『旧中仙道』は『依田川』と『大門川』の合流する『大和橋』で『大門街道』と別れます。
『大門街道』は『白樺湖』を抜け『茅野』へと続く道で、途中の『大門稲荷神社』境内には、高さ3メートルもある『土俵=高辻』が保存されており、江戸時代『相撲・虎の穴』みたいな秘密練習場が存在したとか。(雷電為衛門も彼の地で練習していた?)
今回は『和田宿』を目指しますので『青原』交差点から旧道へ入ります。
『是より和田宿』と彫られた石碑など並び、『和田宿』に入った事を示すも周囲に民家は無し。
街道を行くと『蚯蚓神社』や『三千僧接待の碑』『馬頭観音』など江戸時代に建てられた石碑・石仏などが多く情緒を感じます。(故・羽田孜氏墓所なども在りますが観光地では在りませんので今回割愛させて頂きます)

普通の民家前にこんな感じで石像や道祖神が祀られています。
左の石に刻まれた居るのは『和田・宿場祭り』の一コマでしょうか。
ふと見ると『地下横断道』の入り口らしき建物が見えました。

バイパスが完成する前はこの道が国道142号線本線で在り、大型トラックなどが猛スピードで駆け抜けたのでしょう。歩行者保護の観点からも地下横断道は必需だったのでしょうが、バイパス完成後の交通量は激滅し私が此の場所に居た10分程で通過車両はゼロ。(どころか『和田宿・旧中仙道』を端から端まで走って対向車は僅か数台)
折角バイクを降りたので『若宮八幡神社』へ。

参拝を済ませ、案内を読んでみると。

境内に『和田城主・大井信定親子』の墓が在りました。
佐久の『大井城主』は『清和源氏』の流れを汲み、『村上政清』に滅ぼされるまでは一大勢力を誇っていました。
一方『武石城』や『和田城』の城主の『大井氏』は『甲斐武田』の家臣だったと思ったのですが………『甲斐武田氏』に攻め込まれる。戦国時代はよくわからん。(私の解釈が違っているような)

闘いに敗れ、この地に埋葬されたそうです。余りカメラを向けるような場所でも在りませんので合掌しそそくさと離れます。