水沢水神宮

 

 普段、カメラを持って出かけるのは『オフロードバイク』が多いですので、車では入って行けないような道でも(道が無くても)躊躇無く入れます。(時に行き止まりでもアクセルターン出来るもんね) 只、奥の奥に住宅がポツンとある様な道路だった場合、不審がられる事も在りますけど。

 

 奥地に入り込む例のTV番組、最初は絶対に不審がられてるって。

 

 和田宿の旧中仙道からも外れた道に素敵な水場を発見しました。

 

 こんな処も『グーグルカー』が入ってるんだから凄い。

 

 

 『神明脇來水沢水神宮』 此の場所、間違いなくパワースポットです。

 

 江戸時代から、街道を旅する人の喉を潤してきたのでしょう。

 

 朽ちかけた『橋』は私の体重に」耐えられそうに無い………

 

 

 水槽はコンクリート製。水口は塩ビ管。水底には藻。

 

 でも良いんです。

 

 水を掬ってゴクゴクと飲んでみました。旨い。

 

 タオルを濡らして顔を拭いて。さて次行きますか。

 

和田神社

 

 『和田中学校跡地』の前に『和田神社の鳥居』が在りました。

 

 

 時代の流れと共に道路も進化します。

 

 生活道路が舗装・拡幅され、一車線が二車線に。更には交通量が増えるとバイパスが造られ。

 

 カーナビで指示される道は『バイパス推奨』のルートが多く、知らない街で旧道を走るなんて事は皆無です。

 

 でも私のバイクにゃそんな高尚な物在りません。走りたい道を走るだけ。

 

 知らない道を走っていて、明らかに周囲と違う『杉木立』などが在れば神社仏閣が在るかも。

 

 昨今の神社は『金属製幟立て』が常設されていますので後は鳥居を探すだけ。

 

 『寺院』の場合は高くそびえる『本堂大屋根』を見つけられれば参道口に石門を探すだけ。

 

 『和田海洋センター』で周囲を見回すと、山裾に『幟立て』が見えました。

 

 進んでいくと広い駐車場が鳥居前に在り数台の車が停まっていました。

 

 傍らにバイクを停めて。駐車場に併設して『保育園』が在りました。

 

 宗教法人経営の『保育園』なども結構多いですので神社経営かなと早とちりしてしまいましたが調べてみると経営母体は『長和町福祉協議会』でした。

 

 神社の駐車場と勘違いして駐車してしまいましたが、私が滞在していた時間、他に車も来なかったみたいです。

 

 

 『ほいくえん』の文字が植え込みで見えなかった。と言い訳です。

 

 

 二の鳥居手前の手水舎へ。自然水利を引いているであろう『水の出』が良すぎて、時折吹き付ける強風に地面が濡れる程。カメラを構えた次の瞬間、レンズに飛沫が掛ったほどです。

 

 四月中旬。気温がぐんぐん上がって冷たい水が心地よく、手水だけでなくグビグビと飲んじゃいました。

 

 

 鳥居を潜って。参道を行きます。

 

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和田中学校

 

 『和田宿』の『旧中仙道』を走っていて、ん?

 

 

 『和田中学校』が荒れている。いや生徒が荒れているんじゃ無くて、校庭は草だらけ。

 

 校門前も掃除されていない。隣の『小学校』は生徒の気配がするのに。

 

 学校でウロウロしていると直ぐに通報される時代。写真だけ撮影して移動染ます。

 

 この『中学校』と『小学校』は『連絡通路』で繋がっていて、中学校側に在った『給食センター』で造られた給食を小学校に運ぶ為と以前新聞か何かで読んだと思うのですが。

 

 いや『小中共学校』になったのかな。

 

 

 二つの建物を繋ぐ連絡通路の下を潜ると『長和町海洋センター』に出ます。

 

 『海洋センター』と在るけど『海』とは関係なくて『プール施設』なんですけどね。

 

 

 水は汚れちゃってるけど、夏の前に大掃除する筈です。でも屋根とするビニールが裂けちゃってる。まぁ無くても問題ないみたいですけど。

 

 

 『有刺鉄線』などが在るのは、夜 勝手に潜り込んで泳ぐ輩がいたのかも知れません。

 

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和田宿

 

 『旧中仙道』は『依田川』と『大門川』の合流する『大和橋』で『大門街道』と別れます。

 

 『大門街道』は『白樺湖』を抜け『茅野』へと続く道で、途中の『大門稲荷神社』境内には、高さ3メートルもある『土俵=高辻』が保存されており、江戸時代『相撲・虎の穴』みたいな秘密練習場が存在したとか。(雷電為衛門も彼の地で練習していた?)

 

 今回は『和田宿』を目指しますので『青原』交差点から旧道へ入ります。

 

 『是より和田宿』と彫られた石碑など並び、『和田宿』に入った事を示すも周囲に民家は無し。

 

 街道を行くと『蚯蚓神社』や『三千僧接待の碑』『馬頭観音』など江戸時代に建てられた石碑・石仏などが多く情緒を感じます。(故・羽田孜氏墓所なども在りますが観光地では在りませんので今回割愛させて頂きます)

 

 

 普通の民家前にこんな感じで石像や道祖神が祀られています。

 

 左の石に刻まれた居るのは『和田・宿場祭り』の一コマでしょうか。

 

 ふと見ると『地下横断道』の入り口らしき建物が見えました。

 

 

 バイパスが完成する前はこの道が国道142号線本線で在り、大型トラックなどが猛スピードで駆け抜けたのでしょう。歩行者保護の観点からも地下横断道は必需だったのでしょうが、バイパス完成後の交通量は激滅し私が此の場所に居た10分程で通過車両はゼロ。(どころか『和田宿・旧中仙道』を端から端まで走って対向車は僅か数台)

 

 折角バイクを降りたので『若宮八幡神社』へ。

 

 

 参拝を済ませ、案内を読んでみると。

 

 

 境内に『和田城主・大井信定親子』の墓が在りました。

 

 佐久の『大井城主』は『清和源氏』の流れを汲み、『村上政清』に滅ぼされるまでは一大勢力を誇っていました。

 

 一方『武石城』や『和田城』の城主の『大井氏』は『甲斐武田』の家臣だったと思ったのですが………『甲斐武田氏』に攻め込まれる。戦国時代はよくわからん。(私の解釈が違っているような)

 

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通夢道人

 

 『愛宕山・桜公園』から『大門峠』方面への抜け道となる山道の途中に御堂を発見しました。

 

 鳥居が無いから『寺院』だと思うのですが………

 

 

 額には『照福庵』と読めます。

 

 『鰐口』も『賽銭箱』も見あたりません。ガラス窓を覗き込んでも中は良く見えません。

 

 御本尊らしき物も見えるのですが定かでは在りません。

 

 

 何だろ此処は………?

 

 

 長和町の指定文化財。読んでみますと。

 

 『通夢道人=花井璞紋』は1814年、大門村の名主『内田安良太』に請われて『上田・金窓寺』より『慈福寺』の住職に成ります。大変達筆な方で遠近問わず書を求められたそうです。『加賀藩参勤交代』の際に『幟』に書かれた書体を観て思わず感嘆したとか。

 

 『11代・徳川家斉の娘 溶姫・ようひめ』が『加賀13代藩主 前田斉泰・なりやす』の元に嫁いでいるそうですのでその頃の逸話でしょうか。

 

 

 『庵』の裏手に廻ってみますと

 

 

 良く読み取れませんが一番下に『〇〇大和尚』と読めますのでこの墓碑が『通嫁道人』和尚の墓碑でしょう。

 

 合掌。字が上手くなります様に。

 

長久保・愛宕山桜公園

 

 『長久保宿』脇の国道142号線沿いに『桜公園』の看板を見つけました。

 

 住宅地の中を抜けると『愛宕山・桜公園』

 

 

 まだ一週間ほど早かったかな。

 

 

 公園入口に鎮座するのは『さくら地蔵』

 

 なんでも有志が公園を管理しており、お地蔵さまも有志の寄付で建てられたとか。

 

 

 生育の良い大木は八分咲きでしたがそれ以外はまだまだ蕾。

 

 こりゃ一週間後にもう一度来てみるか。

 

 

 と云って再訪したのが上の写真です。

 

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丸木屋

 

 旧中仙道を挟んで『濱屋』の向かいの『丸木屋』も公開されていました。

 

 しかし此方には照明が無く、薄暗くて余り良い写真に成りませんでした。

 

 というか江戸時代、あっても『行灯』位でしょう。窓を閉めた家の中って昼間でも薄暗いから当時の人は暗さに慣れていた。(現在が防犯理由で明るいだけなのかも)

 

 『長久保宿』を東から下って来て交差点に差し掛かる処に何やら石碑が在りました。

 

 

 中仙道は此処で折れて『和田宿』に向かいます。

 

 反対方向に行けば『依田窪』経由で上田方面、『善光寺街道』や『保福寺峠』経由で『北国街道』へと繋がります。

 

 ん! 柱は何だ?

 

 

 何やら書かれた跡が在るのですが判読不可能です。

 

 丁度その時、『第一村人発見』いや買い物袋をぶら下げた人が通りかかりました。

 

 「スミマセン。この柱が気になるのですがご存じですか?」

 

 その方の説明では「文久年間(1861~)長久保宿が大火に見舞われ、街道に面した建物が軒並み消失してしまったそうです。翌年には『皇女和宮』が『十四代将軍徳川家茂』に嫁ぐ事が決まっており、『京都~江戸』迄を中仙道を道中する事も決まっていましたので宿場町では大急ぎで復旧に取り掛かります。再建された街並を護る為、火除けの神様『三峯神社』を勧進し宿場町の入り口に奉ったそうです。

 

 柱の上の『御社』も珍しいですね。

 

 長和町教育委員会さん。説明書きが必要では?

 

濵屋2F

 

 木製の急階段を二階へ。 足腰の弱い方へ注意喚起の張り紙が在りました。

 

 

 数段の階段を昇りきると黒光りする板の間です。階下を見下ろす様に障子窓が設えて在ります。

 

 更にこの階段は蓋つき。戸板を被せ閂で締め切る事が出来る様になっています。

 

 さては二階部分に泊まる人は何かを警戒していたか、若しくは『博打場』』的な使われ方をしていたか。

 

 幕末の『池田家事件』でも、仮に戸締りできる部屋だったら『竜馬』も死なずに済んだかも。 

 

 

 二階も資料展示室になっています。

 

 『駕篭』も在りましたが、『一般大衆用』には『御簾』が無い筈ですし、身分の高い人用は『漆塗り』などの装飾された『板囲い』の筈です。担ぎ棒が長いから『四人』で担ぐ『早駕篭』でしょう。

 

 

 他にも貴重な資料として『宿場』発行の紙幣通貨『宿場札』等も展示されていました。

 

 現在の『地域限定金券』ですね。隣には実物の『武鑑』が在ります。

 

 諸藩の『紋』が記されており、『関所』や『宿屋』に於いて人物の特定をする為に欠かせない、云わば『家紋図鑑』みたいな物でしょうか。

 

 

 江戸時代、『十両盗めば首が飛ぶ』(十両盗んで摑まれば斬首刑)と云われており『九両三分二朱』しか盗まないとか何とかの落語が在りましたが、その頃のお金の換算が独特です。

 

 『金貨(両)・銀貨(分)と(朱)・銅貨(文)』に分かれ『一両』=『四分』=『十六朱』=『四千文』と決められていました。泥棒は万が一捕まった時の事を考えて『九両三分二朱』しか盗まなかったとか。

 

 又、『ねずみ小僧』が千両箱を肩に担いで高い塀から飛び降りたりしますが、本当に千両入った『千両箱』(時代により重さ(金含有率)が異なる)は20㎏にもなるそうです。厳重な木箱を肩に担いで飛び降りたりしたら『骨折』モノですね。

 

 『金』=『一両』は『銀六十匁=四分』=『十六朱』=『銅(銭)四千文』とされていました。

 

 『落語・時そば』で考証すると『立ち食い蕎麦=十六文』を支払おうとします。現在『立ち食い蕎麦』の『かけ蕎麦一杯¥400』として一文=25円(400÷16=25)一両は四千文ですので(25×4000)¥100000。これも260年と長い徳川幕府の中で、かなり価値は変動します。

 

 因みに「お主も悪よのぉ」に登場する『小判包』には『二十五両』入っており『二百五十万円!』の価値? 時代によっては『小判一両』が現在の価値に換算して¥40000~¥100000とかなり変動しています。仮に『小判一両=¥四万円』としても一包で百万!

 

 賄賂に金が掛かったのは今も昔も変わらない。てか昔、悪人は成敗されたんですけど現在の悪徳政治家は………

 

 主食も満足に買えないような国家にした『政治家』の責任は重い。

 

 何処かで『トランペット』のアレが流れ出し、悪徳政治家に天誅………

 

 『トランプ』の狙撃失敗を聞いた時、しっかりしろよ狙撃手と思った人はどれ位いるだろう。

 

 日本でも『首相狙撃事件』が実行されてしまったが、何だか裏がある様な気がしてならないのですが………(以上あくまで個人的感想です)

 

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一福処・濱屋

 

 前回『長久保宿』を訪れた時は『冬季閉鎖』(3月でしたが)の為に閉鎖されていた『史料館・濱屋』 国道沿いに出ている案内看板は目にしている人も多いと思いますが、通過ポイントの為に態々旧道を走る人は物好き?

 

 更に物好きな私は4月に成るのを待って再訪しました。

 

 

 駐車場の『椿』が満開。 さすが『木篇に春』 桜より『椿』ですねぇ。

 

 

 前回は閉ざされていた『大戸』が解放されていました。

 

 有料施設ならば受付が在り、係の人が此方を見てにっこり笑いながら料金徴収するのですが、此処は無料。『長和町』では無駄な人件費は掛けません。

 

 その代わり入場者が自分で電源スイッチを操作して照明を点けます。『人感センサー』なんて無駄な投資はしません。

 

 受付代わりに記名帖が在り、何時・誰が(代表他人数)訪れたか記入します。

 

 個人情報の為に記入しない人も多いらしいのですが、何か在った時協力出来るように私は必ず、『来場地・佐久市』と個人名を記入します。(もし盗難や火災が起きた時、情報提供できるかも) あっ同じような理由で『ドライブレコーダー』付けてますけど、警察に画像提供した事も在りますデス。

 

 電源スイッチを入れ照明を点けると足元に『レコーダー』が!

 

 再生ボタンを押すと『長門町甚句』が流れ出し、簡単な『長門町』の説明が流れます。

 

 まさか『カセットレコーダー』じゃ無いですよね。家には在るけど………

 

 

 

 小学校時代、おばあちゃんちがこんな感じの竈門だった。

 

 普通に懐かしい感じ。

 

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小田井石塔石仏群

 

 旧中仙道を佐久に向けて走行中、交差点の信号待ちで見つけた石像。

 

 『小田井』には『佐久地籍』と『御代田地籍』が在ります。

 

 『小田井』と云う集落が『市町村制度』により二つに分けられてしまったとか。

 

 『佐久市小田井』の小学生は『岩村田小学校』へバス通学しています。

 

 『御代田町小田井』の小学生は『御代田南小学校』へ徒歩通学です。

 

 『御代田町』と云えばもう一つ面白い発見が、『佐久インターウェーブ』の中に在る『サンキ』や『ゲオ』は『御代田町』らしいです。(企業税などは『御代田町』に入るのか)

 

 

 信号待ちをしていてふと見つけた石碑。気になってバイクを降りました。

 

 一応フェンスで囲まれていて、入り口にロープが張ってありましたけど『立ち入り禁止』とかにはなっていませんでした。

 

 石碑には『御嶽山座王大権現』や『八海山』『三笠山』などの山岳信仰の文字が刻まれています。

 

 

 此方の石仏は『御代田町』不動明王』でしょう。

 

 剣を持ち、背中に『迦楼羅炎・カルラエン』と呼ばれる炎を纏っています。

 

 通常顔は『憤怒』の表情で『悪』を睨みつけているのですが、此方の『お不動様』どこかのんびりしてるみたい。

 

 

 『修験道』に於ける『山岳信仰』や『真言密教』の『お不動様』、更には『石の祠』などなどが一堂に会した形になっています。

 

 恐らく『旧中仙道』の舗装工事の際、分散していた『石像・石碑』を管理しやすくするために此の場所に集めたのでしょう。

 

 普段、信号や交差点に注意する為、見過ごしてしまう場所だっただけなんですけど新しい発見でした。

 

御代田駅

 

 碓氷峠を超える機関車が電化される前、御代田駅は『スイッチバック』の引き込み線駅だったって知ってます?

 

 その名残に『SL D51』が展示されていますが、其のレールこそが『スイッチバック』の在った場所です。

 

 今は『しなの鉄道』が頑張って営業を続けてくれていますが、元々は『JR東日本』

 

 更に民営化される以前は『国鉄』でした。

 

 流石に私は『電化』以降の記憶しか在りませんけど、軽井沢駅で『碓氷峠専用電気機関車=EF63』を連結して碓氷峠を超えました。峠を越えた『横川駅』では連結した機関車を外す(=解放)為に10分程の停車時間が在りましたが、この時間こそが『釜めし』を購入する時間でした。(下りでは横川で連結し軽井沢駅で解放していました)

 

 でも『軽井沢駅』で駅弁買った覚えが無いのは『横川の釜めし』が余りにも有名だったから?

 

 因みに『軽井沢駅』は『駅構内立ち食い蕎麦』発祥の地とされています。

 

 『駅待合室』で『立ち食いそば』の提供を始めたのが明治39年だそうです。

 

 格安で素早く食べられる『立ち食い蕎麦』は瞬く間に日本全国に展開していきました。

 

 で話を『御代田駅』にもどします。

 

 

 バイクツーリングなどで知らない地域を訪れる時、観光案内図を見る為に立ち寄る事が多いです。(あわよくば観光パンフレットや割引券なんかも入手できるかも)

 

 

 お勧めポイントは写真などが掲載されていて、食指が動かされる事が多いのですが、如何せん『期日限定行事』や『シーズンの見所』などはどうしようも無いですけど。

 

 

 この『御代田駅』の一角には『西軽井沢ケーブルテレビ』の放送局が在ります。

 

 世界一小さなテレビ局と云われています。(本当ならギネス?)

 

 『放送中』の電光看板が目立っています。

 

 興味ある方『YouTube』で検索どうぞ。

 

 

 駅前ロータリーに『木柱』が立っていますが文字が消えちゃってる。

 

 植え込みの中なので勝手に入り込む訳にも行かず………

 

 ご存じの方情報提供お願いします。

 

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御代田町役場

 

 平成の大合併でも他市町村との合併をしなかった『御代田町』

 

 超有名観光地『軽井沢町』と、新幹線駅を中心に発展し続ける『佐久市』の間に位置しながら『有名企業』の工場などが林立し企業からの税金で(かなり)潤っているとか。

 

 住環境も静かで福祉制度なども充実。『軽井沢』の様な渋滞も無く、佐久市の商業地迄車で10~15分程で行けます。

 

 都会からの転入者が多いのも頷けます。

 

 

 『御代田町役場』の前には何故か『ポットスチル』

 

 私ゃ『ウイスキー蒸留工場』かと思ってました。

 

 

 隣接して『浅間縄文ミュージアム』や『町立図書館』が在るからイマイチ『お役所感』が在りません。

 

 

 高級ウイスキーの『三楽オーシャン』が造った銘酒『オーシャン軽井沢』を蒸留したポットスチルでしたか。(お高いんです。飲んだことないからなぁ)

 

 そりゃ『お宝』だ。

  

 私は『中仙道カード』を貰おうと観光課に立ち寄ったんですけど意外な発見でした。

 

 でも『樽』に直に蒸留した原酒を落としていた? 

 

 役場入り口交差点からも見えますのでお近くをお通りの際はどうぞ。

 

立科

 

 佐久平駅の北口を『浅間口』、南口を『蓼科口』と呼んでいますが此れは『浅間山』と蓼科山』から来ています。

 

 『蓼科山』は八ヶ岳連峰の一番北の端に位置し、山頂部は『溶岩ドーム』の体を成し丸くなっています。丸い山体と丸い溶岩ドームが重なっていて、佐久から見ると『お供え餅』の様に見える事から『御供え山』とも呼ばれます。

 

 八ヶ岳の西に広がる温泉・別荘地などの観光地は『奥蓼科』と呼ばれています。

 

 『東山魁夷』さんの絵画で有名な『御射ヶ池』や、縄文時代の土偶(国宝『縄文のビーナス』『仮面の女神』)が発掘された『尖り石遺跡』など見所も沢山あり人気の観光地です。

 

 対して『立科』

 

 『蓼科山山頂』や『女神湖』を有し(残念ながら『白樺湖』は茅野市)、美味しいりんご(私の知る限り美味しさはピカイチ)で有名な『五輪久保』なども在りますが一番の特徴は『立科町』の形です。

 

 南北に細長く、東西の一番狭い処では幅が50mしか無い部分もあります。

 

 更に北の部分も不思議な突起が在り、『エヴァンゲリオン』に登場する使徒『シャムシェル』みたくもないかな(個人的感想です。ツッコまんでね)

 

 因みに『使徒』の名前は『聖書偽典』とされる『エノク書』に登場する『天使』(神に使える者)の名前だそうです。

 

 『旧中仙道・芦田宿』で発展した『立科』ですが、国道やバイパスの発達により栄えるのはロードサイドばかり。一本裏道に入るだけで大変静かな住環境に成ります。

 

 鉄道が無く、公共交通手段も乏しい為、町内には『立科高校』も在ります。

 

 聞いた処では『保育園~高校』迄、同級生はほぼ一緒だとか。

 

 旧中仙道を走っていて見つけたのが

 

 

 高台にポツンと建つ『正明密寺』 真言宗のお寺です。

 

 

 赤いトタンの下は分厚い『茅葺屋根』でしょう。

 

 何も無いお寺ですがそこがまた良い。

 

 参拝して御本尊拝観と思いきや、扉は閉ざされていました。

 

 物騒な話題の多い昨今、戸締りは致し方ないか。

 

長和町

 

 『平成の大合併』により『旧長門町』と『旧和田村』が合併して『長和町』が生まれました。

 

 『平成の大合併』以前の長野県には、120もの市町村が存在しました。

 

 役場の数も120,首長も120人。役場に勤務する人数たるや………

 

 因みに『佐久市』も『旧佐久市』『旧臼田町』『旧浅科村』『旧望月町』の四市町村が合併し、人口10万人を超える市政になりました。

 

 ♪ 知らない街を歩いてみたい 何処か遠くへ行きたい。

 

 旅行で観光地を訪ねるなら事前に観光ガイドなどで予備知識を蓄えていきますが、偶々訪れた町を歩いてみようかななんて思った時は先ず『駅』若しくは『道の駅』に向かいます。

 

 簡単な観光パンフレットや、あわよくば『割引券』なんぞも手に入るかも知れません。

 

 『駅』や『道の駅』が無い場合、『役場の観光課』を訪ねる事に成ります。

 

 

 普段、在住者以外は訪れる事も無い『役場or役所』ですが、訪ねてみると意外な発見が在ったりします。

 

 今回『長和町』を訪ねたのは『商工会議所』の発行している『中仙道カード』を入手したいが為です。

 

 『長和町役場』では親切丁寧な対応で「道の駅の観光案内所で配っていますので其方へどうぞ」と案内されました。

 

 

 長和町の道の駅は実に充実していて、『農産物直売所マルシェ黒曜』『長門温泉やすらぎの湯』『食事処のんのん』『コンビニ』などが大型駐車場の周りに集まっています。

 

 知り合いの大型トラック運転手は、食事して温泉に入って湯上りにコンビニで買った『〇〇〇』を吞んで、ひと眠りしてから長距離運行に出るそうです。(飲酒運転はしないでね。)

 

 

 『長和町商工会』の建物ですが『観光案内所』や『レンタサイクル』も在ります。

 

 長野県の有名な観光地『白樺湖』や『車山』『霧ヶ峰』『王ヶ頭』『美ヶ原高原美術館』『旧中仙道和田峠』などは、 惜しい! 全てに隣接していますけど『長和町』じゃないんですね。

 

 私がお勧めする『長和町』の観光名所。

 

 『黒曜の泉』ペットボトル持参の事。

 

 『星糞館』山の中を歩きます。こんな山の中に?と驚く様な展示。

 

 『不動滝』途中の帯状節理が素敵。

 

 『和田峠茶屋~旧和田峠までの旧中仙道』新緑の頃歩きたい。水持参の事。

 

 『蚯蚓神社』歩道が在りませんので注意。

 

 如何です。『長和町』 訪れてみたくなったでしょう?

 

観音寺

 

 戦国時代は『真田氏』の領土として統治されていた『旧中仙道』二十七番目の宿場町『長久保宿』 東に『笠取峠』、西は『依田川』と『武石村』との境をなす急峻な山並みに挟まれ、『上田』や『松本』『茅野』方面への交通の重要な分岐点です。

 

 1449年、『覚信』により建てられた御堂が元になりますが場所は不明だそうです。

 

 1600年、領主『真田氏』に請願して『松尾山福応寺』として依田川沿いに建立されましたが。河川氾濫により流失、1632年に現在の場所に『観音寺』として再興されました。

 

 

 正式名称『真言宗・松尾山・観音寺』

 

 『五十鈴川』沿いに駐車場が在ります。

 

 

 『観音寺』の御本尊が『地蔵菩薩』と云うのも不思議な話だと早速境内へ。

 

 先ずは本堂にて参拝。時代なのか扉は開きませんでした。

 

 庫裏に申し出れば拝観は可能なのでしょうけど………お賽銭が五円玉って訳にはいかない。音も無くㇲッと落ちていくのにしなきゃねぇ。

 

 お釈迦様の誕生日『灌仏会=花まつり』(今日4月8日だけど行けないな)にでも解放されるかも知れません。

 

 

 境内の隅には石積の上に『宝篋印塔』 良い感じに寂びています。

 

 

 参道の『二十三夜塔』に『文政十三寅年仲冬』の文字が読み取れます。『仲冬』とは陰暦の11月の事です。『1830年・寅年の11月』にこの石碑が立てられました。

 

 『二十三夜』とは『月待ち講』の一つで、月齢二十三日の夜、月の出を待って老若男女が集い、飲食などを共にして親交を深めた行事です。

 

 娯楽が少なく、移動手段も限られていた時代、『祭り』や『月待ち講』などは年頃の男女が出逢える貴重な機会の一つでした。

 

 『神社仏閣』の高台などに在る『月見櫓』に皆で集まり、飲食しながら歓談し『月の出』を待つ習わしです。

 

 石碑を立てて『月待講』が在るのを告知したのでしょう。(スマホが在れば『SNS』等に写真を投稿するのでしょうけど)

 

 この石碑の周りに若い男女が集まって、月を見ながら………ご自由にどうぞ。

 

高札

 

 『高札』とは宿場町の主要地点に掲げられた『定め書き』とか『告知』の事です。

 

 時代劇などで町人が集まって「なんて書いてあるんだい」「どれどれワシが読んで進ぜよう」などと会話されるアレ。

 

 『お尋ね人』などは現代の『指名手配写真』のようなモノで、立て札に張り出されましたが『高札』とはチョっと違います。

 

 

 大体はその宿場の権力者の協力により土地を提供されたり、『神社仏閣』などの人の集まる処に建てられました。

 

 

 こりゃまた立派な『高札所』です。

 

 『定』で始まるのは『法や規則』 末尾に『奉行』と書かれています。

 

 

 『毒薬』や『偽薬』なんて物を売るな。とか『博打の禁止』なんてのも書かれています。

 

 年号は『正徳=1711~』と書かれていますが当時は『草書体』の筈。

 

 このような『仮名文字』が在る訳でなく、現代のフォントで書かれています。

 

 ですので『資料館』が出来た時に造られた物でしょう。

 

 

 此方は『問屋場』の料金表。

 

 『芦田宿』迄『荷物』を運ぶのに『百三文』 

 『和田宿』迄『荷物』を運ぶのに『百四十五文』とか決められています。

 

 大きさや重さは関係なかったのだろうか?

 

 

 本陣の前。

 

 惜しいなぁ。電線が無きゃ『映画ロケ地』に推奨出来たのに。

 

長久保宿

 

 『旧中仙道・長久保宿』には三叉路が在り、東へ行けば『笠取峠』経由・岩村田方面。

 

 南に下れば次の分岐で『旧中仙道宿場町・和田宿』と『大門峠』経由の『茅野』方面に分かれます。

 

 北へ向かえば『おたや祭り』で有名な『豊受大神宮』などの前を通って『青木村』から『保福寺峠』経由で『松本方面』、若しくは『大屋』から『善光寺街道』等に出られます。

 

 交通の要所という事は『戦国大名』にとっても押さえておきたい地点のひとつ。

 

 此の辺りは『真田氏』が押さえていましたが、『甲斐武田軍』との軋轢もあった事でしょう。

 

 映画『七人の侍』の様に自然農民も武器を備えていたかもしれません。

 

 江戸時代になり『街道制度』が制定されると、『本陣』や『問屋場』の設置が義務付けられ、街は更に発展します。でもその割に『造り酒屋』が無いのが不思議。

 

 特に和田峠下の『黒曜の水』なんか最高の『酒』が出来そうなんですけど。硬度の問題とかかな。

 

 

 町管轄の休憩所は『旅籠』として建てられたそうです。

 

 逆に現代なら停まってみたい人いるかも。(ユースホステル何か良いんじゃない?)

 

 

 歴史館。冬季閉鎖でした。 再訪してみますか。

 

銃刀法

 

 『銃刀法』とは『銃刀剣類所持取り締まり法』の略で、銃砲や刀剣類の所持・使用を規制する法律です。

 

 此れに違反すると『処罰』の対象になりますが、資料などとして展示する際には『盗難防止策』や『許可申請』が受理されれば認可されるそうです。

 

 『火縄銃』なども美術品として価値があると認められれば『登録・所持許可証』が発行されるとか。

 

 

 盗難対策のケースに反射しちゃって見づらいですが『古式銃=火縄銃』です。

 

 『火薬入れ』や『玉入れ』も保存されています。

 

 更には

 

 

 『刀』と『朱槍』

 

 手前に在るのが『銃刀法登録許可証』かな。

 

 『刀掛け』の中央には『おもだか紋』 有名処は『福島正則』と『水野勝成』ですが、『水野家子孫』が『小諸藩主・千石秀久』に使えていますのでその繋がりかも知れません。(確証在りません。あくまで個人的見解です)

 

 この『吾一庵』 只の農家と見くびるなかれ。

 

 『旧中仙道・長久保宿』の一等地に間口を構え、『馬』を所持していた。(馬具とか有ります) 農家なら『牛』を飼うでしょうから、『問屋場』などにも関与していたのかも知れません。

 

 

 沢山の『能面』なども展示されていますが、それらを所持していたって事は神社に『舞踊奉納』する程の権力者だったのでしょう。

 

 

 ええっと『良寛さん』? だったかな。

 

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珍しい物ばかり

 

 日本地図と云えば『伊能忠敬』が有名ですが、それ以前にはこんなデフォルメされた地図が在ったんですね。

 

 逆にチョット衝撃を受けました。

 

 『能登半島』何かちょこっと突き出てるだけですし、『紀伊半島』の突出具合なんて『浜松』辺りまで来ちゃってる。『伊勢湾』に比べて『琵琶湖』のでかいの何の。

 

 

 『信濃の国』を東から観た地図ってのも珍しい。

 

 でもこの地図は意外と正確かも。

 

 噴煙を上げている『浅間山』や『千曲川』も正確に描かれています。

 

 でも何でこの向き?

 

 階段を昇って2階へ。階段幅も狭いし天井も低いですが、江戸時代はこれで良かったのでしょう。

 

 

 江戸時代に『蓄音機』や『目覚まし時計』は無かったでしょうから、『明治~昭和』の生活道具です。

 

 

 『勲章』やら『タバコ』『履き物』『寄附帳』『信濃新聞』と様々な物が展示されています。

 

 『農家』として説明されていますがかなり裕福な家だったのでは。

 

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吾一庵

 

 『旧中仙道』の宿場町だった『長久保宿』 『江戸方面』からは笠取峠を超え、清流の流れる『五十鈴川』を渡ると宿場町に入ります。

 

 東西に開けた宿場町の西端は『依田川』が流れ、南に下れば『和田宿』経由で『和田峠』を越え『諏訪』、若しくは『大門峠』を超えて『茅野』方面へ続いています。

 

 北へ向かえば『大屋』で『善光寺街道』と合流、又は『保福寺峠』経由で松本方面へ繋がっています。

 

 車社会の現代では舗装された道を快適に走り、たとえ道を間違えても簡単に戻れますが、『徒歩』で未舗装の泥道を歩いた江戸時代では、一歩間違えれば命に係わる場合も在りました。

 

 地図の無かった時代、『最短距離=安全』ではない為、旅人はさぞや苦労してルートを決めたのでしょう。

 

 『長久保宿』は夜間の峠越えを回避する為にも重要な場所だったのでしょう。

 

 その宿場町が発展していたかどうかは『神社仏閣』を見れば想像できます。

 

 大きな『寺』が幾つもある様な宿場町では、それだけ多くのお墓が必要とされていたと解ります。(人口密度が高かった) 故に商業も発達するでしょうし、必要とされる食料も膨大になります。山間部で在りながら『依田川』の造った平地が多いこの付近では『稲作』に適していたのかも知れません。

 

 

 江戸時代からの建物が残る『長久保宿』の中程に『吾一庵』が在りました。

 

 私が『長久保宿』を訪ねたのは3月下旬の陽春の日。

 

 他にも『長久保宿』内に観光施設などが在るのですが、どこも『11月~3月末まで閉鎖』の所が多いみたいです。(観光客が少ないから冬季閉鎖って事?)

 

 

 街道に面して、広い間口を持ちながら『農家』?

 

 引き戸を開けて中を伺いますと。

 

 

 『引き戸』と『案内』の間を(古いガラス戸)『馬』が通り抜けていたそうで、土壁には当時の『農機具』が展示されていました。

 

 

 引き戸を開けると土間

 

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靖国

 

 越後のちりめん問屋のご隠居を隠れ蓑に、助さん格さんを従えて『諸国漫遊の世直し旅』に出掛けるのは『光圀』

 

 『靖国』は『東京九段下』の『英霊』を供養する為の神社です。

 

 『日清戦争』以降、国の為に戦って戦死した『御霊』を『英霊=神』として祀る神社です。

 

 毎年『終戦記念日』に首長が『靖国神社』に参拝すると各メディアがこぞって「公人としてですか、私人としてですか?」なんて大騒ぎするけど、もっと他に報道すべき事あんだろうが!

 

 命懸けで戦って命を落とした人を慰霊して何が悪い?

 

 戦争で負け『サンフランシスコ条約』に調印したから今の日本が構築されたので在って、戦死した人を慰霊してはいけないとは謳ってないじゃないか。

 

 『特攻機』に乗り込む際、「靖国で会おう」を誓い合って国の為に命を懸けて戦ってくれた人達。私は慰霊碑を見るたびに礼を捧げます。

 

 その『靖国神社』の鳥居に落書きをした中〇人! 本国で逮捕されたそうですが日本に対して謝罪は無いとか。日本は『武士道の国』あんまり舐めてると痛い目に遭うヨ。

 

 

 『松尾大社』がこの場所に移築されましたが、本来の参道の正面に鎮座するのが『靖国霊社』 

 

 徴収され、出兵・戦死して『神』と神格化されたら『靖国神社』に祀られますが、戦死が確認されない人達(遺骨が無かったり行方不明)は『靖国神社』に名前が残されないそうです。

 

 『靖国神社』に奉られなかった方々を慰霊する為各地に『靖国霊社』や『慰霊碑』が建てられました。

 

 このすぐ裏手は旧中仙道、訪れた時は修復工事の最中で、道路工事の音が響いていましたが、社の周囲だけは少し雰囲気が異なります。

 

 風も無いのに『紙垂』が揺れたのは気のせい?

 

 

 沢山の『摂社』『祠』が祀られています。

 

 『注連縄』と『紙垂』が新しいのは最近『春祭り』が在ったのいでしょうか。

 

 『松尾大社』が移築された此の場所。中仙道を歩いてきた人達にとってはオアシスの様な場所だったのかも知れません。

 

 

 現在はすぐ脇をバイパスが通り、大型トラックが引っ切り無しに走行しています。

 

 近くを通ったなら一度寄ってみて下さい。(酒好きは特に)

 

松尾大社 part2

 

 『松尾大社』の境内の様子です。参道の橋を渡って来ると左手に拝殿を見る形です。

 

 でも手水の脇に『御柱』が立ち『太い注連縄』が下がっています。

 

 

 『赤松』の根を捲くように石畳が続いています。

 

 奥には鳥居が。『松尾様』とは別の御社が見えます。

 

 

 上の写真の一番右が『松尾大社拝殿』渡り廊下で繋がった奥が『松尾大社本殿』です。

 

 『注連縄』下の石畳を来ると真っ直ぐ石段に繋がっています。

 

 中央の石灯篭の右側にも参道が在り鳥居を潜ると石段へと続きもう一つの御社に続いています。

 

 

 先ずは『松尾様』の祀られている『本殿』拝見は前回まで。

 

 一度戻っ石畳沿いに向かって左の御社へ。

 

 でも何も書かれていません。何の神様?

 

 

 囲いの『白木』は新しいようですが、屋根の分厚さからおそらく『茅葺』です。

 

 『千木・鰹木』を備えていますら、由緒ある神様の筈です。

 

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松尾大社

 

 酒蔵見学をしていたら『あそこ』に行っていない事に気が付きました。

 

 『あそこ』とは『旧中仙道・長久保宿・松尾大社』

 

 『旧中仙道』で『望月宿』~『茂田井・間の宿』~『芦田宿』から『笠取峠』を超えて下った先が『長久保宿』 今でも国道152号線が『旧中仙道』のすぐ傍を通っていて、峠道のクネクネが終わり「る頃、右手に見えて来る鳥居が『松尾大社』の鳥居です。

 

 

 鳥居の先(鳥居・まつり地蔵等の写真が何処かに行っちゃった) 川を渡ると『松尾大社境内』です。

 

 『五十鈴川』と聞くと『神宮』を想像してしまいます。

 

 試しに橋の上から覗き込むと水は綺麗ですが護岸工事で固められた川底には魚影は見当たりませんでした。

 

 この川の上流には『ゴルフ場』や『大規模農園』は無い筈。水は綺麗なんだから魚がいてもおかしくないのに。岩陰に出も隠れていると良いんですけど。

 

 『ゴルフ場』や『農場』では大量の『農薬』などを散布します。それが雨と共に川に流れこむと水質に敏感な魚(特にヤマメ・イワナ)は途端に姿を消してしまいます。

 

 昔は『フライフィッシング』で誰も居ない渓流を独り遡ったりしましたが、今じゃ無理! ってか『熊』や『スズメバチ』が怖いなぁ。

 

 

 手水鉢には水道管から水が流れっぱなしでしたが、よく見て欲しいのは『蛇口』

 

 『蛇』では無くて『くじら』?更にハンドル部分も独特で『潮吹き』を表現しているのでしょうか。(拡大した写真も確かに撮影したのにデータが無い……)

 

 

 先ずは『松尾大社』に参拝です。

 

 『今年も美味しくお酒を吞めます様に』

 

 本来は『酒造り』の神様ですから『杜氏』などが『今年も美味しいお酒が造れます様に』と拝むのがホントですけど。

 

 

 ガラス戸越の撮影ですので鮮明さがイマイチ。

 

 拝殿から廻り込み、裏手に廻って本殿を伺います。

 

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蔵元ショップ

 

 『酒蔵』『味噌・醤油蔵』『ワイン醸造所』『beer醸造所』『ウイスキー蒸留所』

 

 色々な製造所直売のお店って何か好きです。

 

 只、飲酒運転は絶対禁止なので『バスツアー』などで行かないと試飲出来ないのがつまらない。

 

 造り酒屋の『蔵開き』など大変面白いのに、車で行く事出来ないのがネックです。

 

 

 『蔵元』と『酒の資料館』からカーブを降りた処に直売所が在ります。

 

 

 隣に喫茶室もあって『甘酒』なども頂けるのですけど先ずは『蔵』を改造した『直売所』へ。

 

 

 店内には誰も居ませんでしたが、センサーでも在るのか直ぐに係の人が来ました。

 

 おそらく『喫茶室』兼務?

 

 許可を頂いて店内撮影。

 

 『黒澤酒造』の看板商品『井筒長』や『㋣』『八千穂』『百姓物語』更には年末年始のみ販売の『商売繁盛』と品数も豊富です。

 

 更には『そば焼酎』の『井筒盛』や『甘酒』、『白樺』の樹液から造ったジュース『白樺の恵』等も在ります。

 

 『松原湖』の氷結した湖底で眠らせる『湖底ロマン』なんてのも在りますのでどれも飲んでみたい! 商売上手いんだから。

 

 

 入口に置かれた『ワンコイン自販機』 だから車で来ちゃダメだって。

 

 今度、小海線にでも揺られて来るしか無いか。今日は『㋣』をかいまして。

 

 ㋣の商品名は『日が昇る』を意味するそうです。

 

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酒器

 

 蔵の一階部分に『酒造りミニチュア人形』が展示されていましたが、他はどちらかと云うと『古民家家具』や『農具』が多かった様な。確かに『秤』や『蒸篭』なども在りましたが『酒の資料館』と呼ぶには? と思いながら庭へ。

 

 『酒』の神様は『松尾様』ですので『造り酒屋』には必ず『松尾大社』が祀られている筈。しかし途中から立ち入り禁止になっていましたので『松尾様』は拝めませんでした。

 

 蔵の二階部分へ上る外階段を上って見ると。

 

 

 色々な銘柄の書かれた『四合徳利』や『薦被り』がズラリと展示されています。

 

 靴を脱いで奥へと進むと、湿気を嫌う為か二重ドアが在ります。

 

 

 凄い数のコレクションです。『徳利』『杯』『猪口』『樽』興味ある人が見ると大変面白いかと。

 

 

 神棚が在りましたので『松尾様』は此方かな。

 

 

 こんなの見ながら『お酒』(モチロン日本酒)飲んだら美味しいだろうなぁ。

 

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酒の記念館

 

 『蔵』の入り口に置かれた『大釜』と酒米を蒸す為の『甑・こしき』

 

 釜の下ではガンガンに火が燃やされ、蒸気の立った甑の横を梯子で登る。

 

 現代なら『危機管理能力』がどうの『安全対策』がこうのなんて問題視されて、動画投稿サイトに直ぐアップされちゃう。

 

 

 蔵の引き戸は解放されていました。

 

 ショーケースの中にはミニチュアの人形がズラリと並んでいて、順を追って『酒造り』の模様を表現しいます。

 

 いやこの精巧さはもっとアピールして良いんじゃない?

 

 作者の名前も記されていましたが失念してしまいました。

 

 

 他にも『古民家』で使われていた『囲炉裏』や『道具』がズラリ。というか脈絡なく置かれています。

 

 中には『お宝〇定団』に出したら面白いかも。なんて物もチラホラ。

 

 中には『我楽多』かな? ってえのも。

 

 

 私この手の『ガラクタ』(失礼)『古民家具』観るの大好きです。

 

 『顕微鏡』やら『分銅秤』『ろ過装置』『只の空き瓶』

 

 まぁ時間の許す限りご堪能下さい。

 

黒澤酒造

 

 車を『奥村土牛記念美術館』に停めたまま(許可を得てます)歩いて『黒澤酒造』へ。

 

 途中の『蔵』は『醸造所』として使われていたそう。『黒澤醸造』の跡です。

 

 なんて『昭和レトロ』を感じる通りだろう。

 

 歩くのが楽しいですから是非とも散策して下さい。

 

 

 『黒澤酒造・酒の資料館』 受付等が見当たりませんでしたので並びの建物で出荷作業している人に確認しますと、有難い事に「無料です、ご自由にどうぞ」ですと。(誰が何といっても、文末には句読点を使います)

 

 時代劇などに見る店先の『日除け暖簾』とか『店頭幕』と呼ばれる布が良い味出しています。

 

 本来は『看板』であると同時に、店に差し込む太陽光を遮り、商品を『日焼け』から守ったり、ガラス戸の無い時代の『風よけ』や『埃よけ』に用いられました。

 

 もう一つは『顧客のプライバシー保護』の為の目隠しの意味合いもあったそうです。

 

 『高知・はりまや橋』の小間物屋さんに『日除け暖簾』が在ったなら 、坊さんが『簪』買う処を見られずに済んだのに……。(それじゃ『よさこい節』が生まれなかったってか)

 

 

 暖簾をくぐると『井筒長』の『一斗樽(陶器)』 (これ家にも在るもんね)が置かれていました。木製の樽は『アルコールの抜ける(気化)』のが早いし、木が水分を吸収しちゃう。樽に入れて直ぐに飲み切るなら『木製樽』でも十分足りるそうです。

 

 『陶器製の樽』は『料亭』や『角打ち』などの酒屋に置かれ、『木栓』を捻ると『キュ~ッ』と良い音がするんです。それを『桝』に受けて『キュ~ッ』と飲み干す。(たまらんなぁ)

 

 個人で『酒』を消費する為のモノじゃ無いですから家では『貯金箱』になっています。(これも貯まらん)

 

 

 『井筒』とは『井戸』の地表部分の『木枠』や『石組』などを言います。

 

 正にこれが『井筒』です。

 

 『筒井筒』という表現が在り、井戸の周りで男の子も女の子も混じって遊んでいた。段々と成長するにつれ疎遠になってしまうのだが、大人となり、ひょんな事がきっかけで昔の仲良かった相手が気になりだしやがては夫婦となる。『伊勢物語?』(正直、古文が大っ嫌いでした)

 

 よく見ると軒下に『鶴瓶車』が設えて在ります。

 

 石の枠組みの上には『手押しポンプ』が見えます。

 

  これ経験したい人『ぴんころ地蔵』の脇に春~秋迄設置されます。(冬期は凍結損壊を防ぐために撤去)

 

 尤も『電動揚水ポンプ』が開発されたら全て過去の遺産です。

 

 

 かなり古い『消防ポンプ車』も置かれていました。

 

 『消防署・消防団』が復旧する以前は『自警団』として大きな商店や工場などが自前で『消火器具』を持っていました。

 

 『消火器』が無い時代には此れが最高級の消火対策でした。(尤もこれはエンジンポンプ)

 

 『野沢・伴野酒造』さんには『手押し式の消火ポンプ』が店頭に置かれています。

 

 車を引き廻す『取手』の上に置かれた『防火頭巾』が時代劇を思い出させます。

 

 『赤穂浪士』討ち入りの時、『大石倉之助』が被っているのも『防火頭巾』です。

 

 『赤穂藩』を脱藩し(責任を藩に取らせない為)『浪人』(主君に使えない=給料を貰えない)となってからは自活の為、その多くは『火消人足』として江戸の町に身を隠しました。

 

 武士だった者が在る者は『蕎麦屋』『居酒屋』などに身をやつし、『吉良上野介邸』の『絵図面』などの情報を集めたのは全て『仇討ち』の為。

 

 『一打ち・二打ち・三流し』と呼ばれる『山縣陣太鼓』と共に『火消装束』を身に纏った『赤穂四十七士』が吉良邸の門を破壊し突入します。

 

 この『破壊道具』こそが当時の『消火活動=破壊消火』に使われた『大槌』や『鉞・まさかり』『大鋸・のこぎり』などで、『梯子』や『鳶口』も携えていたそうです。

 

 詳しくは『映画・赤穂浪士』を観る事をお勧めします。

 

 毎年12月にこの映画を見ると『賃餅=超繁忙期』が始まります。

 

奥村土牛記念館part2

 

 『奥村土牛記念美術館』の2階へ。

 

 

 先程の庭を2階から見下ろすと。

 

 池は氷結したのではなく、降った雪が池の中に溜まった状態。

 

 水温が氷点下近いと起きる現象です。(過冷却とはチョっと違う)

 

 

 この建物は『黒澤家合同会社』の所有物で、結婚式などが行われた事も在るとか。

 

 その控室などに使われたであろう小部屋には色々なものが展示されていました。

 

 大きな額の中央、実物を見たのは初めてです。

 

 『大日本国璽・こくじ』と彫られています。

 

  勲章贈与の時、勲記(賞状)に押される『印』で、印刷では無く『朱肉』で押印されるそうです。

 

 これとは別に『御璽』と呼ばれる印も在り、国亊行為に押印される天皇家の『印』で『天皇御璽』と彫られているそうです。

 

 例えば『総理大臣任命書』等に押されているとか。(見た事無いですけど)

 

 陳列ケースの中には『勲章』がズラリ。

 

 私の観た事ある勲章は、消防団長が貰った勲章『瑞宝章』位かな。

 

 額の中に賞状と勲章が収められていました。(て事はその時に『国璽印』を見てる?)

 

 

 『奥村土牛』も凄いですけど『黒澤家』恐るべし。

 

 では次に『造り酒屋』の『黒澤家』に行ってみますか。

 

 以下次回です。

 

奥村土牛美術館

 

 戦時中、『旧・八千穂村』に疎開していた『奥村土牛さん』は、地元の名家『黒澤家』の手厚い庇護を受け数々の作品を残しました。

 

 101歳でその生涯を閉じると、遺族から作品の数々が『黒澤家』に提供されました。

 

 『黒澤家』の合名会社(造り酒屋・味噌醤油醸造・薬品販売など)が社屋として使っていた『迎賓館』的な社屋『黒澤会館』の離れに居住していた『奥村土牛さん』 戦時中でも絵画に没頭できたのは『黒澤家』在っての事でしょう。

 

 1990年、『黒澤会館』を改築し『奥村土牛記念美術館』として公開、数々の作品を展示しています。

 

 ※詳しくは『佐久穂 黒澤酒造株式会社 黒澤の歴史』

 

 

 庭に面した順路を進むと庭が見えました。

 

 事前に撮影の了解を得ていましたのでカメラを向けると「ご自由に窓を開けて下さい」と係の方から声が掛りました。普通は「作品保護の為、窓を開けないで」と云われるのかと思っていただけにチョット驚きです。

 

 では遠慮なく。(と云っても寒気が室内に入らない様に気を使って)

 

 

 ホント雪が積もった松は絵(写真か)になります。

 

 うちは庭が無いから尚の事憧れちゃう。(固定資産税とか大変だろうな)

 

 

 窓ガラスは昔ながらの『板ガラス』微妙に凸凹している為景色が歪んで見えます。

 

 そして鍵。 懐かしい! 此れを差し込んで、ぐりぐり廻してロックします。

 

 あっセキュリティは万全ですから。あくまで懐古主義の為です。

 

 

 レトロな『ガスストーブ』も展示。暖房は隣の大型ヒーターが活躍しています。

 

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奥村土牛

 

 『奥村土 牛』ですと地域特産品種の『牛』のように聞こえてしまいますけど。

 

 佐久穂町・国道141号線沿いに『奥村土牛記念美術館』の案内が出ています。

 

 日本を代表する画家の一人で本名は『奥村義三・よしぞう』

 

 中国の『寒山詩』 「土牛 石田 を耕す」 の一節から名前を頂いたとか。

 

 国道の案内に従って『八千穂駅』前に向かうと

                                           

 

 二日ほど前に降り積もった雪がまだ残っている3月初頭に尋ねてみますと。

 

 入館料は¥500/大人 ちと高くない?と思うのは私だけ?

 

 そもそも『奥村土牛』 名前は聞いた事ありますけど、どんな作風とかは余り知りませんでした。

 

 駐車場の中でWikipediaを見ますと。

 

 近代日本画家を代表する方で、101歳の長寿を全うされた方。

 

 日本美術院の理事長を務め、その作品は『皇居』にも飾られているとか。

 

 『東京都京橋』に生まれ若き頃から『日本画』を学び、数々の賞を受賞。

 

 武蔵野美術大学の日本画教授に抜擢される。

 

 戦時中『八千穂』に疎開した縁から『町立美術館』建設に至ります。

 

 『文化勲章』を受賞し『日本美術学院理事』に任命。東京都名誉都民に選ばれる。

 

 1990年 101歳にて永眠。

 

 

 入口に教育委員会の設置した説明書きが在ります。私こういうの読むの好き。

 

 ふむふむと読み始めますと……

 

 八千穂の名家『黒澤家』の迎賓館的な建物を『奥村土牛美術館』として改築。町の文化財として保存しています。(もぎりの方は佐久穂町職員かな)

 

 

 入口の『松に白雪』を観るだけで、何か得した気分です。

 

 入口で入館料を払いまして。

 

 

 入ってすぐ、一枚の写真が飾られています。この方が『奥村土牛』

 

 93歳にしてこの眼光。かくしゃくとしています。

 

 では展示室へ……次回です。

 

鼻顔稲荷

 

 読めます?『鼻顔稲荷』 『はなづら稲荷』と読みます。

 

 『日本五大稲荷』とも『七大稲荷』とも数えられる『鼻顔稲荷』

 

 『鼻顔』の語源は地名に在りまっす。

 

 『湯川』の形成した河岸段丘東側に在り、『鼻っつら』の様に突き出た形だった(現在は浸食作用によりかなり形が変わった模様です)処から『鼻面』 転じて『鼻顔』になったそうです。(だったと思う)

 

 毎年『初午』に出掛け、『商売繁盛』を祈願して『御札』を頂くと同時に、全国各地の『稲荷神社』で願掛けした『商売繁盛』の『願ほどき』と新たな『願掛け』をするのですが、今年は都合で後日の参拝となりました。

 

 

 鳥居脇の駐車場も舗装され利用し易くなりました。

 

 その駐車場の脇、祠が在るのですが

 

 

 石灯篭の火袋に貼られた紙は新しい。新年に張り替えられたみたいです。

 

大日神社

 

 『だいにち神社』とも『だいひ神社』とも読めるらしいです。

 

 『大日』と云えば思いつくのが『大日如来』

 

 『仏教神』を崇める為の神社、『神仏習合』の名残でしょうか。

 

 Wikipediaで検索しても的を得る答えは見つかりません。

 

 日本各地に在るみたいですが『佐久・岩村田』の『白山神社』の脇にも社が建っています。

 

 

 注連縄が張られているから『神様』の『御社』=『神社』ですので此方が『大日神社』みたいです。

 

 隣家と近い……

 

 

 此ちら、『白山神社』の脇の建物。

 

 

 仏像が納められていますから『御堂』って事に成ります。

 

 神社の境内に『仏様』を祀る『御堂』 

 

 しかも『新しい線香』やら掃除が行き届いている処をみると頻繁に人が来ている模様です。

 

 奉納幕に個人名が書かれていますので、熱心な方が寄進されたのでしょう。

 

 『神と仏』が民衆文化によってごっちゃになった『神仏習合』

 

 『仏教』の考えでは『神』も『仏の化身』=『本地垂迹』と教えていますけど、明治政府が『神仏分離令』を発したからややこしいったらありゃしない。

 

 どう考えても『大日神社』も『大日如来』に掛かっているんじゃないの?

 

 ご存じの方。googlemapにでもクチコミ願います。

 

白山神社

 

 『岩村田・湯川』の西岸には、かつて『河岸段丘』を防御の要とした『豪族・大井氏』の居城『黒岩城(大井城)』が存在しました。

 

 現在は『王城公園』として緑地公園になっていますが此処の『大欅』は見事です。

 

 県道156号線で分断されていますが道路南側にも城址が確認できます。

 

 その更に南側は住宅地に成っていますが、その一角に『白山神社』が建っています。

 

 

 切り立った崖の上に在るように見えますが、元々『城跡』の高さに建っていたのでしょう。

 

 

 擁壁やら石積みやら見ると比較的新し目?

 

 

 藤棚の下、ベンチも置かれていますがその奥には剥き出しの岩。

 

 堆積岩のように見えますが詳細不明。 って木の幹……?

 

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神明神社

 

 『岩村田駅・新駅舎完成』と聞いて岩村田の町を訪ねました。

 

 『旧中仙道』の時代より大変栄えた『岩村田宿』

 

 『中仙道』はもとより『佐久甲州街道』『下仁田街道』なども交わる交通の拠点で、現在でも『官公街』として『警察署』『裁判所』『検察局』『税務署』などが並び、他にも大きな『神社仏閣』や『高校』なども在ります。

 

 長野県最古と云われている『佐久ホテル』の近く、現在は『岩村田中央公園』が在りますが、以前は一年365日を表す丸太が植えられており『誕生日の丘』が在りました。残念ながら丸太が朽ちてしまい今は撤去されています。

 

 此の場所は宿場町の時代には『歓楽街』『遊郭』なども在り、治安維持の為の『警察詰め所』(警察署でも交番でも無い?)を建てた場所だそうです。

 

 現在は『佐久警察所』として岩村田駅近くに移転しています。

 

 そんな公園の片隅に鳥居が立っていました。

 

 

 『神明神社』と鳥居に書かれている以外手掛かりは無し。

 

 鳥居の形式が『神明造り』ですので『天照大御神』や『豊受大神』を祀る『神宮』の摂社かも知れません。

 

 『神社庁』さん。『佐久教育委員会』さん出番ですよ。

 

道路原票

 

 道路を走っていて目にする『〇〇迄何㎞』の道路案内。不思議に思った事在りません?

 

 高速道路を走っていて次の『SA』や『IC』迄、この標識から何㎞と書かれていれば納得ですが、地名で書かれている場合、一体何処の地点を示しているのか。

 

 例えば『ぴんころ地蔵』参拝後に『別所温泉』へ行こうとしたとします。

 

 『カーナビ』に『別所温泉』と入力すると『別所温泉駅』や『別所温泉駐車場』などから選択する筈です。

 

 国道18号線などを走行中に『上田市・〇〇㎞』などと書かれている場合、標識の建っている場所を起点にしていますが、目的地は『上田の何処?』

 

 大抵の場合はその地域の『官公庁舎』、県庁所在地では『県庁舎』前、 市町村の場合は『市町村舎屋』前を示す場合が多いみたいです。

 

 が『長野市』の場合、県庁が在るにも関わらず、目的地となるのは『善光寺』の門前になるみたいです。

 

 『善光寺の門前』には『長野市・道路原票』が在るからです。

 

 江戸幕府が制定した『街道制度』 『江戸日本橋』を起点に『五街道』が制定され、『関所』の他にも『本陣』『宿場町』『問屋場』など細かな決まりが設けられました。

 

 時間経過と共に『五街道』以外にも準ずる幾つもの『街道』が整備されます。

 

 例えば『中仙道追分宿』から分岐して『長野・善光寺』迄を結ぶ『北国街道』(正式には『北国脇往還』)も造られました。一般には『善光寺』に参拝する人が多かったから『善光寺街道』とも呼ばれたそうです。

 

 交通手段のメインが『徒歩』であった為、防犯上から日没までには『宿場』に辿り着かなければならず、おおよその目安にしたのが『一里塚』です。(一里≒4km) 江戸時代の旅人は一日八里、健脚家で十里(40km!)~十ニ里も歩いたそうです。

 

 東海道を順調に歩いて旅すると『江戸=京都(≒495km)』は2週間掛るのが普通で、橋の無い川の増水時などは『川止め』と云って通行出来ず、更に日数を要しました。

 

 その為『冬期』以外では『中仙道』を選ぶ旅人も多かったそうです。

 

 最終目的地まで、後どの位の距離か、何処で宿泊するかなど予定を立てる為にも『目的地=道路原票』が必要でした。

 

 

 佐久市にも『道路原票』が在るのをご存じですか?

 

 場所は『岩村田』の『岩村田交差点』の脇、電柱に隠れる様に建っています。

 

 この交差点は今でこそ『餃子直売所』で有名ですが、『旧甲州街道』と『鼻顔稲荷』経由の『下仁田街道』の交点として栄えた場所でした。

 

 更に『岩村田宿』は、『甲州』の人が『善光寺』を目指して歩いた『佐久甲州街道』も合流する『中仙道一栄えた宿場町』だったそうです。

 

 その後に『廃藩置県』や『市町村精度』が発令され、『佐久市役所』も建てられましたが、道路上では『佐久道路原票』が佐久の起点になっています。

 

 

 何となく文字が彫られているのですが、光の加減も在って読み取ることは出来ませんでした。

 

 『佐久教育委員会さん。出番ですよ~』

 

 もし『佐久市まで〇〇㎞』の標識を見掛けたら多分此処を示している筈です(違うかも……責任持てません)

 

岩村田の顔

 

 私が『岩村田駅』を利用した事は過去一度だけ。(高校時代の部活遠征のみ)

 

 バイク免許を習得してからは、バイクの方が『岩村田』に行くの早いんだもの。

 

 その『岩村田駅』が新しくなったとか。行ってみますか。(もちろん車で)

 

 

 何か、かなりこじんまりしちゃった?

 

 以前は売店も在ったと思うんですけど。(何時の話だ)

 

 中込駅にも売店(JRだからkiosk)が在って、『高原のカツ弁当』を売っていたのは私が中学の時まで。その後駅弁も無くなり、暫くすると売店すら廃止。

 

 売り上げに対して人件費やロスを考えると採算取れなかったんでしょうね。

 

 

 駅舎は待合室と切符券売機が在るだけ……無人駅になってました。

 

 て事は『改札』も無い。

 

 いやよく見れば窓口が在るから無人駅じゃ無さそう。

 

 新しくなったのは良いのだけど、何だか寂しく見えるのは何故?

 

 

 以前の駅舎。駅務室がかなり広いと思ったけど気のせいかな。

 

 『岩村田高校』『佐久長聖高校』などの高校生がかなり利用していたと思うんですけど、生徒数もかなり減少しているみたいだし。

 

 『小海線』は『JR東日本』の管轄だから苦しくとも何とか現状維持しているみたいです。

 

 これがもっと利用客が少なくなると存続すら危ういかも。

 

 交通弱者の為に無くてはならない『小海線』です。

 

 たまには『小海線』に乗りますか。

 

絶景温泉

 

 今でこそ『日帰り入浴』や『立ち寄り入浴』の施設があちこちに出来、気軽に入浴料だけで温泉に入れるようになりました。

 

 『露天風呂』に入りながら遠くの山並みや、星空を眺めるなんて最高の『癒し』

 

 しかも『缶ビール』何て飲みながらだと『最高~!』(飲酒運転禁止です)

 

 佐久の『見晴らし温泉』の露天風呂から観る『八ヶ岳と夕日』や『春日温泉・音羽の森』から見上げる『星空』 『八重原・明神館』から眺める『浅間連山』など、出来れば温泉に入りながら辺りの景色をのんびり眺めているだけでホント心安らぎます。

 

 私的に『絶景露天風呂』を挙げるならば『万座・日進館』 『佐久・見晴らしの湯』の夕景 『山梨・ほったらかし温泉』などですが、『絶景温泉日本一』に『四年連続』選ばれた温泉が在ると聞き、新春早々訪れてみました。

 

 『絶景温泉みはらしの丘・みたまの湯』 場所は『山梨県』 『ほったらかし温泉』が甲府盆地の北側に在り、甲府の街並み越しに『富士山』を見るのに対し 『みたまの湯』は甲府盆地の南側『西八代郡市川三郷町』の北斜面に在り、『八ヶ岳』や甲府越に『昇仙峡』、遠く『金峰山』『国師岳』などが望めます。

 

 

 店休日でしたが翌日の仕込みなどが在り出発したのが朝9時過ぎ、『韮崎の眼鏡屋』さんでコーヒー飲んだり(めがねスーパー韮崎店は店内にドトールコーヒー併設)、ご当地スーパー『オギノ』を冷やかしたりでダラダラ時間を潰し、『見晴らしの丘・みたまの湯』に到着したのがお昼前。ナント平日なのに正面駐車場はほぼ満杯です。

 

 入浴料大人¥780。 近頃の温泉入浴料(相場が¥700~¥1000)からしたら妥当な線。中には¥1500とか¥2000なんてのも在りますけど……私ゃ入らん。

 

 『アメニティ』として『シャンプー』『リンス』『ボディソープ』の他、『無料ドライヤー』と休憩室に『冷水器』が在る位。

 

 入浴料¥200~の『立ち寄り温泉施設』も良く利用しますけど、『石鹸・シャンプー』等は自前が多いです。(私ゃ車の中に何時も入れっぱなしだから別段困らないですけど)

 

 温泉は流石に撮影禁止。館内には『会議室』や『調理実習室』なども在り、企業の研修などにも対応していたみたいです。

 

 この温泉、夜景が素晴らしいとの事ですが、余り遅くまで居られないのが残念。道が混みだす前に帰らなきゃ。『甲府~佐久』間に混む処なんて無いんですけど、国道141号線は『須玉・清里の登坂車線』と『野辺山高原』以外、全区間追い越し禁止! 『制限速度厳守車』(当たり前なんですけど)が走ってたりすると長蛇の列が出来ちゃう。

 

 たまに居ますね。『安全運転・制限速度守ってます』みたいな運転する方。あなたの後方でイライラしながらハンドル握っている人が大勢いるかも知れないのに。後方確認して無い証拠なんですけどね。(それとも意地が悪いだけ)

 

 

 足元には『桃』でしょうか。花の時期に又来ようかな。

 

 さて、八ヶ岳の向こうまで帰らなきゃ。

 

下仁田

 

 中学の時、サイクリングしたのは前記の通り。高校生になり『バイク』を乗り回すようになると『下仁田』はより身近になりました。

 

 『田口雨川ダム』から大好きな『ワインディング』の『田口峠』を下り、『広河原』へ。『狭岩峡』から『蟬の峡谷』と経由し『南牧村』へ。

 

 この『南牧村』 同じ漢字を使っているのに『長野県南牧(みなみまき)村』と『群馬県南牧(なんもく)村』の読み方が違うんです。しかも『宅配便エリア』が隣接している為、誤配が多々発生したとか。(現在はエリア番号で管轄しているので滅多に間違えないそうですけど)

 

 今でこそ廃村になってしまった『臼田広河原』ですが、自治体こそ『長野県佐久市(旧臼田)』ですが生活圏は『群馬県南牧村』、新聞配達などは『群馬県判』が配達されたそうです。郵便配達などは臼田町から峠を越えたとか。住民票なども臼田町役場まで取りに来たとか。マイナンバーカードはこんな時便利?(なんせ融通利かないお役所仕事ですから)

 

 高校時代のと或る日曜日。部活も無く朝からバイクを乗り回していました。

 

 『旧佐久町(佐久穂町)』から『十国峠』を越え、『上野村』へ、北上して『塩野沢峠』経由で『南牧村』へ出て『下仁田』へ。当時約8割が砂利道でした。

 

 そそ頃から『オフロードバイク』に乗っていましたから、『林道』なんてお手の物。『行き止まりだったら戻りゃいい』位に考えてました。 

 

 山の中のと或る集落の神社では『祭り』が行われていました。

 

 小さい神社ですので人出もチョボチョボ。香具師の屋台が数軒ほど出店していました。(お面・綿あめ・たこ焼き・おもちゃ屋……)

 

 其れこそ『寅さん』が『啖呵売』しているような祭りの光景が其処に在りました。なけなしの小遣いから『たこ焼き』か何かを買ったような気がします。

 

 山間部で困るのが『ガス欠』です。当時登山様に『マルキル社製アルミボトル』を持っていましたのでこれに『ガソリン』を入れて携行していました。(現在は違法です)

 

 ナントその頃は省エネの政策の下『日曜日=ガソリンスタンド店休日』が徹底されていましたから山の中を走るには一苦労しましたけど。

 

 『下仁田』の街に到着すれば後は国道254を小一時間走るだけ。直ぐには帰りたくなかったので街中をブラブラしました。

 

 『永六輔』さんの『遠くへ行きたい』 

 

 ♪ 知らない街を 歩いてみたい 何処か遠くへ 行きたい

 

  知らない海を 眺めていたい 何処か遠くへ 行きたい

 

  遠い街 遠い海 夢遥か 一人旅

 

 (肝心なのが此処から) 愛する人と巡り合いたい 何処か遠くへ 行きたい

 

 多分知らない街を『ぶらつく』私の放浪癖はこの頃確立したのでしょう。

 

 

 素敵な和紙の店や

 

 

 こんな食堂も健在。

 

 下仁田の裏通りに在るこのお店、50年前から在ったと思います。

 

 他にも昔から在った肉屋さん。細い通りに面して『肉の冷蔵ショーケース』が在ります。

 

 で手造りの『コロッケ』が注文してから揚げてくれるスタイルの店で、当時は¥20だったと思います(現在¥100) ショーケースの上の醤油やソースをダボダボかけて熱々を食べました。ひょっとして店主の爺ちゃん婆ちゃん。当時から居た?

 

 その当時『TVゲーム』が流行り始め、喫茶店のテーブルタイプの『インベーダーゲーム』や『ブロック崩し』にあっと言う間に百円玉が吸い込まれていきました。

 

 『下仁田』の駄菓子屋の店先に在った『テーブルゲーム』(確か白黒の『ブロック崩しor風船割りゲーム』)が、子供価格の十円!

 

 投入口に十円玉を一枚投入すると遊べました。

 

 子供用のテーブルゲームを独占して遊んでいたら周囲はガキんちょがワンサカ。

 

 その目は『よそ者が独占してんじゃねぇ』 まっ早々に退散しましたけど。

 

 

下仁田の食堂

 

 私が中学生の時、内山峠のトンネルが開通しました。

 

 初夏のとある日、仲間四人で自転車に乗り『下仁田』までのサイクリングを計画しました。

 

 自転車通学の友達は『5段変速』や『サイクリング車』 私のはお下がりの『3段変速』それもオンボロ。国道254バイパスとして完成したばかりの道路沿いには、お店も自販機も皆無の時代でした。

 

 朝8時に公園に集合し出発。峠までの上り坂は大変でしたが其処は若さで乗り切りました。

 

 薄暗いトンネルの中に歩道・自転車専用帯は無く、後方から車が来ると縁石に自転車を乗り上げて退避しました。峠を越えると後は下り。出来るだけブレーキを掛けないようにして下りました。群馬県側はバイパス化されていなくて、川沿いの木立の中、『旧川越街道』の狭く曲がりくねった道を走ったのを覚えています。(確か狭い道をトラックも走っていた)

 

 

 当時の『道路地図』では『佐久~下仁田間、35㌔(?)』としか表示が無く、仲間の「片道3時間もかからないじゃん。」の声に「楽勝~」位に考えていました。

 

 『蒟蒻食べ放題¥100』のドライブインで腹一杯食べてお店の人に呆れられたり、喉が渇いたら井戸の水を飲んだりと楽しいサイクリングでした。 

 

 お昼頃『下仁田』に到着し、みんなでラーメンを食べようと一軒の店に入り、『コーラ』や『ミリンダ』(知らねえだろうなぁ)で乾杯しました。

 

 お腹一杯になると帰りの時間が気になりだし、早めに帰るかと下仁田を出発したのが1時頃。最初は冗談も云えたのですが段々無口になり、足の疲れからスピードも出ずに。(帰りは峠までず~っと登り坂!) その内自転車から降りて押して歩くようになり……トンネルに辿り着いた時にはもう夕方でした。

 

 自転車のライトを点けて走る事一時間で私は家に着きましたが友達は更に一時間自転車をこがないと帰れません。親父に話して友達の自転車を車に積んで貰い、家まで送った記憶が在ります。

 

 後日友達の親から学校にバレ、先生から怒られましたけど、不思議と親父からは怒られなかったなぁ。

 

 其の時の教訓:帰りは行きの倍の時間。

 

 

 確かこの店だったと思うんだけど……昔は蝋細工のサンプルがショーケースに並んでいたと思います。

 

 『高崎達磨寺』の帰りに寄ったのですが正月休みかな。閉まっていました。

 

 意外と下仁田の町には飲食店が多く、正月四日なのに営業している店も在りました。

 

 

 『腹が……減った』のこのセリフと顔。

 

 『松重豊』さん演じる『井之頭五郎』さんのポスターが店頭に。

 

 店の前には数人のお客さんが待っています。私事ですが食事の為に並んで待つの大っ嫌い!30分も並んだらもういいや他に行こうとなります。

 

 並ぼうかどうしようか考えていると店の中から声が架かり、先に並んだ人が吸い込まれていきました。

 

 じゃ次か。そんなに待たないだろうと座って待つ事30分。やっと店内に入れました。

 

 

 店内には空きテーブルが数卓と、片付けてないテーブルが数卓。(従業員が足りてない訳でも無さそうだし?)

 

 オーダーして割とすぐに鍋の材料は運ばれてきました。

 

 

 鍋なんかの注文だと、店側は食材を皿に盛るだけ。何故回転が悪い?

 

 正月早々腹を立てるのも良くないからと思い、何も云わずに食べましたとさ。

 

 私が20歳の頃、『青山』に『某アイスクリーム店』がオープンしました。かなりの人気で冬なのにアイスクリームを買うのに1時間程並ぶらしいとTVで報道されました。当時『洋菓子店』に勤めていた私は『並ぶほど美味しい秘密は何だろう?』と寒空の下、行列に並んでみる事に。その日は雪がちらついた事も在り30分も並ばずに一番人気のアイスクリームを購入出来ました。フト私の前に並んでいた人(カップルばかり)達がお金を払った後一様に同じ方向に歩いて行きます。さては座って食べられる温かい場所でも在るのかと後を付いて行くと、裏通りに停められた一台のワンボックスカーの窓をノックし、レシートらしきものを渡して何やら受け取っています。私の前のカップルもレシートを渡してお札を受け取っていました。後ろにいた私も真似してレシートを渡すと¥3000貰えました。其の時中の男に「もう一度並ぶなら一時間は開けてから並んでね」と云われピンときました。

 

 行列は『サクラ』じゃん。多分大学生とかに声を掛け、友達同士の間で広がったバイトなのでしょう。バイト代が時給¥750の時代、¥350(?)位のアイスを自腹で買ったとはいえ、30分並んで¥2500以上稼げる。謂わば『闇バイト』(可愛いもんだけど)が当時から行われていたんですね。

 

 それから『行列』がどうも嘘くさくて……行列を見掛けると横を通り過ぎながら『森山直太朗・桜』をハミングするのは嫌がらせ?

 

黄檗宗・少林山・達磨寺

 

 2025年の新年第一歩は『諏訪大社』でした。

 

 で第二歩(?)は『少林山・達磨寺』です。

 

 朝から動き出し、込み始める前に到着。昨年の達磨を納め先ずは参拝。

 

 車の中には自前の『蝋燭・線香』が常時っています。

 

 寺院参拝で『線香=¥100』と『蝋燭=¥100』(中には無料で提供している処も在ります)が結構気になります。

 

 『香炉』と『灯明台』は借りる形になりますけど、『拝観料、ハイ¥〇〇。線香一束、ハイ¥〇〇。灯明ですか?¥〇〇です。お札・御守り¥〇〇~色々取り揃えております。

こんな面白いおみくじも在ります。¥〇〇です……』

 

 『神社』は『神社庁管轄』ですが、『寺院』は『各県知事』若しくは国宝級の扱いは『文部科学大臣』の管轄になります。

 

 いずれも『宗教法人』の届け出が受理されれば『非課税!』(世界共通で非課税らしいです) 確かに維持管理の為の『お布施』や、慈悲施しの為の寄付金などから税金取っちゃダメだと思います。

 

 利益を出そうと母体が『宗教法人経営』の『保育園』なども多々存在しています。

 

 一時、テレビ出演の多い僧侶がフェラーリを何台も持っていると暴露された事も在りましたね。非課税を悪用しようとした(脱税)『新興宗教』が乱立したのもその頃。変な団体が新聞記事を賑わせました。

 

 話を戻して。『線香・蝋燭』をお供えした後、本堂にて『お礼報告』と『今年の祈願』をします。

 

 「昨年中は何とか商売が出来まして有難うございました」と感謝の心を伝え、「今年もより一層努力しますので商売繁盛お願いします」ってな感じですかね。

 

 その後『領布所』で昨年と同じ大きさの達磨を求めます。

 

 縁起物は『毎年サイズを大きくしないといけない』みたいな事云われますけど、全然無理する必要無いそうです。(いずれは行き詰まるじゃん)

 

 その後『納経』 『般若心経』の写経を納め『御朱印』を頂きます。

 

 『御朱印』を頂く時『達磨開眼』を授かります。

 

 『黄檗宗の僧侶』が読経の後、達磨の左目に小さな点を墨付けします。

 

 家に持ち帰り、暦の良日を選んで『願掛け』しながら『墨』で黒々と目を入れます。

 

 私の家の場合『達磨』の『肩書き』(顔の横ですけど)のひとつは『商売繁盛』、もう一つは『家内安全』(本当は『千客万来』が欲しかったけど無かった)

 

 新型コロナの時は『大願成就』 「コロナが早く終息します様に」でした。

 

 今は『世界平和』を願わずにはいられませんけど、やっぱり『肩書き』には無かったです。

 

 毎年の事なのでカメラは車の中。なので写真在りません。

 

 たまにはシンプルで良くない?

 

旧中仙道

 

 新年明けましておめでとうございます。 って何のこっちゃ。

 

 やっとブログは 2025年新春に突入します。

 

 暮れは大晦日の大掃除に追われ、正月一日は初日の出を拝んでから『くるみ餅の仕込み』 佐久平駅納入分だけでも作らないと。

 

 仕上げは翌日ですので、一日・二日は『昼酒・昼寝』と新春早々怠惰に過ごします。

 

 で三日か四日、特に日は決めませんが、毎年必ず『諏訪大社下社』へ『初詣』と『少林山・達磨寺』へ『繁盛ダルマ』を買いに行きます。

 

 何時もは4日だったからか規制も無く、大駐車場までスムーズに入れましたが、今年は3日に行った為、交通規制で『諏訪大社下社春宮』周辺に近づけず、仕方ないから『秋宮』近くに車を停めました。

 

 初めに『秋宮』に参拝し『旧中仙道』を歩いて『春宮』へ。午後2時過ぎだというのに参拝者は長蛇の列。一番後ろに並びましてひたすらノロノロと歩きます。

 

 小一時間も並んだ末にやっと『拝殿』到着。

 

 毎年参拝させて頂いてますので先ずは昨年の『願ほどき』そして新たに『願掛け』します。

 

 正式な作法として賽銭箱前にて『略礼』、『鈴緒』を鳴らしお賽銭を納め(決して放り投げない事)『二礼二拍手』この時お辞儀は深い程良いとされています。柏手を打つ時は、合掌した状態から右手を第一関節分下げると音が響きます。二拍手の後再び合掌の状態に掌を併せ『祈願』します。この時「住所・氏名を神様に告げ(でないと誰の願を叶えるのか神様が困るから)かなえて欲しい願い事を具体的にお願いします。出来れば公共性の在る願い事が良いとされていますがあくまでcase by case.

 

 余り感心できないのが「宝くじが当たりますように」的な欲望丸出しの願掛けとされています。それでもどうしても「宝くじ高額当選」を希望するなら「私は✕✕に住む〇〇と申します。訳在って一億円が必要です。宝くじの一等を当てて下さい」と具体的にお願いすると良いとか。(それで当たれば皆金持ちですけど)

 

 公共性の在る願掛け、今年は「世界中で争いが無くなります様にお願いします」、少し前は「少しでも早く新型コロナが収束します様に」でした。

 

 余り沢山の願掛けも神様に聞き届けて貰えるかどうか……後ろに待ってる人が大勢いるなら尚の事ですね。

 

 人によって願いは様々でしょう「〇〇の病気が感知します様に」とか「良縁に恵まれます様に」など個人的なお願いをする事も在るでしょう。そしてもし願いが叶ったら『お礼参り』(ヤンキーの専門用語みたいになっちゃいましたが)若しくは『願ほどき』

 

 落語の下げ「甲府~ぃ お詣り 願ほどき(豆腐 胡麻入り雁もどき)」ってのをつい思い出します。

 

 甲府ってのは『身延山久遠寺(日蓮宗)』の事なんですけど。

 

 江戸時代、『三代将軍家光』が整備を命じた『五街道』、『江戸日本橋』を起点に『東海道』『中仙道』『甲州街道』『奥州街道』『日光街道』の五つの街道の事を云います。

 

 日本橋を出発し『東海道』最初の宿が『品川』、『中仙道』は『板橋』、『甲州街道』が『新宿』、『奥州街道&日光街道』は『千住』が宿場町として発展した町でした。今は人口増加と共に街が拡大、挙句全部くっついちゃって境界線によって区切られているだけですけど。

 

 『日本橋』を出て『新宿』『高尾』『大垂水』『猿橋』『甲府』と続く『甲州街道』は『韮崎』から『富士見』『茅野』と釜無川沿いに進み『諏訪』の『下諏訪大社』付近で『旧中仙道』と合流します。

 

 『諏訪宿』は『諏訪大社』のみならず『宿』の他『問屋場』『温泉』『賭場』『遊郭』など人の集まる条件が揃っており、かなり大きな宿場町であったと同時に治安を守る為に青年会や自警団などが発達したそうです。

 

 

 国道142号と『湯田坂』の交差点脇なのですがこんな御堂が在った事も気が付きませんでした。 対向車等に気を取られる場所で在ると同時に、普段『諏訪大社春宮』と『秋宮』の間を歩く事は無いですから。

 

 残念ながら説明文は日に焼けて判読不能。

 

 兎に角冷えた体を温めたいと『旦過の湯』が先。(高温で有名な温泉です)

 

 ゆっくり入っていたら辺りは暗くなっちゃった。詳細は再訪するしかないかな。

 

龍岡城 五稜郭 part2

 

 

 日本にふたつしかない『五稜郭』

 

  築城しようとした『松平乗謨・のりかた』氏、徳川御三家の家系に生まれ、江戸幕府に於いても『若年寄り』などの大役を務めます。ペリー艦隊来航後、激変する幕末の戦火を避ける為に幕府管轄地の『信州田野口』に移転します。(一説には東海道沿いを東奔西走する武力から『三河奥殿藩領民』を引っ越させる為とされています)

 

 西洋事情に精通し『フランス式軍隊』を幕府に取り入れ慶応2年には『陸軍総裁』を任命されます。戊辰戦争などで『幕府軍』が『軍服』を着用し、指揮下の元に『鉄砲』や『大砲』を発射したのも『松平乗謨』氏の指揮だそうです。

 

 しかし『幕府軍』は『維新軍』に押され、戦争を終結させるべく『15代=徳川慶喜将軍』は『大政奉還』を選び時代は『明治』になります。

 

 『徳川幕府』から『明治政府』に移行後も『新政府』に反発する『旧江戸幕府軍』『奥羽越』『蝦夷』らの『同盟軍』とのイザコザが続き、遂には『日本近代史上最大の内戦=戊辰戦争』が起き、最終決戦地『函館五稜郭』に置いて『政府軍』の勝利に終わります。

 

 晴れて日本の国府となった『明治政府』は其れ迄の超高額な借金を返済すると同時に諸外国に追いつけ追い越せとばかりに次々と荒療治とも思える政策を発令します。

 

 『地租改正』などの納税システムの見直しや、『富国強兵』に繋げる『徴兵制』導入。『官営事業』として『鉄道敷設』や『官営工場(富岡製糸工場など)』の建設。『義務教育』やら『日本国憲法』なども『明治初期』に制定されています。

 

 一般庶民に対しても『太陽暦』の徹底やら『断髪令』など他人事では在りませんでした。其れまでの『暦』は『太陰暦(旧暦)』で、不定期(2~3年)に一度『閏年(一年が13ヶ月になる=閏月があった)』で調整しましたが、外国との貿易に不便が生じる為これを禁止し『太陽暦』を導入しました。

 

 それでも『農業』『漁業』などには日本に土着した『暦』の利便性も必要な為、『カレンダー』等には『旧暦表示』も残されています。

 

 この時期に経済界で大活躍した人が『新一万円札』の人。『紙』は好きですけど『人物』は……

 

 『五稜郭』は『お堀石垣』を造っている最中『明治政府発令』の『廃城令』によりに築城できなくなりました。

 

 『江戸幕府要人』で在った『松平乗謨』は『廃藩置県・藩籍奉還』により『藩主(知事)』を返還、代わりに『伯爵号』を賜り『大給恒・おぎゅうゆずる』と名を改めます。

 

 後の『赤十字病院』の前身『日本博愛社』の設立に尽力し『子爵』の称号を与えられます。危篤の報が皇族に届くと『勲一等桐花大綬章』を授与されます。

 

 で『お堀』に戻ります。(ついて来れる?)

 

 

 後ろの建物は『旧田口小学校校舎』です。『お堀の水』は此処まで在りましたが、その先は埋められて『空堀り』でした。確か生徒が立ち入りできない様に『板』が嵌められていなかった?

 

 石垣の色の違う所までしか水が無かったのも万が一の時、生徒の安全を考えての事でしょうか。

 

 

 この旧小学校の校舎も壊され観光開発がされようとしています。

 

 小学校が在ったからこそ、昔のまま維持できたのかも知れません。

 

 願わくば『商業的観光開発』されません様に。

 

五稜郭

 

 ご存知『星型=五角形』の堀を持つ西洋式築城形式で、『戊辰戦争』の最終舞台『函館五稜郭』はつとに有名ですが、佐久にも在るの知ってます?

 

 『龍岡城五稜郭』 

 

 江戸時代末期、『三河奥殿藩・八代目藩主』の『松平乗謨・のりかた=後の 大給恒・おぎゅうゆずる』は、京都=江戸を駆け巡る戦火(尊王攘夷)を逃れる為、幕府御領地の『信濃田野口藩=現・佐久市田口』に移転・築城を計画しました。

 

 『函館』に築城された『西洋建築技術』を取り入れた『五稜郭』に学び、日本に二つ目となる『星形の城』を造ろうとしました。

 

 工事人足の為の『台所』を一番先に建設し、『整地』と『堀の石垣』を造っている最中に『大政奉還』、 『江戸幕府』から『明治政府』へと時代は変化しました。

 

 『明治政府』は諸外国に追いつく為の思い気った政策(富国強兵・中央集権)を次々と敢行、『廃藩置県』や『廃城令』を発動し反政府軍の拠点になりそうな城をの破壊命令と、それ以降の築城を一切禁じました。

 

 故に『龍岡城五稜郭』も建築途中で『明治』になり、お堀の五角形の石垣も完成する事無く工事は中止。整地された広い土地は『田口小学校』へと転用されました。

 

 長い間『小学校』として使用され、『五稜郭』を訪れた観光客も普通に校庭の隅に残った『台所』や『田口招魂社』『公衆トイレ』(学校の敷地内に在り、生徒が掃除していてそうです)を見学・利用していました。

 

 私の通っていた『野沢小学校2年の秋遠足』が『新海三社神社』&『龍岡城五稜郭』で、休憩(水道を借りる為?)している私たちの前で『田口小学生』がグラウンドを走っていたのを覚えています。

 

 最近になって『臼田小学校』に合併された為、ようやく観光開発が許可されるに至りました。

 

 新聞に『お堀石垣修復工事』の記事が載っており、当時工事に携わった人の名前が発見されたと書かれていました。

 

 修復工事の為に『お堀の水』を抜き、調査の結果名前を刻んだ石が在ると分ったそうです。

 

 

 新聞を読んだ数日後の店休日、カメラを持って五稜郭を訪れるとお堀には薄っすらと氷が張っていました。上の写真、内側の石積み(左側)と外側の石積みの表面が違うのが見て取れます。

 

 

 校舎の建っている付近は『土嚢袋』で仕切られ、ポンプで水が抜かれています。更に重機が走行できるように『鉄板』が敷かれています。

 

 一応『五稜郭であいの館』の方に撮影許可を頂いたのですが、工事の人は何処にもいない……立ち入り禁止になっていなかったから『自己責任』って事で。

 

 

 段差を降りる時「どっこいしょ」と口に出るのは歳ですね。

 

 

 綺麗な『切込み接』の石積みは工法として一番新しい手法です。

 

 『江戸時代』には石工によって『鑿と玄翁』だけで真っ直ぐな直線が伐り出され、接合面はぴったりと合っています。近年では『石のこぎり』で平面を伐り出すそうです。(角の石は後に手直しされたのでは?)

 

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道の駅・おばあちゃん

 

 googlemapを観ていてたまたま見つけた『道の駅・おばあちゃん市』

 

 その名前のインパクトと『小里川ダム・ダムカード』を入手しようと思っていました。

 

 日暮れ前に辿り着きたいと『川見四季桜』の『桜の山』も登らずに先を急ぐと。

 

 ナビされた裏道を走っているとダム湖の向こうに

 

 

 『日本一大きな木製水車』が見えました。

 

 車を『道の駅・おばあちゃん市』に停め、先ずは『水車見学』です。

 

 オブジェかと思ったら、ゆっくりと廻っています。

 

 

 この水車は『発電用』? それとも『灌漑揚水用』? まさか『粉ひき』って事は無いだろうし。

 

 

 ダム湖から一段高い場所に在って、水路はどうしたんだろう? 

 

 観ていて疑問が次々と湧いてきました。

 

 一周廻るとボードが在り、説明を見ると。

 

 

 だそうです。『石粉水車』 しかもオブジェでした。

 

 次なる疑問『陶石』って? ググって納得。陶磁器などに用いられる原石ですと。

 

 此の辺りで出土する『陶石』を『水車』を動力にした『杵』と『石臼』で微細に砕き、近隣の『瀬戸物産地』へ供給していたのでしょう。(あっ瀬戸物は粘土か)

 

 ♪ 真っ白な 陶磁器を 眺めては 飽きもせず……小椋佳の名曲『白い一日』冒頭ですけど、『掃除機』と勘違いしていたのは私だけ?

 

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 『春』になれば桜の花が開き、有名な『桜スポット』では結構な人が集まり、それを見越して出店や有料個人駐車場なども見かけます。

 

 いち早く『桜』を見たい人は『伊豆・河津桜』などへ出かけます。

 

 中には春と勘違いしてか、秋に咲く桜も在りまして。

 

 佐久でも『家畜改良センター』交差点そばの桜が毎年秋に開花します。

 

 まぁ『開花』ってだけで、枝の先にチョボチョボっと花がついているだけですが。

 

 旅行パンフに書かれていた『紅葉と桜』が気になって『いつか行ってみたい場所候補』にピックアップ指定場所が『川見四季桜』です。

 

 『香嵐渓』の北へ15km程の場所なのですが、大きく迂回しないと辿り着けない為、帰路高速に乗る前に寄ってみようと思っていました。

 

 基本バイクでツーリングする時などは何も決めず走り出すことが多いです。

 

 走っていて偶々交差点の信号が右矢印になっていたから右折しちゃったとか、前を走る遅い車が邪魔くさいから左折しちゃったなんて事日常です。とんでもない処に出る事も有れば、意外な発見をしたり。バイクだと気になったらすぐに停車できる処が強みです。

 

 第一、私のバイクには『ナビ』が無い。(オフロード車だから固定に難あり)

 

 ホントに迷ったら『スマホ』を取り出しますけど、それ以外は『標識』と『勘!』が頼りです。

 

 

 『カーナビ』に『川見四季桜』と入力すると観光ポイントを示しますが、駐車場が規制されていて、一般車両立ち入り禁止です。近くの(お高い)民間駐車場を使うか、公共の『シャトルバス』を使うか。路駐なんて以ての外!なのに平然と違法駐車する輩も居ました。(一寸くらいと思う貴方がダメにする)

 

 中には現地まで行きながら車を停められなかったのか、シャトルバスの発着場迄戻って来るパターンもあるんじゃない?

 

 『豊田市・小原』に入ると『川見四季桜駐車場』と大書きされた看板が立っています。

 

 有料シャトルバスに乗り換えて『川見四季桜山』まで往復する仕組みです。

 

 駐車場の利用は無料、隣接するスペースには『露天商』がズラリと並び、『五平餅』やら『焼栗』『クレープ』『お土産』と飲食にも困りません。(チョット肌寒かったから温かい物が嬉しい)

 

 『シャトルバス』で良くあるのが『随時発車』 定時にならなくてもある程度の人数がまとまれば出発するのですが、逆に人数が少ないと『何時まで待たせるんだ?』とイライラが募ったり。(運行側も心得ていてイライラが爆発する前には発車しますけど)

 

 そんなこんなで無事出発です。

 

 大型バスが出発してから10分も走った頃会場到着。それが上の写真です。

 

 

 『紅葉と桜』のコラボ。白く見える木は『桜』です。

 

 春の『菜の花と桜』も好きですけど、秋も良い。絶対に良い‼

 

 

 此方は『混交樹林』で『広葉樹の紅葉』と『針葉樹の緑』も混ざっています。

 

 惜しむらくは一週間早かったそう。もう少し色付くとコントラストがはっきりして綺麗だとか。

 

 

 バスの中から撮影したこの場所が一番美しく感じたのですが、如何せんブレちゃった。

 

 こんな所に澄んでる人は羨ましい?  

 

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いなり寿司

 

 『豊川稲荷』で参拝&願掛けをしまして、参道口商店街へ。

 

 そう『いなり寿司』発祥の地とされている場所です。

 

 時間的には昼前でもっと人出が在るのかと思いきや閑散としていました。

 

 

 やっぱり目当ては『いなり寿司』、色々な味をアレンジした『変わり稲荷』やら、酢飯しの替わりに『餅』の入った物やら。

 

 やっぱりオーソドックスな『いなり寿司』を買いましたけど……スーパーで売ってるのと味は変わらん。(お値段は大違いなのに)

 

 

 街角にはこんな素敵な『ホーロー看板』も沢山並んでいました。

 

 一貫性の無い看板はあくまで『オブジェ』としてですね。

 

 その後折角『豊川』迄来たのだから、近くのミカン農家の無人販売所でも訪ねようかと検索しました。

 

 『エビせんべい』と『ミカン』を両方買えそうな所、『蒲郡』に白羽の矢が立ちました。

 

 昔、この地名が読めなくて『かばぐん』と読んで笑われました。正解は『がまごおり』

 

 ところが期待していた『ミカン畑』には『直売所=格安販売』が無く、訪れた『オレンジパーク』で売られていたミカンはスーパー価格。わざわざ買うものでも無いと断念しました。それでも訪れる大型バスが次から次へと入れ替わり立ち代わり。皆さん大枚叩いて箱買いしてる……何故?試食したけど普通のお味。

 

 その後『エビせんべい』販売所へ。こちらも格安の『久助』を求めたのですが此方での販売は無いとの事。普通のエビせんべいを買いましたとさ。

 

 此処まで来たなら『竹島』に行って『弁財天』に参拝してこようかなと。

 

 

 駐車場が結構混んでいましたが、隣接する『竹島水族館』にお客さんが流れていくみたい。

 

 海に突き出た橋を渡って『竹島』へ。参道を昇って『八百富神社』へ。

 

 此処でミラーレスカメラから警告音が。

 

 私のカメラは『電池式』で、残量が無くなると警告音が鳴る仕組みです。しまった車に予備の電池置いて来ちゃった。

 

 この橋を戻って乾電池を取りに行く元気は無いなぁ。で此処から写真無しです。

 

 『大黒神社』(大黒様は神教です)『八百富神社』『八大龍神社』と其々参拝し、島の先端まで。そこから海岸線沿いに半周するのですが、この日は西からの風が強く、風を遮る島影の反時計回りを歩きました。(時計回りに海岸沿いを歩くと飛沫が架かる筈)

 

 岩陰で身を寄せるカップルを横目に(実は何さらしとるんじゃ~と睨みつけながら)寛大な処を見せながら「こんにちは~」と挨拶するも完全に無視されてしまいました(ハイハイどーぞご自由に) 若いって良いな。

 

豊川稲荷

 

 こーちゃんの大好きな『日本三大〇〇』

 

 『夜景』『瀑布』『ガッカリ有名観光地』など様々なランキングが発表されています。(誰が調べるんだろう?)

 

 其の中で『日本三大稲荷』 知ってます?

 

 一説では『京都伏見稲荷』『愛知豊川稲荷』『佐賀祐徳稲荷』とされていますが、『京都伏見稲荷』以外は諸説あり『茨城笠間稲荷』や、地元長野の『佐久・鼻顔稲荷』なども候補に挙げられています。

 

 で今回『香嵐渓』まで出かけましたので『商売繁盛』の祈願に『豊川稲荷』に参拝です。

 

 ナビされた道を走っていて気が付いたのは、地方県道がドンドンバイパス化され、下手に国道など走るより信号は少ないし、コンビニは点在しているしで実に快適。しかも高速経由より断然近いし早い。

 

 実はバイクで何回か訪れているのですが、何時も総門の脇に停めていたので駐車料金がかかりませんでした。今回車で行ったので私設駐車場¥500を利用です。

 

 気がつきました? 停めたのが『総門』 そう『豊川稲荷』は『妙厳寺』というお寺に在ります。

 

 

 この門の並びに『交番』が在って、十数人の『お巡りさん』や『報道カメラ』が交番を取り巻いていました。すわ事件か?(言い方が古過ぎ) 境内に居たお巡りさんに恐る恐る「何か在ったんですか?」と尋ねると「交番の新築完成記念式です」ですと。

 

 そう云えば以前は交番が道向かいに建っていた気がする。

 

 総門を潜り手水してから真っ直ぐ参道を進んで『妙厳寺・瑞祥伝』にて参拝。

 

 でも入り口は閉ざされていました。

 

 一旦参道の石畳を戻り、分岐から廻りこむと

 

 

 『大鳥居』が立っています。此処からが『豊川稲荷』のエリアです。

 

 お寺の中に『鳥居』って実はよく見かけます。

 

 『ぴんころ地蔵』の『成田山薬師寺』の境内にも在るんです。(知らなかった?)

 

 行き過ぎた『神仏習合』を禁ずるため、明治政府が発した『神仏分離令』の為に、神社内に在った多くの『仏教』に関する物、『寺院』『仏像』などが壊されてしまいました。

 

 『神社』の境内に在った『寺院』は『壁や垣根』で分離されるか移築、若しくは壊されてしまいました。

 

 各地に見られる『神宮寺』という名前の寺院はそもそも『神社』に祀られていた寺院です。

 

 『諏訪大社・上社本宮』のすぐ隣に在った『神宮寺』は『諏訪大社』の数倍の面積を持っていましたし、佐久市の『臼田・新海三社神社』の境内にも寺院がかつて存在し名残の『三重塔』が残されています。『神宮寺』は移築できたのですが『狛犬』と『三重塔』だけはそのまま残されています。

 

 で話を戻しまして

 

 

 『豊川稲荷』の拝殿です。(祀られている神様を敬う場所)

 

 『宝珠・ほうしゅ』の描かれた提燈は仏教形式。でも『鳥居』は神道。

 

 『稲荷神』と『仏神・ウケノミタマノカミ』が同一視された為に起きた現象です。

 

 難しい事は考えずに、参拝を済ませ裏手に廻りこむと。

 

 

 沢山の奉納幟=『千本幟』を過ぎ(現在は一方通行です)

 

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三州足助

 

 『香嵐渓』の在る『足助町』は、現在の国道153号線沿いに在ります。

 

 その昔『中馬街道』と呼ばれていました。

 

 この国道153号線、『愛知県・豊田市』と『長野県・飯田市』を結ぶ道路ですがイマイチ開発が遅れ、二車線無い部分も存在する山道です。

 

 『徳川家光』の時代、『参勤交代』の為の五街道が整備されました。

 

 『江戸・日本橋』を起点に『東海道』『甲州街道』『中仙道』『日光街道』『奥州街道』が整備され、街道拠点には関所が設けられ、宿場町には『本陣』や『問屋場』の設置が義務付けられました。

 

 他にも『脇街道』と呼ばれる『主要幹線道路』や、生活必需品を運ぶ為の『街道』(塩の道・鯖街道)や『参詣街道』(伊勢街道・善光寺街道)なども在りました。

 

 『中馬街道』も『尾張(愛知県)』と『信州(長野県)』を結ぶ物流街道として『塩』や『海産物』が信州に向けて、『農産物』や『炭』などが尾張に運ばれたのでしょうか。

 

 思うんですけど『中仙道』が『木曽谷』を通るより、『伊那谷』を通った方が便利だったんじゃない?

 

 実は『東海道』には難所が多く『越すに越されぬ大井川』とある様に、大きな河川には橋が無く、『渡し人足』に頼っていましたが、雨が降ると『渡川』が禁止されました。時代劇でお馴染みの『川止め』ってヤツ。他にも『箱根超え』はぬかるんだ坂道が旅人の行く手を遮りました。

 

 『中仙道・木曽谷』も『木曽の桟』と呼ばれる難所が在って『木曽川』に突き出た『岩棚』に杭を水平に打ち込み、その上に板を渡して道としました。

 

 『碓氷峠』や『和田峠』も狭い処では『駕篭』が通れる幅しか無く、しかも坂道。雨が降ったら滑って登れなかったんじゃ?

 

 その後自動車の時代になり、幹線道路が整備され更にはバイパスが構築されると昔の『街道』は見る影も無くなってしまいます。

 

 更に云うなら今の『高速道路』、『利権絡み』が何となく見えたりして……

 

 『三州足助』は『足助氏』の領土として栄えてきた土地で、1427年に『足助氏居住地』跡に建てられたのが『香積寺』です。

 

 

 『三州足助屋敷跡』は商業施設化しており、折角の古い建物が……

 

 

 まぁ此の地は観光名所としてビジネス優先なのは分かりますけどね。

 

 この後『旧足助宿』へ行ってみようかな。

 

香積寺

 

 『香嵐渓』の名前の由来になった『香積寺・こうじゃくじ』

 

 『巴川』沿いの参道に『桜』や『楓』を植えたのが『紅葉の香嵐渓』の始まりだそうです。

 

 

 山影になる場所はまだまだ色付きが淡い感じ、でもそれも一興。

 

 

 有名なフォトスポット『赤い橋』から。

 

 

 この赤い橋正式には『待月橋』です。う~んロマンチック~。

 

 川沿いから石段を昇ると

 

 

 『香積寺』の入り口です。観光案内もしっかりしています。

 

 足助地区の観光収入のメインですから掃除も行き届いています。(けどこの黒い袋は何じゃ?)

 

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香嵐渓

 

 暦の上では間もなく『雨水』を迎え、一段と春らしくなるのに、ブログの上では『秋』の始まりです。

 

 2024/11の店休日、紅葉を求め向かった先は『香嵐渓』

 

 某旅行情報誌で『中京地区一の紅葉』とされてから一度は訪れてみたい場所にピックアップしていました。

 

 朝3時に家を出発。国道142号で『岡谷』、『辰野』~国道153号線をひた走り『飯田』『根羽村』を超えて『愛知県・豊田市』へ。(飯田~香嵐渓までコンビニ在りませんので注意)

 

 それでも朝8時前には香嵐渓駐車場に到着です。

 

 

 駐車場のゲートは開いていましたが、有料の看板が在るのに誰も係員がいない。

 

 後でトラブルのも嫌だからトイレに行ったり、自販機のお茶を飲んだり。そうこうしている内に係員が到着。領収書を車のダッシュボードに置いてイザ散策開始です。

 

 

 おじさん(私の方が歳かも)曰く「2.3日前からようやく色付き始めたんですよ。其れ迄は暖かすぎて緑色しか見えなかったんです。観光バスがバンバン来るのに申し訳なくて……」ですと。

 

 

 我が地元に『ぴんころ地蔵』が在る為か、お地蔵様には必ず手を合わせます。

 

 屋根が掛けられた時には『大きなお地蔵様と六地蔵』は並んでいた筈。

 

 解らないのが六地蔵の隣の小さなお地蔵様。何も書かれていませんから何とも言えない。

 

 イラストを見る限り『大きなお地蔵様=延命地蔵』だとは思うのですが、台座に『右・左』と彫られていますので『道標』的な役割を持っていたのでしょうか。

 

 賽銭箱に隠れて文字は見えませんでしたが、この右手を行くと『飯盛山』へと続いている筈です。

 

 

 『香嵐渓』とは。『香積寺』の『香』と『巴川』を駆け下る風『嵐気』の『嵐』をとって此の渓谷を『香嵐渓』と名付けたのが『毎日新聞の本山彦一(社長)』だそうです。

 

 以前何度か国道153号線を走っていますが、紅葉期じゃ無かった為、『香嵐渓』で足を止めた事は在りませんでした。(でわざわざ紅葉を観に、下道で此処まで来るんですから物好きっちゃ大の物好きは否定しません)

 

 石柱に『香積古桜林』と読めます。桜の季節も綺麗だろうなぁ。

 

 

 『香嵐渓のもみじ』については石板に刻まれていますが、並んだ石仏『ウサギ』ですかね?

 

 真ん中で花台になっているのは……?

 

 此れもっとアピールしてくれないですかね。

 

勝平徳之?

 

 銀行跡を見学し、順路を辿ると隣のビルへ続いていました。

 

 『勝平徳之記念館』と書かれていましたが『かつひら?』『かっぺい?』

 

 昔『ダッシュ勝平』というバスケットボールを題材にしたアニメがありました。主人公の名前が『かっぺい』でした。『勝平』は苗字も名前もあり得るかな。

 

 『徳之』も『とくゆき』とも『のりゆき』とも読めるし。

 

 『苗字・名前』なのか『名前・苗字』なのかどちらとも取れる不思議な名前です。

 

 

 下にローマ字で『KATUHIRA TOKUSHI』と書いてあるじゃん。『とくし』とは読めなかったです。

 

 で早速スマホを取り出して検索。知りたい時に直ぐ答えが解かるからホント便利。(覚えなくてもいいからすぐ忘れるけど) お陰で契約G数、いつも一線を超えちゃうんで割高です。(ポケットwi-fi契約の方が安いかな)

 

 wi-fi(wireless fidelity) 『ワイヤーレス フィデルティ』だから訳すなら『ワイ・フィ』が妥当なのに何で『ワイ・ハイ』って云うのかな?

 

 私の文章は分岐点が非常に多く、付いて来れます?

 

 

 ガラス越しは撮影が難しい

 

 

 観た事あるかも。

 

 

 秋田出身の現代版画家で、優しい色使いや描写は必ず観た事あると思います。

 

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赤レンガ

 

 それまで一部の西洋建築でしか使われていなかった『赤レンガ』が、その強固さや建築のしやすさから明治末期~急速に広がります。

 

 有名な処では『小樽運河のレンガ倉庫』『函館倉庫街』や『横浜・馬車道』『碓氷峠・鉄橋橋脚』『富岡製糸工場』『東京駅』や『深谷駅』も『赤レンガ建築』です。

 

 『レンガ(煉瓦)』を積み重ねる事によって巨大な空間を創り上げる技術は、どれもこれも感心するばかりです。

 

 特に『碓氷峠・めがね橋』の橋脚は上に向かって広がり、隣の橋脚と繋がって更にその上に鉄道が敷かれ『汽車』が走るだけの強度を持っていたんですから凄い技術です。

 

 『日本最古の木造橋 大月・猿橋』は木製の『枯木(はねき)』を重ねた『刎橋(枯橋)はねばし』として有名ですが、『レンガ』で同じ様に重心をせり出させ、隣の橋脚と繋げてしまう。明治25年の技術ってんですから素晴らしい。

 

 ところで何故『赤い色のレンガ』か知ってます?

 

 含有成分に『鉄』が多く含まれ、酸化(錆びる)する事によって発色するそうです。

 

 それ以前の『レンガ』は『日干しレンガ』 粘土に藁などを混ぜ、足などで良く踏んで型に詰めて成形し、日光で完全に乾燥させただけの物。『映画 ベン・ハー』(スパルタカス?)でしたか、『チャールトンヘストン』扮する奴隷が泥だらけになって粘土を踏んでいるシーンが在りました。古代ローマの巨大建築物は全て日干しレンガで出来ています。(行った事無いですけど)

 

 現代なら『耐震性』がどうのとか、『建築基準法』で安全性が担保されていないなんて事になるのでしょうけど。

 

 でもやっぱり美しいですよね『レンガ建築』って。

 

 

 『赤レンガ郷土館』と案内図に在ったので足を延ばしてみると、『ツートンカラー』?

 

 

 

 『秋田銀行本店本館』の跡でした。

 

 恐る恐るドアを開けると受付が在り、料金を払って中へ(確か大人¥310高校生以下無料) 

 

 私、訪れた先で貰った『パンフレット』や『入場券』は全てハードケースに入れて持ち帰りファイルに整理します。でも此処の入場券が見当たらない。落としたかな。

 

 電車の待ち時間などに読む本に『栞』代わりに挟んだりすること在りますけど、今回持って行った本『ヘミングウェイ短編集』の間にも無かった。(旅のお供に『短編集』)

 

 

 高い天井からぶら下がる『シャンデリア』や『黒檀』の窓口、ガラスは縁に細工が施され、淡い光の白熱球ランプが優しく光っています。此れが『LED』じゃ又違うんだな。

 

 漆喰の白さもさる事ながら、天井や壁面の細工の見事な事。ホワイトバランス失敗して写真在りません(詳しくはホームページへ)

 

 

 おそらく店長(店長っていうか?)の座っていたであろう場所からの眺めです。

 

 そして背後に

 

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秋田散策

 

 ♪ 知らない街を 歩いてみたい 何処か遠くへ 行きたい

 

 何の予備知識も無く、只街を歩いてみるだけで素敵な発見をする事が在ります。

 

 

 『通町商店街』の案内図ですが注目すべきは描かれた人物。

 

 料理漫画『味いちもんめ』のキャラクターが描かれています。てことは漫画家の『倉田よしみ』さんの出身地? ググって見ると秋田市土崎港の出身だそうです。

 

 私が『料理漫画』を好きになったのは、小学生の頃読んだ『包丁人味平』です。

 

 一番最初に描かれたシーンが『上野不忍池・包丁塚』 その影響で私が上京して『上野駅』に降りた際、一番最初に訪れた場所が『包丁塚』です。

 

 その後も『クッキングパパ』の連載開始がやはり私が上京した年に始まり(ナント現在も連載中)、『美味しんぼ』も読み漁りました。子供が小学生になる頃『翔太の寿司』を一緒に読み、今でも『魚河岸三代目』や『酒の細道』なんかも好きです。

 

 佐久にも有名漫画原作者が在住なのをご存じですか? ヒントは佐久平駅。

 

 私の出身中学の大先輩でも在ります。芸能人の『和久井〇見』さんは後輩ですし、『故・中山〇穂』さんも佐久に在籍していました。映画監督の『崔洋一』さんも佐久市出身だとか。

 

 お隣『小諸市』出身の漫画家さんは『故・小山田いく』さん。『すくらっぷブック』という漫画が好きでした。小諸市内循環バスなどに当時の作品キャラクターが描かれています。『のらくろ』の原作者『田川水泡』さんも戦時中『佐久(旧臼田町)』に疎開していた経歴があるそうです。

 

 漫画以外では 『小海町』出身の映画監督に『新海誠』さんがいますし、『崔洋一』さんも佐久出身です。

 

 書家の『比田井天来(望月)』さんや彫刻家『川村五臓(臼田)』さんも有名ですね。

 

 以上佐久のプチ自慢でした。

 

 

 『竿灯まつり』の写真が貼られています。

 

 『ラッピング自販機』はその土地の観光案内に一役買っています。

 

 この自販機で買えるのは『コーヒー豆』や『手ぬぐい』など。ジュース販売機を利用しているのかな。

 

 

 あっ『超神ネイガー』だ! 秋田のマスコットだったのか。

 

 『秋田弁だ~』は『ベンダー』に掛けたシャレですか。

 

 ウィットに富んだコピーに感心して、ついつい買ってしまいました。

 

 只、早口で何を言っているのか全然分かりませんでした。(YouTube・秋田喋る自販機で検索)

 

 設置価格の高い自販機を導入しても、売れなくなってきたり、老朽化して処分してしまう処も多い筈です。棄てれば只の鉄くずですし二束三文(若しくは支払い発生)にしかなりません。生かして活用するには……

 

 

 此れは「八戸・しんぼり』の『南部せんべいチョコQ』の販売機。

 

 よく見るとデザインが『南部せんべい』でした。

 

 広告屋さんに聞いた処、写真を大型バスシールに印刷したりするので『ラッピング』は結構お高くなうそうです。

 

 自販機に限らず『バス』とか『飛行機』のラッピングって幾らかかるのだろう?

 

金子家

 

 『ねぶり流し館』の入館料は¥130という格安の料金。(て事は内容はそれなり?)

 

 見学を終え、出口に向かおうとすると『金子会館こちらへ』の矢印に促されて、隣接する『土蔵』へと細い通路を進みます。

 

 

 何じゃ此れ? 土蔵なんですけど豪華。しかも内部は板張りでイス・テーブルの貴賓室みたいな雰囲気です。

 

 

 土蔵の壁(コンクリート)の分厚い事! 防火・盗難対策には此の位強固じゃないと。

 

 

 内部は黒光りする床張りです。

 

 窓が無い為、間接照明が良い雰囲気です。こんな処では日本酒ですね。

 

 

 店頭に行く前に、使用人の居住空間なども公開されていましたがイマイチ暗くて写真になりませんでした。

 

 丁稚奉公している子供などが一つの部屋で共同生活していたんだろうな。

 

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竿燈

 

 『東北四大祭り』と云えば、八月初頭に『秋田竿燈』『青森ねぷた』『山形花笠』『仙台七夕』の順で盛大に行われます。

 

 旅行社の『四大祭りツアー』のプランを見ると、宿泊が三ツ星クラス温泉ホテル、移動が新幹線の四泊五日で東京発¥200000位……無理だな。

 

 『青森ねぷた』は『青森ワラッセ』で山車を観たけど祭りの迫力は実際に経験しないと。

 

 今回の旅行で『五所川原・立佞武多』だけは観たい! 

 

 『七夕』は地元で規模が小さいけど『七夕祭り』が行われるし、『花笠祭り』も沿道で踊りを見るだけ。

 

 『竿燈』TVでもよく見かけるからその大きさだけ体感しようかなと『秋田ねぶり流し館』迄やって来ました。

 

 

 『ねぶり流し』って? 正式には『秋田市民芸芸能伝承館』というらしく、観光案内に必ず載っています。

 

 えー、正直な気持ち「駐車場狭っ」 駅から歩いて来る人が多いからなのかな。

 

 大型バスが立ち寄る場所では無い事は確か。それでも高校生以下は無料という事なので、資料展示館的な役割で訪れる人が多いのかも知れません。

 

 

 大きさの違いは『大人用=大若・高さ12m、重量50㎏』『中・高生用=中若・9m、30㎏』『小学生用=小若・7m、15㎏』『未就学児用=幼若5m、5㎏』更にはミニチュア版も。

 

 

 料金を払いホールに足を踏み入れると実物の『竿燈』が展示されています。

 

 薄暗いホールの一角では『竿燈のあらまし』とか『祭りのビデオ』が流されています。

 

 出来れば実物に触れて重さを感じたりしてみたかったけど、倒れたら危険という事なのでしょう。見るだけ。

 

 子供の頃、指先に閉じた傘を立てたり、竹ぼうきを掌に立て、かけっこの競争したりしませんでした?得意だったけどなぁ。

 

 

 一通りの見学の後、見学順路に従って二階へ。そこには秋田伝統の祭りの色々が展示されていました。

 

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城跡

 

 『国破れて山河在り 城春にして草木深し』

 

 有名な『杜甫・春望』の一節です。  中略

 

 『白頭掻いて 更に短し 渾て簪に 勝えざらんと欲す』

 

 詳しくは『春望』でググって貰うとして、実に高校の古典以来かな。

 

 『戦には負けたが 春には草木に新芽が芽吹く 中略 白髪頭を掻いた所で薄くなった髪には 簪を(髷に)刺す事も出来ない』

 

 どうしても途中が思い出さないのでググってみたのですが、一番最後が自分の事の様でして。

 

 確か『五つの漢字四行』が『五言絶句』 『五つの漢字八行』が『五言律詩』で、言葉が出なくなる状態=『絶句する』の語源だったと思います。

 

 『松尾芭蕉』も『奥の細道』に『夏草や 兵どもが 夢の跡』と詠んでいます。

 

 『中国』も『日本』も、戦争が終わってみれば何も残らず また季節が巡るって事でしょうか。

 

 今戦争している『プー〇ン』『タリバン指導者』やらその他諸々の馬鹿に言ってやりたい。(言った処でどうにもならないのでしょうけど)

 

 『戦争は次の遺恨を産むだけで、解決出来る事は何も無い』

 

 なんて事を『千秋公園』の土塁を散策していて思いました。

 

 

 桜の樹が多い城内は、春に花見の人出賑わうのでしょうね。

 

 私ゃ『花より団子より酒』です。花見茶屋が在れば『熱燗+おでん盛り合わせ』ですが、花冷えする頃なので『ウイスキー』のクピ呑みが好き。

 

 

 東屋在り、小さな池在りの庭園をゆっくり歩きたかったのですが、新幹線の時間迄に他に幾つか廻る処が在るから少し急ぎます。

 

 

 高台になるので『秋田市街』が一望できるはずなのですが、まだ葉っぱが青々としています。紅葉落葉迄はまだ時間掛かりそう(10月初頭です)

 

 

 商売の関係で『平日休み』の特権ですが、混雑どころか全く人に逢いませんでした。

 

 紅葉の時期になろうものなら人が出るんだろうけど。

 

 さて『英気』を養えた事にしまして。 次です。

 

何と読む?

 

 消失してしまった『裏門』から見下ろすと噴水の池が見えました。

 

 坂道を下り『胡月池』の周りを散策。紅葉にはまだ時期が早かったですが、かなりお金(税金)と手が架かっています。

 

 

 更に歩を進めると又も鳥居が。

 

 『彌高神社』と在りますが何て読むんだ?

 

 

 う~ん墨書きが消えかかっていて由緒由来も読めない。

 

 ググろうにも詠み方が解らないとねぇ。

 

 グーグルマップで現在地からウエブサイトに入って……ってルビが振ってないから読み方が解らない。現地の人には当たり前に読めるんでしょうけど。

 

 

 緑に囲まれた厳かな雰囲気です。

 

 参道の真ん中は『神様』が歩く部分です。「端っこ歩きなさ~い」と某歌手のCMを思い出しちゃいます。

 

 

 んおよそ『荘厳さ』とは似つかわしくない色使い。

 

 五角形の絵馬で『五角=合格』の駄洒落らしく、秋田大学の学生さんがプロデュースしたとか。

 

 よく見ると『Northern-Happinets(ノーザンハピネッツ)』と書かれていてバスケットボールのマークみたい。

 

 となれば『信州ブレブ・ウォーリアーズ』のライバルですな。

 

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佐竹義堯公

 

 勉強不足なのは否めません。秋田出身の有名人、知ってる人は

 

 『柳葉敏郎』『桜田淳子』『佐々木希』……

 

 領主に関しても誰が治めてたっけ?

 

 

 『佐竹義堯(よしたか)公』銅像が在りました。調べてみよう=ググってみよう。

 

 グーグルアプリ起動して、音声入力するだけでテキスト読み上げしてくれます。

 

 でも読み方が解らないと何にもならない。(音声入力のナビもそう)

 

 知りたい時に知りたい事がすぐ解かる。其れも辞書で調べたりなんて苦労も一切無いから覚える必要も無い。

 

 知識が右から左に入れ替わっているだけの気がして、便利なんだけど素直に喜べない。

 

 ましてや『AI=Artifical Intelligence』が全ての生活に関与するとなると『SF映画』が『ホント=nonfiction』になりそうで恐怖なんですけど。

 

 『AI』 発達した人工知能とロボット工学技術の末に生み出された『ヒューマノイド』が『愛』を求めるストーリー。先日観た映画『ペイ・フォワード 可能の王国』(不覚にも涙が滲んでしまった)の主人公、『ハレージョエル・オスメント』さんの代表作です。

 

 他にも『アイ・ロボット』『ブレードランナー』 は従属的な関係から人間の脅威へと変貌していく近未来の話です。

 

 「I'll be back」が有名な『ターミネーター』も考えてみれば『AI』と云っても良いでしょうか。

 

 何でもかんでも『Siri』だの『Alexa』と話しかけるだけで、好きな音楽を掛けてくれたり、エアコンを調整したり。

 

 その内「ラーメンが食べたい」と話し掛けるだけで冷凍庫から食材が電子レンジに運ばれ、加熱調理されて出来立て熱々のラーメンを配膳ロボットがテーブルまで運んでくる。もうすぐそこの話ですね。

 

 肝心の『佐竹義堯』公 1825年生まれの最後の大名(明治政府発令の為)『久保田藩=久保田城』12代藩主。久保田城初代城主は常陸の国城主『佐竹義宜』公。

 

 『久保田城』は1603年に築城が開始されましたが、徳川幕府の指令なのか『高い石垣』や『天守閣』は造られなかったそうです。『国破れて山河在り 城はるにして』じゃ無く最初から自然を残して築城されたみたいな感じ。

 

 詳しくはWikipedia。 

 

 

 其処に書かれていた文面には『戦争の為金属類の提出』による消失と、市民の努力により再興された姿です。

 

 『戦争』を起す人間にもそれなりの理由が在るのかもしれませんが、そんなの認める訳無いだろうが。

 

 『プー〇ン』に言ってやりたい。「此のバカ(プー)チンが~」(武田鉄矢風に)

 

 支離滅裂になってますんで今回は此処まで。(昨日呑み過ぎたかな)

 

久保田城? 秋田城?

 

 秋田駅に近いのが『久保田城跡=千秋公園』 徳川幕府により『常陸』より国替えになった『佐竹氏』が城主となりました。

 

 でもう一つが『秋田城』 築城されたのが『天平5年(733)』ですので時代が違いますね。(詳しくはWikipediaで確認願います)

 

 

 雨に濡れる坂道を登ると『城門』到着。建築物でお城らしき物は此処だけ。

 

 元から天守閣の無かったお城で、平和な徳川時代には此れで充分だったのかも知れません。

 

 

 お城を散策していると鳥居が在りました。

 

 『八幡秋田神社』 本丸跡に建立されています。

 

 

 諸代の城主を神格化して祀っています。

 

 

 『おみくじ』の納め場所に『笠のミニチュア』が。

 

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千秋公園

 

 『秋田県』の旧国名は『出羽国・でわのくに』

 

 平安時代以降鎌倉時代まで、広く東北地方を支配していたのは『奥州藤原氏』、『中尊寺金色堂』を建立した方です。

 

 時代は流れ『徳川』(江戸)の時代、『出羽の国秋田』の地を納めていたのは『久保田藩』、『関ケ原の戦い』以降『徳川幕府』に与した為『外様大名』です。

 

 『外様大名』は江戸から遠く離れており、『参勤交代』の際に莫大な費用が掛かるシステムでした。(藩財政削減政策)

 

 明治時代になり『藩』から『県』に移行した際も、多くの『外様大名』は『藩の中心地』=『県庁所在地』を『県名』とする事を許されませんでしたが『秋田藩』は『秋田県』を名乗っています。何故?

 

 

 『千秋公園』の蓮池。『甘露』とでも言うべき雨露が『蓮の葉』の中に揺れていました。『蓮の花』は初夏の筈。

 

 

 朽ちていく『蓮の葉っぱ』と対照的に、散ったばかりの真っ白な花弁が風に押されて流れて行きました。(この日は10月初頭) もしかして『お釈迦様』が?

 

 てっきり『秋田駅』に近いから『秋田城』かと思っていたら『久保田城?』

 

 別の場所に『秋田城跡』もあるみたいですけど先ずは散策してみます。

 

 

 『久保田城概略図』 水堀に囲まれて侵入経路も複雑そう。

 

 此れが『久保田氏居城』ですか。

 

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秋田

 

 今回の始まりは『東能代駅』からです。

 

 ホームに電車?と思いきや待合室でした。

 

 

 『しらかみ号』は『(新)青森駅=秋田駅』を結ぶリゾート列車で、『奥羽本線』では無く『五所川原駅=東能代』間を、海岸線の『五能線』を走る事で知られています。

 

 その為『海岸線』の景勝が見られる窓側が人気で、『大人の休日倶楽部東部パス』の乗車期間は『アッ!』と言う間に押さえられてしまいます。(JRさん、忖度してないよね)

 

 しかも『展望席』は心無い乗客に独占される始末。不快な思いをする位なら『各駅停車』でゆっくり廻った方が良いかも。

 

 廃業前に『ウェスパ椿山』で宿泊し露天風呂に入りたかったんですけど、翌日のスケジュールから断念。東能代のビジネスホテルに泊まりました。

 

 秋田到着を優先し『男鹿半島』観光を取り入れるか、東能代で宿泊し、翌日『八郎潟』を見て秋田入りするか悩みましたが、『男鹿半島』を廻るにはやはり『レンタカー』を借りるしか無く、今回予算の関係で諦めました。(しかも天気予報は一日中雨)

 

 『東能代』始発の電車に乗り込むと、途中から通学の高校生が乗って来る乗って来る。駅で停まる度にその人数は増えていきます。(席確保出来て良かった) それも学生をモニタリングしてみると制服の種類で10校以上。

 

 丁度『衣替え』で冬服に切り替わる頃だったけど異常気象の為か、夏服のままの生徒も多数いました。在来線は横一列シート。私の左右にはノートを広げて熱心に勉強している女子高生が座っている為、ポケットから小瓶を取り出す事も憚られるます。向かいの窓から景色を見ていましたが、何時しか立っている乗客の為に窓越の景色も見えなくなってしまいました。(そりゃ女子高生が左右に座る訳だ)

 

 途中の『追分駅』で降りる学生が沢山いました。男子学生のバックに『金足農』の文字が見えました。甲子園を沸かせた名門『秋田県立金足農業高校』の在る駅です。ググってみると『佐々木希』さんも一時期在籍していたとか。

 

 秋田駅に到着し駅のコンコースを歩くと『秋田って都会なんだ』って思える位の人。人。人。

 

 私は東京で通勤していた事も在るから朝のラッシュ時間の雑踏は経験していますけど、それにも匹敵する程の混雑ぶりです。しかも6割が学生。2割が通勤者。残り1割が地元民、同じく1割が旅行者って感じ。

 

 しかも旅行者のほとんどが『大人の休日倶楽部』いわゆる『高齢者』(私もですが)で、首から『パス』をぶら下げているグループの多い事。そのグループが電車の待ち時間なのかベンチに座り込んでうつむいている姿は他人ごとでは無く、若い人からは私もその内の一人に観られているのか……。荷物をコインロッカーに預け、傘とカメラを持って『颯爽(此処大事)』と歩き出しました。

 

 小雨の降る中、かなりの学生が西口へと歩いて行きます。そんなに沢山高校在るのか?

 

 グーグルマップで「秋田市内の高校」と音声入力してみると、アララ 沢山在るのね。

 

 しかも県立高校から宗教法人運営やら、通信高校?や、やんちゃを感じる学校も。

 

 しかも女子高生は『秋田美人』ときたもんだ。 良いなぁ。青春真っ盛りだぜ。

 

 私の高校は田舎で駅を共有する他校が無かった為か、他校との『いがみ合い』は在りませんでした。只、電車通学(実際はディーゼル車両)する生徒が上級生に対し、帽子を取り一礼しながら「おはようございます」と大声で車両に乗り込むのを見て以来、電車通学だけはしたくないと思いました。(それが高校に入学し柔道部に入ったら、もっと悲惨な上下関係に巻き込まれていくんですけど)

 

 きっと車両内に充満していた青春の匂いにあてられたかな。

 

 構内の立ち食い蕎麦で小腹を満たし、まだ町が動き出す前に付近を散策です。

 

日没

 

 お金の無い若い頃、貧乏旅行を繰り返していましたが、まるっきり知らない街で今夜の宿の当てが無い。非常に心細く、時に心折れそうになりました。

 

 夏場、男なら最悪『野宿』も可能なので其れ程気になりませんけど、冬なんぞに旅した物なら……。

 

 それも『ヒッチハイク』やら『青春18きっぷ』なんかの移動手段と、『ユースホステル』の宿泊。一応は『ユースガイド』などの本を持参して泊まれそうな『ユース』を探すのですけど、移動に時間がかかり予定していた町まで辿り着けなかったりすると急遽宿を探さなきゃいけない。(当時は予約なしでも空きさえあれば泊めてくれた)

 

 昔は経営が『お寺』の『ユース』なども多く『1泊2食¥1200』で泊れた記憶が在ります。(現在は宿坊として人気が在り¥10000でも難しい)

 

 夕闇迫る駅前の公衆電話で近い処の『ユース』に電話するも「満員です」と断られ続け、やっと探し出した『ユースホステル』までバスで移動するのですが、そのバスを待つ間の心細い事。

 

 食事に行くのか笑顔の家族連れが目の前を通り過ぎた時『マッチ売りの少女』が頭を過りました。周りが幸せそうなら尚の事自分の辛さが際立ってしまう。

 

 旭川の女子中学生いじめ事件の被害者は凍てつく真冬、凍死するまで公園で震えていたなんてニュースを読むと『独りぼっち』って辛いだろうなぁ。と思ってしまう。

 

 TVではしきりに『独りキャンプ』なんてのを持て囃してるけど、それは帰る場所が確保されているからであり、不便を楽しんでいられる余裕が在るからできる事。

 

 そもそも『ソロツーリング派』の私は『山』行きも単独行動ですけど、そりゃ仲間と行った方が絶対楽しいって。

 

 

 雨交じりの空でしたが、日没まじかに水平線に沈む夕日が見えてきました。

 

 車内アナウンスが流れ「本日はご乗車有り難うございます。只今日本海に沈む夕日が綺麗に車窓から見えています。暫くの間速度を落として走行しますので、展望席など譲り合ってのご利用お願いいたします……」 っても誰も席どきゃしない。

 

 私の右隣は若い女性の一人旅でカメラを向け辛いし。

 

 結局降車ドアの窓から撮影しました。

 

 ♪ 絞ったばかりの 夕日の赤が 水平線から 漏れている

 

 と口ずさみながら。

 

 余談ですが『夕日』と云えば思い出すのが『われら青春』のオープニングです。

 

 『いずみたくシンガーズ(後の青い三角定規)』の『帰らざる日の為に』が流れ出すと真っ赤夕日のアップの中に『われら青春!』と文字が浮かび上がる。(さっきYouTubeで観たら真っ赤な空に白色の太陽が燃えてました)

 

 ♪ 涙は心の汗だ たっぷり流してみようよ 二度と戻らない 今日の為に

 

 『青い三角定規』好きだったなぁ。

 

千畳敷

 

 この頃の『リゾート列車』は『しらかみ号』に限らず、観光ポイントの駅で短時間停車し、下車してプチ観光出来たり、風光明媚な撮影スポットで撮影し易いように速度を落として走行したりと色々と工夫されています。

 

 『リゾート列車』自体が結構なお値段したりするので、『JR大人の休日倶楽部』以外で乗車した事ありませんが。

 

 考えてみたら地元のリゾート列車『JR小海線・1375』も『しなの鉄道・ろくもん』も乗ってません。だってお値段……しかも『土日祭日』のみ運行じゃ、商売人は中々乗車できそうにありません。

 

 で年に1~2回は、研修を兼ねて『旅行』に出掛けますが、昨今の『宿泊料金値上げ』にビビッて『ビジネスホテル素泊まり』しか利用していません。それでも平気で¥10000~/1泊とかする所在りますし。

 

 私がホテル検索の際、キーワードは『格安 素泊まり』です。

 

 朝食付きプランは出発時間が限られてしまうので苦手。夕飯はホテル近くの居酒屋が多いです。(呑み過ぎて結局割高だったりもしますけど)

 

 

 車内アナウンスで「間もなく千畳敷駅です。千畳敷ではおよそ15分間停車します……」

 

 ふと閃きました。『皆この駅で降りだろうから、いの一番に列車に戻れば展望席に座れるぞ』

 

 

 『千畳敷』と名の付く所は日本国内に数ヶ所在ります。

 

 長野県にも『宝剣岳』麓に『千畳敷カール』が在ります。晴れた初夏など目に痛い程の『空の青』と『芽吹いた緑』山肌には『白い残雪』残り、山人じゃ無くても一遍で山好きになっちゃう。

 

 又、和歌山県白浜の『千畳敷』は海に突き出した『岩棚』が荒波に削られ広い一枚岩みたいになっています。

 

 さてさて『秋田千畳敷』は如何に。

 

 

 人と比べてみるとその高さが解ります。

 

 

 『岩場』と云うより『砂浜』が目立っちゃって……ひょっとして満潮時はこんなもの?それとも震災の影響でしょうか。靴を濡らさないと岩場に行けない。

 

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リゾートしらかみ

 

 『金木駅』で乗り込んだ列車は、来る時に乗った「走れメロス号』でした。

 

 きっと終点の『津軽中里駅』で折り返し、点検・待機してたのでしょう。

 

 南へと向かって走る列車からは『岩木山』が正面に大きく構えて見える筈ですが、陣取った先頭の窓には大きな雨粒が当たり、ワイパーが忙しく往復しています。

 

 

 五所川原駅のホームから見える鉄骨剥き出しの建物。祭りの時の『立佞武多一時保管庫』でした。此処に立ち並んだ『立佞武多』も見ものでしょうね。

 

 

 そうこうする内に『リゾート列車・しらかみ3号』が入構してきました。

 

 私の切符は『しらかみ3号・五号車・〇列B席』 秋田に向かって窓側がÅ席ですので通路側の席です。

 

 JRの指定席予約は1ヶ月前の朝10:00から一斉に受付が始まります。

 

 私がインターネットから申し込んだのは一か月前の10:05。その時点でもう窓際の席は予約でいっぱい。仕方なく空いているB席を予約したのですが……これ絶対に旅行会社の陰謀が関与していないよね。某TV会社だってかなりのバッシングに責任者交代要求が起きている時代、『実は〇〇でした』なんて事が暴露された暁には経営責任問われますよ。

 

 もう一度聞きますけど『JRと旅行代理店』予約に関してグルじゃないよね。

 

 生憎と隣の席はうら若き女性の一人旅らしく、挨拶したものの何か話辛いし車窓の方を向き辛い。当の本人は音楽を聴きながら雑誌を読んで偶に外の景色を眺める位。(なら何故窓際予約した?)

 

 展望席も備えたリゾート列車なのですが、「独占する事無く大勢のお客様に譲り合ってお座りください」の車内アナウンスなんてなんのその。ず~っと座り続けていて、知り合い同士が席を変わる始末。それを独占って云うんですけど!

 

 群れると怖いもの無しに変貌する中高年の皆さん。(私も含めて)『恥』って事知ってます?『旅の端は掻き捨て』なんて今は流行りませんよ。

 

 車窓をみると女性の方を向かなければならず、かといって『展望席』には座れない。

 

 トホホな状態で途中下車の『千畳敷駅』到着です。

 

 停止前から下車の用意をし、いの一番に『千畳敷海岸』まで行って写真を撮り、いの一番に列車に戻って『展望席』に行ってみると……荷物が置かれて席確保してんじゃん。

 

 車掌も見て見ぬ振りなのかな。

 

 折角のリゾート列車も台無し気分で心が折れ、ポケット瓶を取り出してグビグビっと飲みましたとさ。

 

 おまけ。

 

 

 ストーブ列車の絵馬って……

 

 ストーブ列車に乗車するだけで¥500の『ストーブ列車特別乗車券』が要るのに?

 

 冬、行商のお婆ちゃんがストーブ列車内でするめを焼いてるシーンがニュースで流れますけど、¥500払ってまで地元のお婆ちゃんは乗らないそうです。(やらせ問題発覚?)

 

 次回『千畳敷』

 

津軽三味線

 

 有名な処では『津軽じょんがら節』でしょうか。

 

 昔、正月番組と云えば『スターかくし芸大会』なる物が在りまして、忙しいであろう『売れっ子芸能人』が練習に練習を重ね習得したであろう『かくし芸』(隠してないけど)を披露する特番が在りました。

 

 誰でも短時間で習得できる『テーブルクロス引き』なんて簡単な物から、白々しく失敗してみせる『手品』なんぞも在りました。

 

 その中でも流石!と思ったのが『故・西城秀樹』さんの『カースタント・片輪走行』と『加藤茶』さんの『津軽三味線』でした。

 

 『カースタント』の方は、何十回とひっくり返りながらも練習を積み重ねたのでしょう、なんとか成功した部分を編集して放送されました。

 

 『津軽三味線』は『加藤茶』さんが『津軽じょんがら節』を演奏、大汗をかきながら真剣に演奏する姿に、いつもの『お笑いスター』の陰は微塵も無く、『カッコイイ』とさえ思いました。

 

 『津軽三味線』の実演時間まじかになり、大ホールに案内されましたが、200席程在るホールに客は15人程。なるべくステージ傍に陣取りまして。

 

 

 登場したのは女性奏者。でも手にしている三味線は『太棹』 そして力強い演奏が始まりました。途中で童謡なども交えあっという間の20分でした。

 

 『三味線』は『猫の皮』が使われているとばかり思っていましたが力強く弾く『太棹』は『犬の皮』だそうです。

 

 勿論、動物保護の観点から、海外からの輸入(〇国の食用?)だそうですが、会場内の女性から「え~~~っ」と声が上がっていました。(猫なら良いんかい)

 

 『沖縄』には蛇の皮を使った『蛇味線』が在りますし、そもそも其の土地の文化です。

 

 『ワシントン条約』に抵触しているなら兎も角、他人を不快にするような声は慎んでほしかったな。

 

 終演後、急いで駅に向かいました。

 

津軽三味線会館

 

 『金木町』では『斜陽館』と『津軽三味線会館』の『共通入場券¥1000』を購入しましたので、お次は『津軽三味線会館』へ。ホント目と鼻の先です。

 

 

 共通券を見せて入場しようとすると『津軽三味線実演ショー』迄まだ40分程待つみたい。受付のお姉さんも心得たもので、「荷物預かりますから、食事でもしてきたら」

 

 お言葉に甘えまして、重い荷物から解放され、カメラと傘を持って此れ又隣の『観光物産館」へ。

 

 

 普通のお土産売り場ですが、唯一『尊富士』のグッズが売られていました。(許可なく店内撮影はしません。許可されるでしょうけど)

 

 『尊富士』の生家はまだまだ先の『十三湖』に近い処だそうですが、優勝パレードが『五所川原駅前』と『金木町』で行われたとか。

 

 現在、私の『推し』です。

 

 食堂を探していて昭和の香り漂う『外崎菓子店』を発見。

 

 販売しているのは『バナナボート』のみ。

 

 コンビニ等でも売っていますが此処は試しに一つだけ購入します。

 

 一個¥250 その大きさにビックリ。手に持つとズシリと重量を感じます。

 

 しかもすぐ食べるから袋はいいです。と告げたのに、「今日は暖かいから」と保冷剤迄入れてくれました。

 

 地方の小さな菓子店(家もですが)が生き延びていくのは『薄利多売』と『売れ筋商品』のみの販売にするしか在りません。

 

 『金木』に行く方。『バナナボート』お勧めですよ。

 

 取り敢えず『シジミラーメン』を食べる予定でしたのでデザートに取っておこう。

 

 この『シジミラーメン』も正解。店内では『津軽三味線』の実演待ちのお客さんでいっぱいでした。私食べるの早いですからラーメンが来てから3分後には完食。余裕で実演に間に合いました。

 

 『バナナボート』の写真も撮ったのですが何故かデータから消えてる……

 

 『金木町・外崎菓子店』で検索どうぞ。

 

斜陽館

 

 『太宰治』の『斜陽』を読んだのは高校生の時だっただろうか。

 

 正直何~ンも覚えていませんでした。であらすじをググってみると。

 

 没落した貴族のスキャンダル。不倫やら薬中やらの内容で『斜陽』と云うより完全に真っ暗な『闇』

 

 なのに生家を『斜陽館』と名付けた真意が解らない。『人間失格館』や『女生徒館』、『ヴィヨンの妻館』とか名付けるのは違うお店になっちゃいそう?

 

 

 『土蔵』へと続く廊下には毛氈が敷かれていましたが、本来は庭の離れに在るべき物。

 

 違和感を感じながらも、寒さ厳しい場所での展示に、来訪者の為に後から増築したであろう事を感じました。つまりは優しさ。

 

 中は資料館になっており、原稿の実物や使用したペンなどが並んでいました。

 

 

 

 庭が素敵。我が家に庭が無いからなのか、憧れです。

 

 雨や雪解けの雫を受け止める『玉砂利』が良いなぁ。

 

 でも庭が在れば在ったで、雑草やら剪定で大変そう。

 

 庭師が手入れする庭園で、池の錦鯉に餌をやる。まぁ政治家にでもなったら考えますけど。

 

 

 二階へと上がる階段が素敵。

 

 

 何じゃ此の凝りようは……個人住宅ですよ。写真、興奮して手ブレしてますね。

 

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太宰治

 

 中学生の時、初めて『太宰治』を読みましたが余り好印象は持てませんでした。

 

 『走れメロス』を読んだのは教科書だったかな?

 

 その後も『人間失格』やら『斜陽』やら手当たり次第に読みましたが、私的にはイマイチのめり込む程の事は無かった様に思います。

 

 それでも『金木』に来たなら『斜陽館』は外せないと思い、彼の地に足を運んでみました。

 

 

 『斜陽館』迄の道すがら、『旧島津家新座敷』と銘打たれた看板が出ていました。

 

 

 この家に暮らし、数々の作品を書き上げたとか。でもそれだけで入場料¥500

 

 庭から見る限り普通の民家。この後『斜陽館』に行くからパス。

 

 

 『斜陽館』は思った以上に大きくて立派でした。

 

 此れが『太宰治=津島修治』の実家です。父は津軽の豪商で在ると共に『貴族院議員』その権力と資金力は相当なものだったのでしょう。

 

 そうか『太宰文学』に今一ピンと来なかったのは、彼が『ブルジョワ階級』の出身だったから。女性と問題を起しても、自殺未遂を繰り返しても金の力で何とかしちゃったのか……

 

 明治時代に活躍した作家の多くは『私小説』として自身の体験を書きしたためる作品が多いようですが、温泉に長逗留したり(有島武郎=城崎にて)とか、秤屋の小僧に鱈腹寿司を奢る(志賀直哉=小僧の神様)などのように『富裕層』の題材が多いように感じていました。

 

 それも其の筈、若い頃を東京の大学で学ぶには親に資金力が無ければ到底無理な話です。親が『権力者』や『資産家』で無ければ仕送りを貰って学生生活をエンジョイなんて到底できる筈在りません。プロレタリアートの私とは格差を感じる(=ひがみ)から共感を呼べないのかも。

 

 ※此処で入り口前を独占し長時間記念撮影をして他の人の通行を妨げていた中年女性グループ。どけ! 邪魔だ‼ 気を使えないなら来るな(怒)

 

 

 『津軽三味線会館』との共通券 大人¥1000

 

 受付の在る土間だけで、もう我が家より広い……

 

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金木

 

 金木駅で『走れメロス号』から降りる時、駅員さんが運転手に『棒・ロッド』を手渡していました。

 

 何だろうと尋ねると『通行許可証』だとの事。

 

 通常、単線区間を走行する時、衝突事故を防ぐ為『通行許可証』を持った車両しか通行出来ません。

 

 『皮ケース(キャリア)』に入った丸い『タブレット』知っていましたが『ロッド』は初めて見たかな。

 

 

 駅に一時停止しないで通過する時も、ホームの一番手前で『螺旋状』の『キャリアケース』に投げ込むシーンは『鉄道員・ポッポや』で観たのかな。

 

 その後も走り続けながら、ホームの端に立つ駅長から次の区間の『通行証』を手渡されます。

 

 

 『金木駅ホーム』では停車した為、次の区間の通行証の『ロッド』を窓越しに手渡していました。

 

 時刻表を確認し、五所川原行きをチェック。散策のタイムリミット2時間半です。

 

 

 「尊富士 青森県出身 伊勢ヶ嶽部屋」 

 

 大相撲の関取土俵入りで、良く通る声の場内アナウンスが流れます。

 

 拍子木が「チョ~ン」と入り、次々とテンポよく読み上げていく場内アナウンスには原稿が無く、力士の顔を見ながら即興でアナウンスするのだとか。

 

 力士の四股名・出身地・相撲部屋を全て覚えてるんですから大したものです。(あんちょこ位見てるかも知れませんが)

 

 新入幕力士として実に110年振りに優勝した『尊富士』は相撲界に活気を呼び覚ましました。

 

 その『尊富士』の出身地が『五所川原市』と発表されていますが、正確には『五所川原市金木』です。

 

 新入幕優勝や三賞獲得など大物の登場に『金木』の町は『大フィーバー』(かなり表現古い?)かと思いきや、思った程街中で『尊富士』の名前を見掛けませんでした。

 

 2024年3月に優勝後、怪我をしてしまい(まさかしごきや虐めに在ったとか?)欠場が続いた為、街では静観していたそうです。観光物産館にひっそりと『手書きのポスター』が在った位でした。

 

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津軽鉄道 part2

 

 『五所川原駅』には『JR』と『津軽鉄道』が在り、駅舎は別ですが、改札口を抜けると同じ構内に出ます。

 

 見送りなどの為、構内に入るなら『入場券』が必要になりますが、料金はどちらも同じ¥180です。

 

 

 『五所川原駅』は『JR五能線』が1・2番線。少し離れて『津軽鉄道ホーム』が在ります。

 

 跨線橋を渡っていると、『走れメロス号』が見えるじゃありませんか。

 

 

 ホームにはかなりの人数。えっ座れないかも。

 

 と思ったら何やらTVカメラが入って何やら撮影しています。

 

 取り敢えず席を確保し、カメラを持って人だかりの方へ行ってみますと……

 

 『走れメロス号』の車内には沿線の駅舎の絵が掲げられていましたが、偶々その車両の出発式が行われている最中で在り、絵の作者がテープカット及び挨拶をしていました。

 

 

 展示されていた沿線の駅。どうしてもガラスに反射光が入ってしまう。

 

 

 最後尾の車掌室の横は何故か本棚(私物?)になっていました。

 

 後で聞いたら自由にお読みくださいとの事。でも車窓から眺めるのが忙しくて本は読まないだろうなぁ(乗車時間が短いから読み始めてもねぇ)

 

 でも『もてなしたい気持ち』は伝わりました。

 

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津軽鉄道

 

 冬になると必ず一度はTVニュースで目にする『ストーブ列車』

 

 客車内のストーブで『するめ』を焼いて、一杯やりながら鉄道旅ができるあれ。

 

 それが『五所川原市』に本社を置く『津軽鉄道株式会社』です。

 

 

 奥に見えるタクシーの停まっている建物は『JR五所川原駅』

 

 『津軽鉄道株式会社』の看板の所を曲がると

 

 

 うーん。ナイスですね~。 昭和を感じる外観。外壁塗装の塗り直しなんてしちゃダメ。

 

 煙突で如何にもストーブ焚きますってのが良いんです。

 

 ひよっとして2階の窓は木製ですか!

 

 

 看板『津軽五所川原駅』の下の『サッシの引き戸』を開けると、正面には売店と云うよりお土産売り場。『津軽鉄道』のプレミアムグッズがこれでもかとばかりに並んでいます。

 

 『バッジ』や『ステッカー』『カバン』など『津軽鉄道』の名の入った『此処でしか買えない』を謳った商品がズラリ。

 

 想像ですが『地方鉄道』の生き残りを掛けた営業努力の賜物です。

 

 協力したいけど特に欲しい物無いしなぁ

 

 

 時刻表を確認。手書きの時刻表って何年前からダイヤ改正して無いのだろう。

 

 それとも『ダイヤ改正』の度にお金を掛けずに即変更できるように手書き?

 

 1時間に一本は乗り遅れたら大変。って我らが『JR小海線』でも大して変わらないか。

 

 交通弱者(高齢者の通院や高校生の通学)の為に無くてはならない公共交通機関です。

 

 頑張れー『津軽鉄道』

 

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立佞武多 part3

 

 受付を済ませてホールに入って度肝をぬかれた後、エレベーターで4階へ上がります。

 

 建物の壁沿いに、螺旋状に設えられたスロープをグルグル廻りながら降りてくる仕組みです。

 

 ふと気になるのが『耐震構造』 『立佞武多』が3基(何と数えるんだろう)建ち並ぶ広いホールを取り囲むように壁があるだけで、構造上は背の高い『体育館』の様なもの。

 

 『角』の無い、『R』の多い『円柱状構造』(と云うのかは分かりませんが、『六本木ヒルズ』などに多用されています)なので『揺れ』には強い耐震性を持っているのか知れません。

 

 其処の1Fフロアーに展示されている『立佞武多』は固定されている様には見えませんが、重心バランスの関係で倒れにくいのかも。

 

 でも昨今の『防災事情』で耐震構造にするのか、2025年から改修工事に入るそうです。

 

 おなじ建物の一角で新しい『立佞武多』を製作するのですが、途中で改修工事に差し掛かる為、今年の新作は造らないのだそうです。

 

 

 卓越した絵心が無いと。

 

 

 一度は消えかけた『立佞武多』ですが、この『設計図』が発見されたおかげで再興出来ました。

 

 

 彩色前の『張りぼて』ですが、『モノクロ』も素敵。

 

 

 その他の『五所川原の祭り』にまつわる展示コーナーも。

 

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立佞武多館 part2

 

 回転等が警報音と共に明滅し、ミサトさんの号令。

 

 「エヴァンゲリオン 発進」 じゃ無いですけど

 

 

 『橋が開く』とはこういう事。

 

 壁のパネルは開閉式の扉で、展示されていた『立佞武多』が町内を練り歩く為に人力で外に出されます。

 

 それにしてもこの写真、どうやって撮影したんだろう?(やっぱりドローン撮影かな)

 

 

 ねっ。実際に観てみたいと思いません?

 

 因みに『五所川原・立佞武多祭り』 2025年は8月2日~7日開催らしいのですが、今年この建物がリニューアル工事する事になり、今年度の『新作の立佞武多』は製作されないそうです。(だから逆に穴場かも)

 

 

 この建物右側が開いて『立佞武多』が登場します。ワクワクしますよね。

 

 

 街中は御覧の通り。『立佞武多』の通る道には『電線』が在りません。

 

 それだけでこうも空が綺麗に見えるのか。(曇ってますけど)

 

 その他通路にはミニチュアの

 

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立佞武多館

 

 「青森を旅するなら絶対行った方が良い」と知人に云われ,やって来ました『五所川原・立佞武多館』

 

 私の前には女性が一人。開館時間を待っていました。(あまり人気無いのかな…)

 

 受付で料金を支払う時、『大人の休日倶楽部会員証』を提示すると、解体した『立佞武多』の和紙で作った『栞』がプレゼントされました。

 

 私、貰えるものは取り敢えず有難く貰う主義。

 

 『入場券』や『パンフレット』なども全て持ち帰ります。それも『折れ目』や『しわ』を付けたくないので『プラケース』を持ち歩きます。(クリアファイルは荷物の中でクシャクシャになっちゃう)

 

 で一歩ホールに入ると。

 

 

 ド迫力。

 

 

 圧巻。

 

 写真じゃ伝わらないだろうなぁ。

 

 ホントに凄い物を観た時、無口になりません?

 

 上を見上げて…

 

 

 一階フロアーで見上げた後、エレベーターで建物最上階へ上がります。確か4階だったかな。

 

 

 今度は上から『立佞武多』を見下ろす仕組みです。

 

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マルコ―センター

 

 バスの到着時間がまだ五所川原の町が動き出す前。

 

 しかも雨がパラつきだして来た。

 

 朝食はコンビニおにぎりかなと思っていたら、五所川原駅で『マルコーセンター』を勧められました。

 

 丁度此れから行く『立佞武多館』に隣接しているらしいので、重い荷物をコインロッカーに預け、傘をさして歩き出しました。

 

 『マルコー』は〇に考の字、そもそもは生鮮食料品店だったみたいです。

 

 店内(センター)内には『郷土土産』『ラーメン店』『八百屋』『魚屋』が数店入っており、良く在る『市場食堂』の体を成しています。

 

 

 漁港の市場食堂が海の傍に在るはわかりますが、『五所川原』はかなり内陸デス。

 

 でも『立佞武多館』に来館する人達が朝食に困らない様に、朝から営業してくれているみたいです。

 

 『魚屋』の店先に並ぶ『鮮魚』を選んで購入し、食堂でお好みで調理してもらう『漁業組合食堂』スタイルとは違い、好みの刺身を購入し、別売りご飯にのせて食べるスタイルです。

 

 『那珂湊』や『三浦岬港』などでは店頭に並ぶ新鮮な魚を選び、食堂のおばちゃんに渡すと『刺身』や『焼き魚』『煮魚』とお好みに調理(有料)してくれて、他に『ご飯&みそ汁セット』を購入すると立派な定食の出来上がり。

 

 唯一難点があるとすれば、あれもこれもと欲をかくと『豪華=結構お高くなっちゃう』事ですか。

 

 

 私ゃ質素に

 

 

 ¥500の『刺身盛り合わせ』と¥200のご飯セット。この後『あら汁』が届きました。

 

 ご飯の量が可愛すぎて……。(大盛牛丼が恋しい)

 

 『八戸』の『市場食堂』では『ミズダコ』の刺身を肴に朝から日本酒が進んでしまい、車窓を楽しむ以前に寝てしまった苦い経験が在りますんで今回は程々に。

 

 『エンガワ』をつまみに『ワンカップ』だけに留めておきましょうね。(お土産コーナーに地酒を置くから……。)

 

 『立佞武多館』の開館時間になりました。移動です。

 

五所川原

 

 『青森』と云えば『ねぷた』 実際のお祭りは観た事無いですけど、以前青森駅前の『ワ・ラッセ』を見学した事があります。

 

 体育館程も有りそうな広さの建物に、巨大な『佞武多』が展示されていました。

 

 薄暗い中に光り輝く巨大な『佞武多』に圧倒。で今回は『立佞武多』を観たいなと『五所川原』へ向かう事にしました。

 

 今回、青森へは『大人の休日倶楽部』で『新幹線』を利用しましたが、『竜飛岬』や『恐山』へは『レンタカー』を利用しました。

 

 ご存じ『大人の休日倶楽部』は『JR東日本管内』ならば『新幹線』を含み鉄道乗り放題。しかも『三陸鉄道』や『五能線・リゾート列車』も付随しています。そりゃ乗らなきゃ損。でも案外『青森』って鉄道で行くのに不便な場所が在りまして……。

 

 今回も『青森駅』から『五所川原』へ行くのにJRだと偉い遠回りと時間のロス。

 

 で『青森~五所川原』迄を『路線バス』で移動しました。

 

 TV番組の『ローカルバスの旅』宜しく『路線図』を調べると『青森市・新町2丁目』から『五所川原』行きの『広南バス』が出ています。

 

 その為に『新町』周辺の格安の宿を予約したのですが、『レンタカー営業所』も近く、『夜の街』も歩いて直ぐ。大正解の青森泊でした。(えっ只居酒屋で呑んだだけですが)

 

 当日は運転する予定も無かったので、朝から『ウィスキー・ポケット瓶』のキャップを開けまして。

 

 『バス』が到着すると車内に乗客はおらず乗り込んだのも私独りだけ。一番前の席で前方を観ながらと思ったのですが、『前乗り・前降り』の『ワンマンバス』だった為、左側の最前部は『シルバーシート』になっていました。尚且つ『荷物置き場』らしき台が運転席の後ろに在ったので、荷物を置いてその後ろに座ったのですが前方視界はほぼ無し。その後の乗客数も数人しかいなかったので後部座席の方が良かったかな。

 

 で当然の様に写真を撮る事も無く『五所川原』到着です。

 

 

 バス車内で唯一撮影したのが『非常ブレーキ』?

 運転手に万が一があった場合、このボタンを操作する事でブレーキが掛るみたいです。

 

 過去何度かあったバスの暴走事故を防ぐために開発されたシステムでしょうか。

 

 バスの車内を観てみると、『防犯カメラ』が数台。しかも『運転席』を撮影するカメラまで在ります。

 

 『料金表』が『液晶表示』 昔みたいに『ロールアップ』して更新していくのは時代遅れみたい。

 

 『GPS』を利用して『位置情報』から『次の停留所』を案内するみたいです。運転手のうっかりミスの心配も無く、運転に集中できる良いシステムだと思います。

 

 『五所川原』市内に入り商業地を走っていると、女性アナウンスの声で次は『立佞武多館』と案内がありましたが『立佞武多館』の開館時間迄はまだ少しあるので終点の『五所川原駅前』迄乗り過ごします。

 

 駅に置かれているパンフなどで情報を仕入れて外に出ると『雨』

 

 天気予報では『降水確率50%』でしたのでまぁしょうがないか。傘を広げて歩き出します。

 

 

 『五所川原駅待合室』の一角に在った『電車運転席』

 

 『懐中時計』を入れる『穴』がナイスです。

 

 

 壁には『伝言板』 でも『チョーク&黒板消し』が無い処をみるとイミテーションです。

 

 

 何故か一角は『昭和レトロ』なスペースになっていました。

 

 立ち入り禁止じゃ無いから『お弁当』広げるのも可能?

 

 『ブラウン管テレビ』や『ラジオ付き置時計』 底に重りの入った安定感抜群の『三枚羽根扇風機』 絶対其処には置かない『ダイアル式電話』『ポップアップ式トースター』は此の色で良いの? 『魔法瓶』なんて知らないかも……。

 

 ふと思ったのは、国民的TVアニメ『サザ〇さん』の世界じゃん。

 

 『エアコン』の利いた部屋で『大型液晶テレビ』を見ながら『アイランド式キッチン』でテーブルを囲む。『サザ〇さん』じゃ無いな。

 

チョコQ

 

 プルバックするとゼンマイが巻かれ、ビュ~ンと走る『ミニカー』では在りません。

 

 『久助』と云う言葉が在りますが、『出来損ない』とか『割れ』の『せんべい』の事です。

 

 『青森』では『鍋』の具材にもする『南部せんべい』

 

 東北なのに何で『南部』って云うの?

 

 青森南東部~岩手県の北部地帯を納めていたのが『南部藩』です。

 

 特産品として『南部鉄器』等にも名前が残っていますが、『みちのく』の『南部』の意味合いもあるみたいです。

 

 米の代用食として、小麦粉やそば粉を『南部鉄』で焼いた『南部せんべい』 乾燥させて保存食にしたり、鍋に入れて主食にもしました。

 

 で『チョコQ』 チョコレートを掛けた『九助』の事で、青森のお土産として昨今人気が出ています。

 

 しかし『転売ヤ―』のお陰で入手困難な状態が続き、直売所で並ぶか『フリマサイト』で高値で購入するか在りませんでした。

 

 ホントせこい『転売ヤ―』の奴らめ。 でも『大手商社』なんぞも『転売』で利ザヤを稼いでるんだけどね。『転売ヤー』はその内『税務署』に目を付けられるんだろうけどさ。

 

 

 『チョコQ』の製造販売を手掛ける『しんぼり第二工場』

 

 態々『せんべい』買う為に片道120㌔も走っち待ったぜぃ。

 

 

 工場に到着した時、丁度自販機への補充作業が終わった処で、『よし。いっぱい買える』と思ったら『転売禁止の為、一人二袋まで』と明記されています。

 

 補充のおじさんも見てるし、取り敢えず『二袋』だけ買って一旦近くのコンビニへ。又戻って来てもう『二袋』買いました。

 

 『チョコQ』には『チョコ』と『ホワイトチョコ』の二種類があり、両方とも二袋ゲット。

 

 

 補充の終わったばかりだと云うのにもう品切れのボタンも在りました。

 

 気安く『お土産』なんて引き受けるんじゃ無かったぜ。

 

 この後レンタカーを返しに青森まで戻らなきゃ。

 

 ガソリン代の方が『転売ヤ―』の出品より高くついちゃった。

 

 ホント『転売ヤ―』の奴らめ。

 

核燃料

 

 『六ヶ所村』を訪れてみたいと思ったのは『使用済み核燃料・地下埋設施設』が在るからです。

 

 正式には『低レベル放射性廃棄物埋設センター』と云うらしく『日本原燃・核燃料サイクル施設』

 

 『リサイクル』じゃないの? でググってみますと。

 

 『サイクル』元の製品をそのまま生かした価値を見い出す。う~ん『サイクル=再使用』で良いんじゃないの?

 

 『アップサイクル』元の製品に手を加え、付加価値・商品価値を付けくわえた製品に生まれ変わらせます。例えば市処分する『畳』を分解し『畳のヘリ』を縫い合わせて『バッグ』として売り出す。

 

 『リサイクル』は廃棄物を一度資源に戻し、それを再利用して新しい製品を造り出す。

 

 他に『一升瓶』は回収後に洗浄・殺菌して『再使用=リユース』です。

 

 『ペットボトル』は回収後、溶かして『繊維』に生まれ変わり『衣類』をなどに生まれ変わります。 牛乳パックからトイレットペーパーなどを造るのも『リサイクル』

 

 『核燃料』を『サイクル』とは……此処からかなり脱線しますので御覚悟。

 

 『核爆弾』にも使用された『放射性物質』は『ウラン・原子番号92』

 

 天然の『ウラン』には核分裂し易い『ウラン235』とし難い『ウラン238』が存在します。自然界に於いて『ウラン235』の含有率は0.7%と非常少なく安定した状態ですが、『ウラン235』を『遠心分離』などで3%以上に濃縮させると『核分裂』による『高エネルギー』を取り出すことが出来ます。

 

 この『ウラン235濃縮燃料』をペレット状にし『パイプ』の中に並べて入れて『核燃料』とします。

 

 『ウラン235』の『原子核』は『陽子数=92』『中性子数=143』合わせて『235個』の電子から構成されており、『陽子の数』と『電子の数』は等しくなります(つり合った状態)。この同じ『元素番号』を持つ物質でも『『中性子数』の異なる物質が存在し、此れを『同位元素=アイソトープ』と呼びますが性質はまるっきり異なった物質になります。

 

 『濃縮ウラン235』に『中性子』をぶつけると『ウラン原子核』は二つに分裂します。(ここ大事)

 

 この時発生する大量の熱を利用して水を沸騰させ、『蒸気タービン』を回して発電するのが『原子力発電』です。

 

 更に分裂した『ウラン原子核』からは『中性子』が飛び出し、其の『中性子』が『ウラン原子核』にぶつかる事で『連鎖的核反応』が起きます。此れが『核分裂型原子力発電』

 

 しかし、一度に大量の核反応が起きてしまうと、発生するエネルギーが巨大になり過ぎてしまい、最悪『爆発』してしまう(核爆弾)ので、必要量だけ核反応させる『制御』が必要になります。此れをコントロールするのがナント『水』 『水』は中性子の衝突を妨げる働きが在るそうです。

 

 『核燃料』を『制御棒』を使って『水』から引き出す事で必要なエネルギー反応を持続させることを『臨界』と云います。

 

 人間が『核』を平和利用するかどうかは、この『臨界』で利用するか、『爆発』で利用するかの違いです。

 

 ※個人的見解を含みます。間違ってたらスミマセン。正しく知りたい方はググってください。

 

 

 此れが実寸大の『燃料棒』 そして

 

 

 『PRセンター』ですのであくまでイミテーションですが、水の中に『燃料棒』が並んでいます。

 

 

 アームにより引き抜かれた『燃料棒』は粉砕機に掛けられ『プルトニウム』(自然界には存在しない)が取り出されます。この『プルトニウム』と『ウラン238』などを混合して造られるのが『MOX燃料=mixed oxide fuel』で、この『MOX燃料』を使って発電する事を『プレサーマル』と云います。

 

 海外に目を向けますと『フランス』では『発電』の69%が『原子力発電』ですし『ウクライナ』『ベルギー』なども50%を超えています。『アメリカ』や資源国の『ロシア』でさえ20%以上を原子力発電に頼っています。そして『化石燃料』の出す『二酸化炭素排出量削減』の為、今後ますます『原子力発電』は増えるでしょう。

 

 『再生可能エネルギー』が注目され『風力発電』の『巨大プロペラ群』をあちこちで見かけますが、実は耐用年数が在り、尚且つ定期的メンテナンスが欠かせません。更には『風』が吹かなきゃどうにもならない。大抵は大都市圏から遠く離れた山の上などに在り、『送電線ロス』も馬鹿にならないとか。

 

 次いで『太陽光発電』 『メガソーラー』と呼ばれ、『ゴルフ場跡地』などのような広大な面積にズラリと『太陽光発電パネル』が並べられています。しかし森林伐採の跡地など『山野』を切り開いた場所に造られた『メガソーラー発電所』の場合は、降った『雨・雪』が樹木が創り出した枝葉や落ち葉の上に落ち、ゆっくり地面に浸み込むのに対し、パネルの上に落ちた『雨』は一挙に流れ、地面に浸み込まなくなります。各地で『地下水不足』が発生しているのは此れが原因かも知れません。

 

 更には本来樹木が光合成の為に吸収していた『二酸化炭素』が吸収されなくなり『地球温暖化』に拍車を掛けています。(大手メガソーラー企業の大体が〇国、広い自国に造れば良いのに)

 

 私、『原子力発電』には反対しません。が、事故を起した会社の体制は絶対認めません。

 

 3.11の時の『〇電』の対応の遅さとその後の補償。今だ避難先から帰郷できない人が大勢いるのに『〇電幹部』は莫大な退職金貰って悠々自適に暮らしてる(らしい) 

 

 なのに『電気料金』があれよアレヨと値上がりし、結局国民が税金で事故処理しているようなもの。納得いかんでしょ!

 

 『メディア』も都合悪い事は報道しないし、何時から日本は腐って来た?

 

 正月早々まだ『松の内』なのに、書いてて腹立って来た。

 

 一杯やりますか。でも『七草がゆ』じゃ呑めないからなぁ。

 

あけまして

 

   明けましておめでとうございます。

 

      本然も宜しくお願い致します。

 

 年末の『賃餅』に追われ、餅つきの最終日が12月30日。

 

 大晦日は朝1時から『ぴんころ饅頭』に取り掛かり、終わったのがお昼過ぎ。その後『大掃除』と『餡練り』で夕方まで仕事。風呂入って一杯やったら就寝タイム。

 

 元旦も朝から配達と『くるみ餅』の仕込み。巳年に因んで『山田神社』で初詣を終え、一杯やったらそのまま就寝タイム。

 

 翌日。『くるみ餅』を仕上げ、配達を終え、昼間から一杯やったら就寝タイム。

 

 3日。グダグダと布団の中で惰眠をむさぼって、TVを観ながら一杯やったらいつしか就寝タイム。

 

 まぁ身体が疲れていたのとストレス溜まりまくりで、呑んじゃ寝。食っちゃ寝。テレビ見ながら寝。の正月でした。

 

 4日。『少林山・達磨寺』へ達磨を納めに出掛けやっと新年の始まりです。

 

 5日。何やかんやで買い物したり、午後ちょこっとパチンコしてチョイ勝。マイナスになる前に帰宅して風呂入って一杯やって……

 

 って明日はもう『七草』じゃん。年末92㌔迄落ちた体重がリバウンドです。

 

 私、普段『神社仏閣』に詣でても『願掛け』はしませんが、『達磨寺』だけは『商売繁盛』の願掛けをします。翌年には『御礼の報告』と『両目を入れた達磨』を納めに行きますので、又『願掛け』『お礼参り』の繰り返しです。

 

 地元の『諏訪神社』と『成田山・薬師寺』以外で、毎年必ず参拝する神社は『単車神社』(バイクに乗りますんで)、お寺は『達磨寺』の二つだけです。

 

 みんなの力で、今年必ず良い年にしましょうね。

 

 

 あの鉄塔は?

 

 

 新年一発目は去年の続き『六ヶ所原燃PRセンター』からです。

 

 雑木林の中に『牧場』やら『ゴルフ場』の点在する牧歌的風景の中、『村営運動公園』や『村立郷土館』の集中する一角に『六ヶ所原燃PRセンター』は在ります。

 

 少し行けば普通に民家も在るし、運送会社や石油備蓄タンクも点在しています。

 

 建物の二階部分から見える景色にゴツイ建物。見比べると『ウラン濃縮工場』の文字が。他にも『低レベル放射性廃棄物埋設センター』……

 

 

 『柏崎刈谷原子力発電所』の『使用済み核燃料』を『六ヶ所村埋蔵私設』に移送して地下深くに在る貯蔵施設に保管すると新聞で読みました。

 

 兎角『スパイ映画』に於いて、悪の組織が狙うのが『核物質』やら『バイオ兵器』

 

 正義の味方が孤軍奮闘して『悪の組織』に渡る寸前で阻止。地球の平和が保たれてめでたしめでたし。ってのが相場ですが、最近の『悪の組織』は、自分で核物質の濃縮抽出に成功して、核弾頭迄造ってしまう。更にはミサイルをぶっ放し、近隣諸国に対して威嚇してくる。ホント『悪の組織』って奴は……。

 

 『仮面〇イダー』でも『科学忍者〇』でも『ブルース・〇ィルス』、『殺しのライセンス007』でもいいから誰かやっつけてくれないかな。

 

 

 『六ヶ所村役場』や『小学校』『商業施設』から僅か1km程の所に巨大な建設プラントが見えます。そこが『日本原燃再処理工場施設』です。

 

 

 山上には『風力発電』、林の中には広大な面積の『メガソーラー施設』、『石油の備蓄タンク』もズラリと並び、高圧電線の為の鉄塔が其処かしこに建っています。

 

 私、『原発反対論者』じゃ在りません。

 

 でも何処か引っ掛かるのは、嘘偽りの無い逐一の報告がされないから?

 

 『3.11福島原発』の『原発事故』にしても、責任感有る対応がされていないと感じてしまう。今だ避難の為に移住したまま故郷に帰れない人が居るのに、『東〇役員』はン千万の退職金を貰って後は我関せず……。地獄に落ちなきゃいいですけどね。

 

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下北と云えば

 

 『下北』って、何で『下』なの?

 

 以前『ぶらぶら歩くTV』か『歴史〇偵』か何かでテーマにしていました。

 

 『青い森鉄道』には『上北駅』も在るから『上下』逆じゃない?

 

 答えは簡単。『京都』が日本の首都だった時の名残です。

 

 現在、列車の『上り』は『東京駅』に向かう事を意味します。(下りは東京駅から離れる) 一部例外は『環状』に走る場合で、東京駅に直線距離で近い駅に向かう場合を『上り』としたり、延伸前の慣習が残されていたりする場合です。

 

 『京都が首都=平安京』ですから『794ウグイス』以降、『1192造ろう(近年は1185らしい?)』の『鎌倉幕府=鎌倉遷都』迄の期間は『京都』へ行く事を『上り』 京都に近い場所に『上』を、遠い場所に『下』を付けました。で『下北半島』

 

 『恐山』の後、『仏が浦』や『大間』を巡り、フェリーで『函館』へ。一泊して新幹線で『青森』と考えていたのですが、『大間』にレンタカーの乗り捨てが出来ない事を借りる時に知りました。

 

 嘆いてもしょうがないから予定変更して向かった先は『六ヶ所村』

 

 『下北半島』には『日本一大きい砂丘』があるとか。

 

 『鳥取砂丘』より大きいとは見てみたい。ところが自衛隊の敷地になっていて立ち入り禁止です。

 

 展望台から眺める事は出来るらしいのですが、観るだけなら……パス。

 

 でカーナビにインプットしたのは『日本原燃PRセンター』

 

 

 交通量の少ない道をトコトコ走っていたらナント『大型ダンプカー』に抜かれました。

 

 速度制限が書かれていなかったから60km/h位で走っていたのに!

 

 今だに暴走ダンプがいるんですね。

 

 

 無料駐車場に車が数台停まっていました。やはり平日の昼過ぎ、そんなに興味は無いのかな。

 

 

 受付で名前を記入し見学コースのパンフなどを貰いました。

 

 来客数が少なくとも常に笑顔で対応する。大変な事です。

 

 特に暇を持て余してると時間が長くて長くて。そんな中でも素敵な笑顔。

 

 

 私が東北旅行の際、是非とも寄ってみたいと思っていた『六ヶ所村・核燃料廃棄施設』は関係者以外立ち入り禁止どころか、埋蔵私設は地図にも載っていません。

 

 『PRセンター』で詳しく聞いてみようかと色々質問したのですが上手くはぐらかされてしまいました。

 

 「私たちも知らされていないんです」 ホントかなぁ。

 

 パンフレットなどをたくさん集めていると、大型の封筒もくれました。

 

 さてさて見学開始です。  次回へ続く。

 

五智如来

 

 『三途の川』『地獄』そして『極楽浜』と巡り『五智如来』の元へ辿り着きます。

 

 『五知如来』 分らない時はスマホに聞けばいい。しかもバリバリの老眼だから、文字入力しなくても良い様に『音声入力・テキスト読み上げ』に設定してある。ただ発音が悪いのか、時としてトンチンカンな答えが返ってくる事もありますが。

 

 『五知如来』 『金剛五仏』とか『五大如来』とも呼ばれ『密教』の五つの知恵(教え)を、五体の如来に当てはめたものです。『密教曼荼羅図』にその五体の如来を観る事が出来るそうです。

 

 真言密教の開祖『空海』は『五智如来』を三次元化し『立体曼荼羅』を創り上ました。

 

 『大日如来』(中央)『法界体性智=不変の知恵』 

 『阿閦(あしゅく)如来』(東)『大円鏡智=鏡の如く写す』

 『宝生如来』(南)『平等性智=万物と一体化』

 『阿弥陀如来』(西)『妙観察智=人々を導く』

 『不空成就如来』(北)『成所作智=なすべき事を成就』

 

 詳しくは……ググってみたけど良く解りません。ご自身で確認どうぞ。

 

 そう云えば『高野山金剛峰寺』本堂で観たのかな?(撮影禁止だから詳細忘れましたけど)

 

 

 足元のお地蔵さんも気になる。

 

 

 展望台から観た駐車場方面。『宇曽利山湖』沿いに見える赤い橋が『三途の川』です。

 

 

 『極楽浜』 火山灰由来の『白』と『湖水の蒼』が南の海辺みたい。

 

 でも湖の先、視界に入るのは

 

 

 一番高い山が『釜臥山』 北の隣国を監視する為のレーダーシステム『通称ガメラレーダー』が山頂で睨みを利かせています。

 

 下北半島最高峰の『釜臥山』は展望台を持ち、陸奥湾越に青森市の夜景が綺麗だとか。

 

 でも公海域で或る『津軽海峡』を航行する『船舶』や、隣国からの飛行物体に24時間365日監視体制を取ってくれる『国防の地』も実感しました。

 

 歩き廻って汗かいたからもう一度温泉入ろっかな。

 

極楽浜

 

 言葉としてかなり辛い目に遭った時『地獄を見た』とか、其処から救済の手を差し伸べられると『地獄に仏』などと『地獄』『極楽』を使いますけど、私ゃまだホントの『地獄』も『極楽』も観た事ありません。(生きてますんで)

 

 『浄土ヶ浜』とか『仏ヶ浦』『仏岩』『地蔵岩』『地獄覗き』『賽の河原』『地獄めぐり』……などなど仏教に関する言葉を使った地名・景勝地も実に多いです。

 

 

 『宇曽利山湖畔』に向かって歩いて行くと、『東日本大震災慰霊地蔵菩薩像·希望の鐘と鎮魂の鐘』が立っています。

 

 『鐘』ですから『鐘楼』を想像していましたが柱の中に納まる『鐘』でした。

 

 小さいながらその鐘の音は高く澄んでいて、何時までも余韻が残ります。

 

 

 裏手に廻って……ちょっとビックリ。

 

 25世山主による『哀悼の辞』と沢山の手形。台座には『念じよう』

 

 素材はコンクリートの為、人が手を押し当てたのではなく『手型』を押し当てたと思うのですけど、チョット……ねぇ。

 

 

 『東日本大震災慰霊地蔵菩薩像·希望の鐘と鎮魂の鐘』の裏手に広がる砂浜が『極楽浜』です。

 

 でも所々で風車が廻ってます。

 

 

 湖畔に佇んで、暫くボ~っと眺めていました。

 

 『白根山・湯釜』や『座生・御釜』と同じ『カルデラ湖』ですが、どことなく優しさを感じます。(賽の河原を歩いてきたからかな)

 

 ベンチとか一切無く、只眺めてるだけ。でもそれが良いんです。

 

 

チャツボミゴケ

 

 『鉱山由来の湿地』独特の植物に『チャツボミゴケ』が在ります。

 

 ごく限られた条件の中でしか育たない為、私が見たのは『群馬県・中条村六合(くに)』に在る鉱山跡地のみです。

 

 火山性の酸性土壌と清流、その他もろもろの条件が揃わないと生育できないとか。

 

 まぁ日本は『火山国』ですし、伏流水量も豊富な国ですから探せば他に在るかも。でも態々火山地帯に出向く事少ないですし。

 

 ほぼ平地で『チャツボミゴケ』が見られる貴重な場所です。(チャツボミゴケじゃ無かったらどうしよう)

 

 

 試しに地面を触ってみましたけど地熱が在る訳じゃ無かったです。

 

 

 地獄から見える湖。花咲く時期には『極楽浄土』に見えるのかな。

 

 

 至る所に『お地蔵様』が立っていますけど『御堂』が在るのは此処だけ。

 

 扉が開きますので中に入って拝観します。

 

 

 『お地蔵様』は『輪廻転生』の際、道を間違えない様に案内してくれます。

 

 此処は『地獄』と『極楽』の境目って事でしょうか。

 

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恐山賽の河原

 

 「人は死ねば恐山にいく」と云い伝えられている『恐山』

 

 よくも此の地を探し出し、『霊場』として『菩提寺』を建設したなぁとつくづく思います。

 

 時は貞観4年(862年)『慈覚大師円仁』に見いだされ開山。『菩提寺』が建立しました。『比叡山延暦寺』で修行を積み、『夢のお告げ』に従い諸国を説法して歩きましたが、『下北半島』の『うぞり』の地に『湖』と『霊場』にすべく『温泉地帯』を発見します。其の荒涼とした山岳地はまるで『賽の河原』 

 

 仏教の教え、『三途の川』を渡る為の場所にそっくりだと思われます。

 

 決して『不浄』を感じる場所では在りません。

 

 人によっては近付く事さえ躊躇う人や、体調が急変する人も居るそうですが私は『霊験あらたか』を感じました。

 

 

 今まで『比叡山延暦寺』や『高野山金剛峰寺』の霊場も訪れていましたがやっと念願かなって『恐山菩提寺』に参拝出来ました。

 

 ぶっちゃけ、先代が他界して10年。相続などもこじれたままです。せめて遺言状でも有ればと探しましたが、『ピンピンコロリ』を実践してくれたおかげで何も無し。それも其の筈、亡くなる前日『麻雀』で朝帰り。早朝から降り出した雪を片付ける為『雪かき』で一汗。寒気がするからと布団に入って次の日、寝たままで旅立ちました。酒もたばこもやらず、常時服用の薬も無く至って健康そのもの(糖尿・高血圧の家系です) それが突然ですもの……周りも驚いたけど本人が一番びっくりしたんじゃない。十年間、家業を継いで何とかやってきましたが、コロナの影響や、観光名所『ぴんころ地蔵』の人気下火に伴い収支は低迷。ひょっとしたら父が私に何か言いたい事が有るんじゃないかと、『恐山』を訪れました。

 

 『イタコ』による『口寄せ』なども考えましたが、『菩提寺』に来れた事に感激し、もし本当に父の言葉を聞いたらなんて考えは無くなっていました。

 

 『恐山』 一度は訪れてみてください。いや訪れるべき場所です。

 

 

 開山者の『慈覚大師円仁』を祀る為の御堂です。

 

 だから『カラス』が似合い過ぎだって。

 

 もし『賽の河原』を訪れる人は、『飲み水』の他『線香』も持参したいです。(タオルもね)

 

 賽銭は『硫黄』で変質してしまうので『本堂』や『地蔵堂』のみに留めたい処ですね。

 

 

 十月初頭でも半袖で充分な気候(異常気象が毎年起こると異常じゃ無くなり平常)でした。

 

 針葉樹の緑の中、色付き始めたのは『ナナカマド』でしょうか。

 

 白く咲く花は『イソツツジ』 高山の強酸性地や噴気孔の近くでのみ咲く花です(違ってたらスミマセン)

  

 

 砂と溶岩石ばかりを予想していた『賽の河原』が意外と植物の多いのにビックリです。

 

 

 先祖への手向けに『風車』持って来れば良かったかな。

 

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恐山=うぞりやま

 

 下北半島の恐山に在る湖『宇曽利山湖』

 

 地図で見ると『ハート』に見えなくも無いのですが、カップルは行かないだろうなぁ。

 

 『アイヌ語』の「ウショロ」が語源で、後に『蝦夷語』の「ウソロ」に変化し、意味は『湾・入り江』の事だそうです。

 

 蝦夷との交流が在った『陸奥湾』の港が在った場所(むつ市?)を「ウソロ」と呼ぶようになり、『オソロ』に変化し『オソレ』 『オソレ』に在る山だから『オソレ山=恐山』 藩政時代に『恐』の文字を使わず『宇曽利』の文字が当てられました。

 

 決して『恐ろしい事が起こる山』の事では在りません。

 

 どころか『恐山』は『日本三大霊場』(他は比叡山・高野山)のひとつ。日本人なら絶対に行くべき場所です。

 

 『恐山』の霊場は『醍醐寺』のある湖畔の北部に位置し、火山性の荒涼とした岩肌と温泉の臭気を感じます。

 

 実は帰って来てから『醍醐寺・本堂』が、仁王門手前に位置している事に気づきました。(写真撮ってないから参拝していない?)

 だって、仁王門を抜けた参道の正面突き当りが『本堂』だと思うじゃ無いですか。

 

 風呂上がりでボ~っとしていたか。

 

 

 正面に建っているのは『地蔵堂』

 

 脇から『霊場』への散策道が在ったので気を取られていたのかも。(熊に気を取られた?)

 

 しかも『奥之院』では写真を撮った筈なのにデータが壊れている……

 

 まさか『恐ろしい事』が起こっている ワケ無いと思いますけど。

 

 

 『草津温泉・賽の河原』や『佐渡二つ亀・賽の河原霊場』なども訪れましたし、『登別温泉・地獄谷』なども観ましたが『恐山・賽の河原』が一番『賽の河原』っぽい?(ホンモノ観た事無いからあくまで感想です)

 

 

 今まで様々な『神社仏閣』や『修験道』の『山岳修行の場』を訪れましたが、足を踏み入れない方が良いと感じた場所は数ヶ所のみ。

 

 『千葉・鋸山』の『地獄覗き』や『戸隠神社・剣の刃渡り』も歩きましたが、『恐怖』と『立ち入ってはいけない感』は別物です。

 

 日本各地に『禁足地』と呼ばれ入ると祟られるとされる場所が在りますが、やはり只ならぬ気配を感じるとか。私ゃそんな場所は行きたいと思いませんが。

 

 

 強い火山性ガスの為、お賽銭も黒く変色してしまいます。

 

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菩提寺

 

 温泉で全身を清めまして。イザ参拝です。(ホント心まで綺麗になっちゃ)

 

 

 『手水舎』の手前に在るのは……ん?

 

 石を掘った彫刻ですが、木の根っこの上に安置されています。

 

 『亀』 それも沢山

 

 ぱっと見て、昔のインドの人々が想像していた『世界を支える亀』を思い出しました。

 

 『インド神話』の世界観で地球は亀の背中の上の数匹の『象』に乗っていて大海原を移動すると考えられていたとか。『アクパーラ』というらしいです。

 

 でもその『亀』を更に取り巻くのが『蛇』(宇宙?)

 

 地球の中心には『須弥山』が在って『天上界』迄続いていたとか。

 

 う~ん、『アスパーラ』に見えなくはないけど。

 

 

 此方が『手水舎』柱の数が多くない?

 

 此れにも理由が在るのでしょうけど何も書かれていない……

 

 只の耐雪? なら太い柱を使えば良いんだろうし。

 

 

 正面の『地蔵堂』(本堂?)は至ってシンプルです。

 

 

 先ずは参拝。残念ながら内部撮影禁止です。

 

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卒塔婆と温泉

 

 参道を進み、仁王門を潜ってもまだまだ広い境内は続きます。

 

 亡くなった者を呼び出し、会話する事が出来るとされる『いたこ』(漢字が分からん)さんが詰める建物が在りますが、先客が居ましたので後回し。

 

 さらに進むと左手に

 

 

 『塔婆堂』 『塔婆』が『卒塔婆』の事でしょうから亡くなった方の供養・追悼に建てるものです。

 

 本来は『サンスクリット語』の『ストゥーパ』から来ているらしいのですが、古来インドでは『仏様の骨=仏舎利』を納めたドーム状の建物=『仏舎利塔』の事だそうです。

 

 『恐山醍醐寺』は亡くなった方とこの世を繋いでいる場所とされていますので、供養する為の場所として『卒塔婆』が沢山納められています。

 

 余りパシャパシャ写真などを撮影する場所でも在りませんので遠くから合掌。

 

 

 参道には沢山の『石灯篭』が並んでいます。

 

 暗くなって『火袋』に『火』が灯ると神秘的に映るんだろうなぁ。

 

 

 『冷抜の湯』『古滝の湯』 温泉の小屋が並んでいます。

 

 『女性専用』や『男性専用』 他には『貸切?』と思わしき建物も。

 

 ひょっとして混浴?なんて考える不届き者は、『霊場』には来ないか……。

 

 

 此方は『男湯』 先客が居ましたが、私が入浴中に出て行きましたので、すかさず撮影。

 

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恐山・醍醐寺

 

 長野県内の『神社仏閣』で拝観料を徴収する所は、私の知る限り3ヶ所。

 

 それも『国宝・多重の塔』や『国宝・古来の神明宮建築神社』『県重要文化財指定・未完の〇』位でしょうか。

 

 『善光寺』も『諏訪大社』も『牛伏寺』も全て拝観料の徴収はしていません。

 

 『小布施・岩松院』の『北斎天井画』や神社仏閣の『宝物殿』は『閲覧料』の形で有料の処は在ります。

 

 でも『京都』の『金閣寺』『銀閣寺』を筆頭に『清水寺』から名立たる神社仏閣の拝観料大人¥1000は、何だかなぁ……の気持ちになります。(〇〇寺の職員駐車場には一頃高級車がズラリと並んで顰蹙を買い、以後セカンドカーしか停められなくなったとか。)

 

 で『拝観料徴収』の神社仏閣は『開門時間』(決して営業時間とは云わない)が決まっていて、時間調節が大変。

 

 早朝から京都観光する時は、拝観料無しの『伏見稲荷』がお勧めです。24時間開いててよかった。

 

 

 この総門の右手に拝観料徴収所が在ります。確か大人¥700だったかな。

 

 売店・自販機・トイレ・等済ませてからどうぞ。忘れちゃいけないのがタオル。

 

 境内に湧き出ている『温泉入浴』が拝観料のみで利用できます。

 

 勿論男女別のちゃんとした建物です。(少し離れています)

 

 昔は混浴で『禊』代わりに身を清めた?

 

 

 思った以上に広い。そして何となく殺伐とした雰囲気。

 

 参道左右を流れるのは温泉です。

 

霊場・恐山

 

 『日本三大霊場』と云えば『比叡山』『高野山』そして『恐山』

 

 『〇〇山』と名前が付いていますが仏教の寺院が在る山で『山号』として知られています。正式には『比叡山・延暦寺』『高野山・金剛峰寺』『恐山・菩提寺』です

 

 『山岳信仰』における『日本三大霊山』は『富士山』『白山』『立山』で、『修験道』に於ける修行の場で『神様を祀る社=神社』が山頂に祀られています。(まぁ日本の名立たる山の山頂には、ほぼ100%『祠』が祀られていますけど)

 

 

 駐車場に入る手前に柱が立っています。この先から聖域で在る事が解ります。

 

 最初、てっぺんの鳥はオブジェかと思いましたが、暫く後に飛び立ってました。カラスが余りにも似あいすぎる。

 

 神社仏閣の聖域に足を踏み入れる時、『一礼』してます?車の中ですが頭を下げてから駐車場の中へ。

 

 駐車場には大型バス。あの細い山道を登って来たのか……まぁプロですから。

 

 

 駐車場のすぐ脇に、『門』が在りましたが今は使われていないみたい。

 

 

 門の向こうに如何にも『賽の河原』の風景が見えます。

 

 

 後輪を背した、かなり大きな『六地蔵座像』が並んでいます。

 

 おそらく『香炉』なのでしょうが『風車』が似合いすぎる。

 

 かなり大きな駐車場の反対側には『売店』や『トイレ』が在ります。

 

 この日は暑い位の気候でしたので自販機でお茶を購入し、ウエストバックにカメラやタオルと一緒に入れて準備完了。さて拝観料を払って。

 

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恐山・賽の河原

 

 『此れは この世の 異らず 

 

 三つにも成らぬ 幼子が

 

 ひとつ積んでは 父の為 二つ積んでは 母の為』

 

 仏教の教えに『五逆罪』が在ります。(詳しくは調べて貰うとして)

 

 父を殺してはならない。母を殺してはならない。悟りを得た者を殺してはならない。僧侶を殺してはならない。仏陀を汚してはならない。との教です。

 

 『賽の河原』は亡くなった者が行く場所です。

 

 仏教では人間が死ぬと『剥ぎ取り婆』が衣服を脱がし、その重さを測る事で生前の『罪』を推し量ります。それを『閻魔大王』が判断して『地獄・極楽』への振り分けをします。『極楽』へ向かうものは『三途の川』を渡るのですが、誰かの手助けが必要となります。それが『父・母』とされますが、幼くして亡くなってしまうと、後から来る『父・母』を待ち続ける事に成ります。その長き時間を潰す為に河原の石を積んで『石の山=ケルン』を造ります。しかし夜中のうちに『鬼』がやって来て、幼子の積んだ『石の山』を崩してしまいます。又朝が来ると『父・母』を待って石を積む……と云うものらしいのですが。

 

 

 『恐山・霊場』の少し手前、『硫黄の匂い』を強く感じようになると『宇曽利湖畔』に出ます。川の手前の駐車場に車を停め、湖畔を散策すると『剥ぎ取り婆』(脱衣婆・脱衣爺)の像が立っています。

 

 『宇曽利湖』はハートの形の綺麗な湖なのですが『恐山』のイメージが強すぎて湖畔に立つのが『剥ぎ取り婆』

 

 『十和田湖』なら『乙女の像』が観光ポイントになっていて、蒼い湖畔に真っ白な像を写真に収める人が多いのですが、此処を写真を撮っている人は少ないみたい。

 

 

 すぐ脇に『三途の川』に掛かる橋が在るのですが渡る事は禁止。

 

 そりゃそうだ。何か在ったらどうすんの?

 

 『立山』の『立山博物館』傍に『布橋』と云う橋が在ります。誰でもが渡れる橋なのですが『あの世』へ渡る橋とされていて『特別な人』が白装束で渡る橋だそうです。

 

 私も途中で引き返しました。だってまだまだこれからだもん。

 

 合掌して次に進みます。

 

 

 子供を亡くした人が逢冷めるのでしょうか『風車』が廻っていました。

 

 でも『仙台四郎』が何故?

 

陸奥湾

 

 さて無事レンタカーを借りまして、一路向かうは『下北半島』

 

 ところが、事前予約の時に勘違いしていたのか返却場所は借りた店舗になっており、急遽『乗り捨て』に変更は不可(次の予約が入っているらしい)との事。

 

 あちゃ~。『大間』で返却し、フェリーで『函館』に渡ろうと思ったのですが、青森まで帰ってこなきゃ……(大間のマグロ・函館の朝市ラーメンは今回パスみたい)

 

 下北半島にも高速道路が部分開通しており、無料で通行できます。(完成したら有料に成るんだろうな)

 

 でも昔走った旧国道の延々とまっすぐ走る道。交通量も信号も少なく、快適に走れたと思ったけど。

 

 コンビニの無い時代で、やっと見つけた『トラック野郎御用達』の雰囲気満載のドライブイン、隅っこの方で一番安い『ラーメン』を食べてると、トラック野郎の兄ちゃんが話かけてきて、「わったらこ~たらが?」(としか聞こえなかった)多分「お前、何処から来た」(以後通訳)「何処まで行く」「幾つだ」「腹減ってるならこれも食べろ」と偉いもてなし振り。(そのグループのテーブルには、〇ールの空き瓶が数本……見なかった事に)何故か『カツの煮込み』だったり『刺身の盛り合わせ』(食べきれなかったんでしょうね)が私の目の前にズラリ。「気を付けて旅しろよ」と云って出て行ってしまいました。食べ終えてラーメン代を払おうとすると『頂いてます』ですと。『フーテンの寅』さんや『トラック野郎・桃さん』を感じました。男だねぇ。

 

 令和の現在では『飲酒運転絶対禁止』ですけど当時は……ねぇ。

 

 部分開通したばかりの高速道路は片側一車線。実は此れが曲者で、工事用ダンプが土砂等を積んで高速道路の工事現場に向かう時、ビッチリ制限速度を護る為、(対面交通区間制限速度50㌔)ダンプの後ろは塞がれた車で長蛇の列。やっとこさ追い越し区間に入っても追い越せる車の台数は多寡が知れていて、又次の対面交通区間に突入。結局下道と大して変わらないんじゃないかと思えるくらいゆっくりドライブ出来ました。(基本高速道路は、運転手がわき見運転しない様にワザと(?)防音壁を高くしたり、山間部を走らせます。瀬戸大橋なんぞ一番左の走行車線はゆっくり走りたい車(わき見運転禁止)が安全速度で走行しています)

 

 まだ未完成の為、途中から一般道に降りるんですけど、それでも大して変わらんスピードで車は流れて行きます。

 

 真っ直ぐな道。大好きです。

 

 日本一直線の長い国道は『北海道・国道12号線』だったと思いますけど、アップダウンの先にさらに直線が見えたような。

 

 但し、高速道路などで何処までも直線だと『ハイウエイ・ヒプノーシス現象』を誘発しやすいとか。研究の結果、適度なハンドル操作を必要とするカーブを造り、緊張感を持たせるらしいです。でも『自動運転level5』が認可されたらどうなるんでしょうね。

 

 『わき見運転し放題』にならなきゃ良いんですけど。

 

 

 先ず下北半島で真っ先に向かった先が『釜臥山』

 

 『かまぶせパノラマライン』をぐんぐん上って行くとだんだんガスって来ました。

 

 上の写真は『恐山展望台』から観た『宇曽利山湖』

 

 『霊場恐山』が見える筈ですけど雲が……

 

 

 結構な山道ですけど意外と交通量が多いです。

 

 皆さん『釜伏山展望台』に向かうみたい。

 

 

 で考えました。『釜伏山展望台』に行ってもガスってるんじゃ……

 

 晴れていれば、確かに『むつ市』の夜景が綺麗そう。どころか陸奥湾越に『青森市』まで拝めそう。

 

 う~ん。パス。これ以上標高上げても雲の中だし、又何時か来ればいいじゃん。

 

 

 昔、バイクで此処ら辺りまで来た事が在ります。(門が違うかも)夏休みを利用して東北を一周しようと計画、その日の野宿予定地『恐山』を目指して走ったのですが、思った以上に遅い時間になってしまい辺りは真っ暗。街灯一つない山道を、薄暗いバイクのヘッドライトで走っていましたが、闇の中を杖を突いて歩く白装束の集団を目撃してしまい、鳥肌が立つどころか総毛が逆立つ!(ヘルメットだから髪の毛は無理)のを感じそれ以上進むのを諦め引き返しました。だって闇の中を明りも無しに歩いてるんですもん。正直チビッたかも。ひょっとして見えてはいけないモノだった?

 

 故に今回、門を潜る前に車を降り、一礼してから進みました。

 

 どうぞ何も起こりません様に。

 

青い海公園

 

 まぁ、海は青いもんですけど……(あっ、黄海や紅海も在りますか)

 

 

 早朝から犬の散歩やウォーキングの人が結構歩いています。

 

 今年は10月初頭で『夏日』に成る処も多かった日本。

 

 斯く言う私、半袖ポロシャツの上に極薄手のフリース。それでも運転中は脱ぎましたけど。

 

 

 陸奥湾は波も無く穏やかに見えます。

 

 

 昔、青函連絡船が運行終了すると聞き、『青春十八きっぷ』で青森駅まで来ました。

 

 其処から『函館』までの船旅です。青函連絡船の名前は『羊蹄丸』。現役引退後は『東京お台場・船の科学館』に展示されていたそうです。

 

 青森駅の改札を抜け、長~い連絡通路を歩いて『連絡船乗り場』まで歩いた記憶が在ります。連絡通路はそのまま船べりの乗船口に続いていて、切符購入窓口で住所氏名を記入して乗船券を買いました。万が一の時乗客名簿と照らし合わせる為だとか。(万が一って……)

 

 当時、二等船室の料金しか捻出出来ませんでしたけど、大部屋の端っこに陣取って、毛布と枕を確保しました。色んな人の人間観察に持って来いの場所で、車座で酒を飲むグループや、子供に絵本を読み聞かせる親子連れ。中々面白い船旅でした。

 

 当時は東北新幹線が仙台までしか開通していませんでしたが、早朝上野を出発し夜10頃には函館に上陸していたと思います。連絡船は24時間運航しており、翌日のスケジュールに併せて青森泊した人も多い筈です。

 

 

 連絡船埠頭に係留されているのは『八甲田丸』 内部は当時を偲ばせる資料展示室などになっているそうですが、残念ながらオープン時間前。機会あったらですね。

 

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アスパム

 

 『アスパム』と聞いてもピンと来ない人が多いと思います。

 

 『青森の三角ビル』と云えば思い出すかも。

 

 『三角ビル』と云っても、『新宿西口・住〇ビル』の様に上から観た『三角』(正確には六角?)では無く、正面から観た『三角』です。

 

 

 早朝、ビジネスホテルをチェックアウトし、コンビニコーヒーで朝食。

 

 歩ける範囲で散策し、それでもレンタカー店の営業開始までまだ時間在るからと『青い海公園』へ。

 

 其処に建つのが『アスパム』です。

 

 この建物は昔、長女が2歳の時、北海道を車で廻りましたが、『青函フェリー』に乗る前に訪れた場所。(もう30年近く前)

 

 偶々『アスパム・完成記念式典』が盛大に行われていて、イベント広場では『プロレスリング』が設置されていました。

 

 トイレを借りようと建物内に入ると、更衣室で着替えを終えた『悪役レスラー』がリングに向かって歩いて来るところ。それを見た娘が大声で泣き出してしまいました。

 

 その途端、「ゴメンね怖く無いから~」としゃがみこんで笑顔で娘と握手しました。

 

 試合前なのに、小さな子供にまで気を使える優しい人なんだな。と其の時、外見だけで判断してはいけないなぁと思いました。

 

 そのレスラーは『新崎〇生』さん。その後も幾度かTVで見かける度に応援していました。

 

 今でも『プロレス』好きで録画して観たりしますが『悪役』が在ってこその興行です。

 

 頑張れー『悪役レスラー』

 

 かなり昔『パパは悪役レスラー』と云うタイトルのビデオが在りました。もし観る機会が在ったら是非観てください。

 

 

 真横に廻り込んでビックリ。こんなに薄くて大丈夫なのか?

 

 普通乗用車(横幅1.8m)×6台分位いかな。

 

 海辺でモロ北風がぶち当たりそうなんですけど。

 

 まぁ今まで倒れていないし、出っ張り部分が強度を増しているのかな。

 

 

 展望台に登ろうかと思いましたがまだ営業前。確か30年前も長いエレベーターの順番待ちで、登らず終い。レンタカーで帰って来てから登りますか。

 

善知鳥神社 part2

 

 『みちのく』にも、『中尊寺・金色堂』『松島・瑞巌寺』『山形立石寺』等々有名な仏閣が沢山在りますが、神社となるとハテ?

 

 『八戸』の海沿いに在り、ウミネコのフン害で有名な『蕪島神社』や『岩木山』を御神体とした『岩木山神社』 白山信仰の『白山神社』などなど。

 

 奥州街道の終点で見つけた『善知鳥神社』は『九州・玄界灘』の海の神様『宗像三女神』をお祀りしています。多分『蝦夷』への航海の安全を祈念してでしょうか。

 

 本殿から裏へ廻ると『竜神之水』が在り、『竜吐』から勢いよく水が流れていました。

 

 

 ご利益の湧き出るパワースポットですと。

 

 両手で水を受けてゴクゴク……これでご利益UPだぜぃ。

 

 

 海辺の近くで美味しい水が湧き出る処が、不思議と沢山在ります。(富山県なんぞは海の中でも真水が湧き出しているし)

 

 龍吐から流れ出た水は『弁天池』に流れ込みます。

 

 水面が鏡の様。でも写り込むのがビルなんだな。まぁ街中だからしょうがないけど。

 

 橋を渡ると『弁天堂』が在り『弁財天様』が祀られています。

 

 『弁財天様』も商売繁盛の神様ですので参拝します。

 

 

 昔は此の辺りまで海岸線が来ていたのでしょう。沼地が海まで繋がっていて、海が荒れた時に舟が避難して来たそうです。今では小さな堀でしか在りませんが。

 

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善知鳥神社

 

 『奥州街道』終点の碑が建つのは『善知鳥(うとう)神社』前です。

 

 祀られている主神は『宗像三女神 多紀理毘売(たごりひめ)命・市寸島比売(いちきしまひめ)命・多岐都比売(たぎつひめ)命』です。

 

 『天照大神』と『素戔嗚尊』(姉弟)の間に交わされた誓約により生まれた三人の女神です。

 

 『宗像神社』は海神の神であり『九州・福岡』に総本社が在り、『沖津宮・一の鳥居』は『玄界灘』に浮かぶ離島の上に立っています。世界遺産に認定され、フェリーで参拝される方も多いとか。

 

 きっと『蝦夷』(北海道)との海運の安全祈願に祀られたのかもしれません。

 

 

 ピッチアウトして読んで下さい。

 

 

 鳥居で一礼をして参道を進みます。

 

 あくまで真ん中は『神様』の通り道。参拝者は道の端を歩きます。

 

 

 『太鼓橋』も本来は神様だけが渡れる橋でしたが、便宜上橋の端を通らせて貰います。

 

 

 先ずは参拝。まだ扉は閉ざされていましたが、地元の人でしょうか参拝に訪れる方もチラホラ。

 

 拝殿裏手に『龍神之水』が在るそうですので行ってみます。以下次回です。

 

奥州街道・終点

 

 道路を走っていて『〇〇市まで何㎞』とかの案内表示を見掛けます。

 

 でも『〇〇市』と一言で言っても、一体どこの地点を指すのだろうと疑問に思った事ありません?

 

 明治時代、政府は各市町村の主要地点を定め、『石柱』などを置いて基準点を定める『道路原票』を設置しました。

 

 此れにより『〇〇市』~『✕✕市』まで『何㎞』と表示されるのは『〇〇市道路基準点』と『✕✕市道路基準点』の主要道路上の距離に成ります。

 

 『カーナビ』などでに『距離優先』で入力すると、『主要交差点』と『主要交差点』を結ぶ最短コースを選択しますこ。此れを幾つも組み合わせるから、山道だろうが砂利道だろうがあくまで優先するのは『最短距離!』

 

 カーナビが出始めた頃、『天理市』から『佐久』まで帰って来るのに『国道25号線』を指示されました。まだ『名阪国道』も『名阪高速』も出来る以前の話で、ナビする通りに走って行ったら、周囲に車は居なくなるは民家は無くなるは……挙句『紀伊山脈』を横断する『山道』 薄暗い時間に成り、カーブ連続の砂利道で、所によってはガードレールも無い崖っぷち。それでも『国道25号線』の標識は在りました。

 

 行きは『岡谷IC』~『天理』を高速優先で走ったから『小牧JC』『吹田JC』から『大阪』を抜け『天理』に入りましたが、帰りは高速代節約と思い『距離優先』でナビを入力したら行きの三倍は時間が掛かり、数倍は疲れました。

 

 『カーナビ』が出る前は『日本全国ロード〇ップ』やら『マッ〇ル』などの分厚い道路地図を車に積んでいて、自分で地図を確認しながら走ったモノです。そのお陰か今でも『カーナビ』の表示は『ノースアップ』常に『北』が上に来ます。

 

 晴れた昼間は影の出来る向きで、自分が西に向かっているとか南に向いて走ってるなんて解りますが、雨の日などどっちに向かっているか解らない時に重宝します。

 

 『カーナビ』を『進行方向表示』にしている方で『中央高速・恵那山トンネル』を良く走る方、試しに『地図』で見てください。方向感覚がズレているのが解ると思いますります。

 

 何の話だっけ?(私、話が脱線するの得意です)

 

 

 『陸奥の国』は『道の奥』とも呼ばれ、略して『みちのく』 其処を貫く街道が『奥州街道』です。

 

 その『奥州街道』は江戸時代に整備された『五街道』の中でも最長の街道で、『江戸・日本橋』が起点である為、此方が『終点』に成ります。

 

 という事は、此の辺りが当時の中心地(公官庁)だった訳です。

 

 確かに現在でも『県庁』や『警察本部』などが建ち並び、海に面しては『アスパム』も聳えています。

 

 シャッター通りじゃ無い『商店街』が活気を見せ、歓楽街も。

 

 格安ホテルも近くに在って私ゃ好きです。此の辺り。

 

棟方志功

 

 『青森駅』から少し離れただけで格段に安くなる『ビジネスホテル』に宿泊しました。

 

 と云っても『県庁』や、三角が特徴の『アスパム』にも近く、翌日借りるレンタカー店にも、翌々日利用のバス停にも程近い。しかも『居酒屋』も歩いて直ぐ。

 

 夜は『居酒屋』で済ませ、朝は『コンビニコーヒー』で即行動。それでもレンタカー店の営業は朝8:00から。其れ迄町をぶらつきます。

 

 『棟方志功出生の地』をgooglemapで見つけまして行ってみる事にします。

 

 

 『わだ は ゴッホ になる』 自他ともに認める『和製 ゴッホ』の称賛を得ると共に世界に認められた版画家です。

 

 「イチ・ジュウ・ヒャク……」のTV番組では、一枚数千円の贋作か、一枚最低数百万~数千万円!の版画が鑑定されますが、私にゃ本物と贋作の見極めが付きません。

 

 『芸能人の格付け』と称されるTV番組は好きでは無いので観ませんが、本人が美味しいと思って飲む『ワイン』なら幾らの物でも良いと思うし、良い音に聞こえるバイオリンなら数千円の物でも良し。で間違えると実は此れが本物で、幾らでした……どうでもいいじゃん。(多分答えを知っているなと思える時が多々あるからなぁ)

 

 

 『青森県・歌謡三味線愛好会事務所』と、如何にもな『純子の店』

 

 『棟方志功』が、音楽関係の人みたいに思えちゃう。

 

 『棟方志功』の作品の多くは優しいタッチの版画で、線と面だけで表現されるているのになんて豊かな表現なんだろう。

 

 でも此の場所はあくまで『出生の地』ですので、作品とかは一切無し。

 

 写真撮ったらそれでおしまい。次です。

 

太宰治 文学碑

 

 『帯島』から『竜飛岬灯台』へ向かう途中の海岸沿いに石碑が立っていました。

 

 

 『太宰治』 確かに青森県出身ですけど。竜飛にですか?

 

 何が書かれているんだろう?   

 

 『ここは 本州の袋小路だ 讀者も 酩肌せよ』

 

 旧漢字ですけど『津軽』の一節(らしい)です。

 

 『太宰文学』に触れる人は『走れメロス』で始まり『人間失格』『斜陽』……そして傾倒していく人と、ネガティブな文体に辟易する人に分かれるかも知れません。

 

 小学校の教科書で『走れメロス』を読んだ時、外国人の造った話かと思いました。

 

 『太宰治』と云う名前も、外国人作者が付けた『ペンネーム』だとばかり思ってました。(『小泉八雲』が本名『ラフカディオ・ハーン』と云うアイルランド人)

 

 『太宰治』もペンネームで、本名は『津島修治』です。

 

 津軽(金木)の大地主の家に生まれ、何不住なく育った筈です。何故暗~い感じの小説を書くのだろうか?

 

 生涯を調べてみると(Wikipedia)『薬物依存症』や奔放な『女性遍歴』そして数度となく繰り返された『自殺未遂』 小説家としての才能に恵まれながらも凡人には計り知れない苦悩の中に焦燥しきっていたのかも知れません。

 

 私が原付免許を取った頃、太宰治の小説『富嶽百景』を読み、『山梨県・御坂峠』の『天下茶屋』迄ツーリングした事が在ります。

 

 『河口湖』越に『富士山』が凛とした姿を見せ、『旧五百円札』の図案に採用された姿其の物が眺望出来ます。その峠の山中に『太宰治文学碑』が在りました。

 

 確か『天下茶屋』に長逗留して『富岳百景』を書きあげたと在りました。

 

 然るに、観光名所とすべく縁の場所に建っているのが『文学碑』 

 

 純粋な記念碑と云うよりは、まぁ商魂逞しいと云いますか……

 

 

 訪れたのは10月初頭。各地で夏日になる様な異常気象で半袖ポロシャツで充分でした。

 

 青い空と青い海。

 

 チョット『太宰治』の雰囲気じゃ無い様な……

 

斜坑線

 

 『黒部ダム計画』成功へのカギは、『資材運搬用トンネル=黒部トンネル』の貫通に在りました。時に頑丈な岩盤層を迂回し、時に浸水。そして最大難関の『破砕帯』をもクリアーして『黒部トンネル』が貫通しました。

 

 現在『電気バス』(トロリーバスは廃止です)に乗って『扇沢駅』~『黒部ダム駅』を通る事が出来ます。でもこのトンネル決して真っ直ぐな直線じゃ無く、上下左右にくねっています。

 

 レーザー測量の無い時代に『黒部ダム側』と『扇沢』側両方から掘り進んで、紆余曲折の末、すれ違わないでピンポイントで出逢うのが凄い。(と思うのは私だけ?)

 

 

 通称『もぐら号』 観光だけかと思いきや、点検作業員が後から乗って来て、立派に現役の仕事しています。

 

 搭乗口の扉が閉まると、正面の『油圧ゲート』がゆっくり引き上げられて開きます。

 

 両方一遍に開いてしまうと、地下からの風圧が一気に出口に向かってしまう為、時に危険だとか。

 

 「エヴァンゲリオン。発進」の気分でゲートの開くのを観てましたが、そのゆっくり感は、『マジンガーZ』で秘密基地のプールが開き『マジンガーZ』が現れる感じ。又は『サンダーバード2号』発進の際、ヤシの木がゆっくり倒れて滑走路が現れる様。(歳が解かる?)

 

 『ケーブルカー』は普通、頂上駅を頂点に二台の客車が長いケーブルで結ばれ、ど真ん中の中間点には、すれ違う為の複線区間が在る筈。でも此処の『斜坑線』は車両一台で運行しているから拡幅部も無くすれ違いも在りません。最上部の大型ウインチに全てのケーブルが巻き取られる仕組み。ケーブルカーと云わず『斜抗線』と云う由縁でしょうか。

 

 安全を期すためか、運行上の決まりなのか『運転手』が搭乗し出発です。

 

 『海底駅』迄撮影しましたがず~っと同じ風景。(つまらないからパス可)

 

 

 軌道の真ん中にケーブル支持の滑車が見えます。

 

 扉が開くと発車。

 

 

 『もぐら号』の最前列から『Go-Pro』にて撮影。

 

 傾斜角250‰ 区間778mを9分で下ります。

 

 海底駅では若い女性スタッフが出迎えてくれてガイドしながら作業抗散策が始まります。

 

 薄暗い海底駅でポツンと一人……

 

 某夢の国の『ホーンテッド〇ンション』でゲストが集った広間の壁が何時しか長~く伸びて(実際には大型エレベーターが地下に降りただけ)ゆっくり振り返ると扉の向こうの薄暗い闇の中にメイド姿の若い女性が一人…… 思うんですけどこの『メイドさん』とか『お化け屋敷』のお化け役とか怖く無いのかな?仕事だからプロ根性持ってるのかも知れませんけど。

 

 

 コンクリート吹き付けの作業抗の中には、当時の作業で使われた『ブルドーザー』などが展示されています。

 

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青函トンネル・竜飛斜抗線記念駅

 

 その昔。深夜ラジオだったかの都市伝説として『青函トンネル内にド〇えもんの町が再現されている』と噂された事が在ります。

 

 広い空間に『の〇太』や『ス〇夫』が草野球したり、『ジ〇イアン』がマイクを握りしめてリサイタルを行った空き地が再現されており、『土管』が積み重なっていたとか。

 

 其処から何時しか『ドラえもん・のび太の住む街並み』が在る、と伝わり『野比家』や『しずかちゃんの家』が再現されている……まぁ噂でしたけど。

 

 『新東名高速』のSAに(場所忘れた)『紙兎〇ペ』の八百屋が再現されていると聞いて、わざわざ遠回りして立ち寄った事ありますけど、只の『書き割り』でした。ひょっとしたら『の〇太の町』の『書き割り』が在ったのかな。

 

 『新幹線』が走る前の『青函トンネル』は、在来線特急(特別快速だったかな)が本土と北海道を繋いで走っており、事前申請しておくと『竜飛海底駅』に途中下車する事が出来ました。結局は何処にも行けないから、次の電車に乗るしか無いんですけど。

 

 駅から出て『作業抗』を散策する事が出来たらしいのですが(現在新幹線は停車しません)其処こそが『青函トンネル・竜飛斜抗線記念駅』からケーブルカーで下った場所です。

 

 その『作業抗』は現在『斜抗線記念駅』からケーブルカーで降り、ガイド付きで散策する事が出来ます。

  

 

 『青函トンネル記念館』からコンクリートで覆われた通路を進むと、(多分風よけの為に後で増設)『竜飛斜坑線記念駅』です。

 

 地底へと降りていく『ケーブルカー』の先頭に陣取りたかったのでかなり早めに並びました。

 

 

 フムフム。こんな感じのケーブルカーで地底へと降りていくのだな。

 

 壁面に展示された資料を観て時間を潰しているとだんだんと人が集まって来ました。

 

 

 『記念館駅』を発車して『体験坑道駅』に到着し、坑道をガイドさんの案内に従って散策。その後再び『体験坑道駅』からケーブルカーに乗って『記念館駅』に戻るまでの所要時間は約44分。トイレ済ませとこ。

 

 いざ時間になり、閉ざされていたドアが開くと……続く

 


 こーちゃんの”毒談と変見”

 ぴんころ地蔵から車でほんの数分も走れば、黄金色輝く田圃が広がります。浅科区では五郎兵衛米というお米が獲れます。内緒にしておきたいくらい美味いです。

 

新米が出回るのはまだまだ先ですが、一度お試しください。道の駅、お土産売り場等で買えます。五郎兵衛米です。ブランド価格します。

 

40年も昔の話。田圃にコンバインの姿が無く、稲刈りした稲束をハゼという棒に掛けて天日乾燥させていました。

 群がるのは  イナゴ。バッタのことですが漢字では  蝗。稲穂を食いつぶす害虫です。

 

 小学校の授業の一環で、イナゴとり  がありました。イナゴを全員で採取して駆逐し、尚且つ業者に売るのです。その利益で図書館の本や備品購入代金にするのです。

 買った業者はどうするのか?佃煮にして売るのです。

 信州三大珍味。(ゲテモノ?) ハチの子ご飯。イナゴ、カイコの佃煮。ザザムシの佃煮。えっ?本当に食べてたんです。今でも缶詰や瓶詰で売られています。しかもお値段なかなかの高級食材。

 都内某所の居酒屋で、イナゴの佃煮7~8匹で¥500でした。

 

 高級食材入手の際、田圃でのトラブルはお避け下さい。


 北大路魯山人 の逸話に、「田螺の生茹でが大好物。この田螺に寄生していたアニサキスのせいで早死にした。」とあります。ほんとうかどうか真意はさて置き、田螺もたべていました。

 秋の味覚のひとつです。


 こーちゃんの"毒談と変見”

 

 信州佐久は、誇れるものがたくさんあります。


 晴天率もその一つ。昼間は太陽光発電が威力を発揮していますし、夜は天体観測にもってこい。少し山間に入って生活光の届かない処で車を停めれば、肉眼でもはっきり見える天の川。宇宙飛行士  油井さん  の搭乗している宇宙ステーションもその軌道が肉眼で見えます。

 

 油井さんといえば、佐久の隣、南牧出身です。


 ついで宇宙つながり。JAXAの打ち上げた「ハヤブサ」を覚えていますか?通信不能になり行方不明になった「ハヤブサ」を諦める事無く追い続け、地球帰還に導いた影の立役者「日本最大パラボラ電波アンテナ」があります。(写真はまた今度)


 ちなみに写真は ちょうげんぽう だとおもいますけど。


  浩ちゃんの ”独断と偏見”

 28/8/2015


 いらっしゃいませ。玉屋の こーちゃん です。

 

 パソコンで遊び出してまだ間もない為、多々不愉快な点等御座いますが、平にご容赦願います。

 

 ホームページも初めて。ブログも初めて。何から何まで暗中模索で楽しく? 苦しんでいます。

 

 キーを叩くのも指一本で足りてますから、その更新ぶりも推して知るべし。目標は1日1本のアップです。

 

 前置きはさて置き。

 

 ぴんころ地蔵。

 

 正式名称は [長寿地蔵尊] とお腹に書いてあります。

 

 今では日本各地に、長寿祈願のお地蔵様がありますが、元祖本家本元この地で生まれました。

 

 歴史的にはまだまだ浅く、巣鴨の「とげ抜き地蔵」さん何かと比べられると…。

 

 でも、その柔和な笑顔が こーちゃん は好きです。