熊野那智大社

 

 紀伊勝浦で泊った宿のすぐ前は『勝浦漁業協同組合・競り市場』が在り、朝3時頃には漁船が帰航し、クレーンによる荷上げ(荷下ろしかな?)が行われていました。

 

 舟やクレーン車のディーゼルエンジンの響く音にとても寝てられたもんじゃ在りません。(だから部屋のアメニティに耳栓があったのか)

 

 『夜討ち朝駆け』は私の旅行の常套手段ですから、3時起きでも全然平気。

 

 近くのコンビニで『ホットコーヒー』を買っていると『漁業関係者』らしき方(だって皆さん長靴)が三々五々集まってきます。

 

 『クレーンフック』が船倉の底まで降りていくと、暫くして数匹の『生マグロ』が尻尾を吊るされた状態で競りの場所に降ろされ、『手鉤』がを持った『若い衆』が『種類・大きさ』別に並べて行きます。

 

 一通り大まかな分類が済むと『移動式台貫秤』で一匹ずつ(小型のマグロは数匹まとめて)重さを測り紙に記入して貼り付けて行きます。

 

 それはもう見ていて鮮やかな流れです。

 

 『大卸し』らしき業者は『競り』の前に『目ぼしいマグロ』を確保しているみたい。

 

 一時間ほど見ていましたけど全然飽きません。皆さんも一度見学すると良いかも。

 

 荷物をまとめ『アーリーチェックアウト』で『ルームキー』を戻し、向かうは海岸線です。カーナビの地図から車で行けそうな『お蛇浦海岸』で待つこと数分。

 

 見事な日の出を拝めました。こんな綺麗な海岸が『蛇』とは何でだろう?

 

 その後一路『熊野那智大社』へ。

 

 早朝だったので、駐車場すら開業していない状態。何とか車を停められましたけど。

 

 表参道口から石段を登り始めます。

 

 『熊野三山』の最後のひとつ『熊野那智大社』

 

 長い石段の左右には土産物店などが建ち並びます。息が上がる頃『二の鳥居』の到着。ふと横を見ると『山門』(青岸渡寺)へと続く石段が別れています。

 

 神社ですので『二礼二拍手』の参拝儀式を終え、領布所前に立つ『胎内くぐりの樹』を潜ります。

 

 この時『護摩木』の参拝に願いを書いて大木の『ウロ』を潜り抜けるのですが、危うく『腹』がつっかえて………。まぁ無事潜り抜け『戦争終結』がの『護摩木』を納める事が出来ました。

 

 石段を下る事無く隣の『青岸渡寺』へ繋がっている参道を行くと、やはり『神社』の『陽』と対照的な『寺院』の『陰』を感じます。

 

 こんなに空気感が変わるものなのか。

 

 『神社』の特徴は『鳥居』『手水舎』『狛犬』『拝殿』『賽銭箱』『鈴緒』『大祓い』『御供え』『本殿』など。

 

 『お寺』の特徴は『山門』『仁王門』『六地蔵』『手水舎』『狛犬』『本堂』『鰐口』『賽銭箱』『御本尊』『脇観音』『仏像』『多重塔』など。

 

 『飛鳥時代(六世紀中頃)』、『神道』の国、日本に『仏教』が伝来します。

 

 時の権力者『天皇』は『遣唐使船』を中国へ派遣し『正しい仏教』を取り入れようとします。(神社が仏教を認めた)その後『疫病』などの収束を祈願し各地に『国分寺』の建設が勧められます。

 

 『開祖者』の解釈の違いから『様々な仏教(概ね14宗)』が生れ更に一般庶民に『仏教』が浸透していきます。

 

 生活の中で当たり前のように『神仏習合』が繰り返され『神社』の敷地に『寺院』が建てられたり、『寺院』の境内に『神様』(稲荷神など)が祀られたりします。

 

 『全ての神は仏の化身』という『本地垂迹・ほんちすいじゃく』という考え方まで広がります。

 

 明治政府は混沌とした『神社』と『寺院』の結びつきを禁じる為『神仏分離令』を発令します。

 

 ホント『明治政府』は『西洋文化』を取り入れるばかりでなく、『廃城例』『廃藩置県』『太陽暦』『廃仏令』など荒っぽい政策がお好きだったみたい。

 

 『太陽暦導入』により『明治五年12月3日』をいきなり『明治六年1月1日』と切り替えちゃったんですから。

 

 現行では『天皇陛下崩御』により『元号改革』しても『日にち・曜日』は受け継がれますから。

 

 『神道』と『仏教』、『陽』と『陰』を考えるのに持って来いの場所でした。