幕末の志士

 

 境内の一角にズラリと銅像が並んでいます。

 

 実は以前、新聞の記事で観たんですけどやっぱり写真じゃ伝わりずらかったのか、余り興味湧かなかったのですが………

 

 

 ありゃりゃ。ホワイトバランス失敗。

 

 

 『佐久間象山先生』を始め『松代藩八代藩主・真田幸貫公』、幕末の志士『坂本龍馬』『勝海舟』『吉田松陰』等々。

 

 

 1853年、ペリー率いる軍艦4隻が浦賀沖に停泊します。

 

 それまで『江戸徳川幕府』に統治され、安穏とした江戸時代に突如として暗雲が立ち込めます。

 

 当時の日本は『天皇』を主とした国造りをていしょうする『勤王派』と『幕府・将軍』をトップに行政を取り仕切ろうとする『佐幕派』に分かれていました。(現在の『皇族』と『内閣』の関係とはニュアンスが違います)

 

 更に江戸幕府の政策『鎖国論』と世界情勢を鑑みた『開国論』に分かれます。

 

 当時の『藩制』では『藩主=殿様』の考えは絶対であり(絶対君主)、『城』に使える者は全て従わざるを得ません。そこで『藩主』にと考えが異なる場合『脱藩』し『浪人』になるしか在りませんでした。

 

 『土佐藩』は関ケ原で『東軍』に加担して以降『山内一豊』の子孫が代々『藩主』にを継いできました(佐幕)。故に『坂本龍馬』を始め『開国論』を主張する者は『脱藩』するしか在りませんでした。

 

 『徳川御三家』である『水戸藩』からも『開国論』を持つ者が現れ、『天狗党』を名乗って脱藩し、『天皇家』に直訴を企て京都へ向かいますが、行く先々で『幕府』の命を受けた『藩軍』と武力衝突します。

 

 『佐久間象山』も江戸に於いて『象山塾』を開いていましたが、江戸幕府より蟄居を命じられ、生まれ故郷の『松代』の地に『高義亭』を建て、『幕末の志士』らと喧々諤々の議論をしました。(流石に幕府軍の『勝海舟』は此の地には来れなかったんじゃない?※個人的感想です)

 

 『江戸城』を無血開城に導いたとされた『勝海舟』ですが、そもそも時の将軍『15代徳川慶喜』は『京都・二条城』に在住していたから『江戸城』になんてどうでも良かった?

 

 『天皇』は『京都御所』に住み、『徳川慶喜』は『二条城』というニアミス。これじゃ京都の町はきな臭くなるって。

 

 何とか情勢を立て直そうとして『公武合体論』が提唱され『天皇家・和宮妃』を『徳川14代家茂』の元へ嫁がせる『政略結婚』も行われましたが、無く末の情勢悪化は加速していきます。

 

 『坂本竜馬』らの働きにより『薩長同盟』が結ばれ、情勢は一気に『倒幕・開国論』に傾きます。

 

 『徳川慶喜』は戦乱を逃れる為『大阪城!』に移ります。其の時『二条城』を警護していたのが『会津藩(佐幕)』と『壬生浪士・新選組(傭兵)』です。

 

 佐幕勢力の中心とみなされた『会津藩』は『戊辰戦争』に於いて『新政府軍』の標的とされ『白虎隊』などの数々の悲劇を生みだします。

 

 授業では『明治維新』という言葉でしか習いませんでしたが、江戸時代末期~明治初期の激動の時代。その歴史の一端がこの『松代神社』の片隅に存在していました。

 

 ※個人的解釈であり、誤りが在っても責任持てません………悪しからず。

 

 

 その他境内には『象山宅跡』や『茶室・煙雨亭』なども在りますが、『高義亭』の写真撮り損ねちゃいました。だって只の民家と思ったもん。