味覚のひとつです。
信州佐久は、誇れるものがたくさんあります。
晴天率もその一つ。昼間は太陽光発電が威力を発揮していますし、夜は天体観測にもってこい。少し山間に入って生活光の届かない処で車を停めれば、肉眼でもはっきり見える天の川。宇宙飛行士 油井さん の搭乗している宇宙ステーションもその軌道が肉眼で見えます。
油井さんといえば、佐久の隣、南牧出身です。
ついで宇宙つながり。JAXAの打ち上げた「ハヤブサ」を覚えていますか?通信不能になり行方不明になった「ハヤブサ」を諦める事無く追い続け、地球帰還に導いた影の立役者「日本最大パラボラ電波アンテナ」があります。(写真はまた今度)
ちなみに写真は ちょうげんぽう だとおもいますけど。
28/8/2015
いらっしゃいませ。玉屋の こーちゃん です。
パソコンで遊び出してまだ間もない為、多々不愉快な点等御座いますが、平にご容赦願います。
ホームページも初めて。ブログも初めて。何から何まで暗中模索で楽しく? 苦しんでいます。
キーを叩くのも指一本で足りてますから、その更新ぶりも推して知るべし。目標は1日1本のアップです。
前置きはさて置き。
ぴんころ地蔵。
正式名称は [長寿地蔵尊] とお腹に書いてあります。
今では日本各地に、長寿祈願のお地蔵様がありますが、元祖本家本元この地で生まれました。
歴史的にはまだまだ浅く、巣鴨の「とげ抜き地蔵」さん何かと比べられると…。
でも、その柔和な笑顔が こーちゃん は好きです。