山道をウロウロと ほっつき歩いて(佐久の方言?)いたら喉が渇いて来ました。
そうだあそこに行けば水が湧き出てた。
でやって来たのが『釈迦堂橋』の袂です。

『和田宿・道の駅』傍の交差点から『美ヶ原高原』への道案内が出ているから走った事ある人も多い筈。途中までは走り易い、広めの片側一車線道路ですがその内………まぁ長野県の山道なんてみんなこんな感じですけど。
岩に彫られた『白い顔』が印象的で覚えていました。
何時もバイクで走る時は、非常食替わりの『ビスケット』を持って行きます。
『ぴんころ饅頭』をの製造過程で余った生地を焼いただけですけど、只捨てるのも勿体ないから、コンビニ等でおにぎりを調達できなかった時用にカバンに放り込んであります。
『固焼き』に仕上げ、脱酸素剤大目に密封していますので半年位は普通に食べられます。
イザって時の非常食用に大量にストックしてますので食べちゃわなきゃ。
で『湧き水』と『固焼きビスケット』で休憩。

『美ヶ原高原』でを水源とする川は意外と多く、『野々入川』が『追川』に合流し水量も豊富で綺麗な流れを愛でながら。まだ地鳴きのウグイスが初夏の訪れを感じさせます。


戦国時代の混乱期、信濃東北部を治めていた『村上氏』に連合して『佐久・大井氏』も挙兵します。同族の『武石・大井氏』らも加担しますが『甲斐武田軍』の圧勝に終わり、『和田城主 大井信定・信正親子』は破れます。
その後の『和田城』は『武田』配下に成り、家臣の『真田氏』が統治します。やがて『武田軍』の勢力が落ちると代頭して『真田氏』が頭角を現し『東信~群馬沼田』にかけての広範囲を勢力下に置きます。
元々『真田氏』は『武田家臣』で在り、報奨として信濃の領土を与えられた『豪族』(大名では無い)でした。それが『上田城』で『徳川家』と対峙したり、『織田軍』~『武田軍』~『上杉軍』と和平の相手を選びながら戦乱期を生き延び、更には『関ケ原の戦い』に於いて『東軍=徳川家』に『長男・信之』 VS 『西軍=石田家』に『父・昌幸、次男・信繁』が別れて闘い、どちらが勝っても『御家取り潰し』を逃れる作戦に出ました。
私、結構『城跡巡り』好きで色々な城跡を訪ねていますが、守りを固めた『山城』は急峻な坂を登らないと辿り着けない。戦国時代は重い甲冑を身に着けてこの山道を行き来したんだろうけど、今回は………止めとこ。(足が痙攣しそう)