龍岡城 五稜郭 part2

 

 

 日本にふたつしかない『五稜郭』

 

  築城しようとした『松平乗謨・のりかた』氏、徳川御三家の家系に生まれ、江戸幕府に於いても『若年寄り』などの大役を務めます。ペリー艦隊来航後、激変する幕末の戦火を避ける為に幕府管轄地の『信州田野口』に移転します。(一説には東海道沿いを東奔西走する武力から『三河奥殿藩領民』を引っ越させる為とされています)

 

 西洋事情に精通し『フランス式軍隊』を幕府に取り入れ慶応2年には『陸軍総裁』を任命されます。戊辰戦争などで『幕府軍』が『軍服』を着用し、指揮下の元に『鉄砲』や『大砲』を発射したのも『松平乗謨』氏の指揮だそうです。

 

 しかし『幕府軍』は『維新軍』に押され、戦争を終結させるべく『15代=徳川慶喜将軍』は『大政奉還』を選び時代は『明治』になります。

 

 『徳川幕府』から『明治政府』に移行後も『新政府』に反発する『旧江戸幕府軍』『奥羽越』『蝦夷』らの『同盟軍』とのイザコザが続き、遂には『日本近代史上最大の内戦=戊辰戦争』が起き、最終決戦地『函館五稜郭』に置いて『政府軍』の勝利に終わります。

 

 晴れて日本の国府となった『明治政府』は其れ迄の超高額な借金を返済すると同時に諸外国に追いつけ追い越せとばかりに次々と荒療治とも思える政策を発令します。

 

 『地租改正』などの納税システムの見直しや、『富国強兵』に繋げる『徴兵制』導入。『官営事業』として『鉄道敷設』や『官営工場(富岡製糸工場など)』の建設。『義務教育』やら『日本国憲法』なども『明治初期』に制定されています。

 

 一般庶民に対しても『太陽暦』の徹底やら『断髪令』など他人事では在りませんでした。其れまでの『暦』は『太陰暦(旧暦)』で、不定期(2~3年)に一度『閏年(一年が13ヶ月になる=閏月があった)』で調整しましたが、外国との貿易に不便が生じる為これを禁止し『太陽暦』を導入しました。

 

 それでも『農業』『漁業』などには日本に土着した『暦』の利便性も必要な為、『カレンダー』等には『旧暦表示』も残されています。

 

 この時期に経済界で大活躍した人が『新一万円札』の人。『紙』は好きですけど『人物』は……

 

 『五稜郭』は『お堀石垣』を造っている最中『明治政府発令』の『廃城令』によりに築城できなくなりました。

 

 『江戸幕府要人』で在った『松平乗謨』は『廃藩置県・藩籍奉還』により『藩主(知事)』を返還、代わりに『伯爵号』を賜り『大給恒・おぎゅうゆずる』と名を改めます。

 

 後の『赤十字病院』の前身『日本博愛社』の設立に尽力し『子爵』の称号を与えられます。危篤の報が皇族に届くと『勲一等桐花大綬章』を授与されます。

 

 で『お堀』に戻ります。(ついて来れる?)

 

 

 後ろの建物は『旧田口小学校校舎』です。『お堀の水』は此処まで在りましたが、その先は埋められて『空堀り』でした。確か生徒が立ち入りできない様に『板』が嵌められていなかった?

 

 石垣の色の違う所までしか水が無かったのも万が一の時、生徒の安全を考えての事でしょうか。

 

 

 この旧小学校の校舎も壊され観光開発がされようとしています。

 

 小学校が在ったからこそ、昔のまま維持できたのかも知れません。

 

 願わくば『商業的観光開発』されません様に。