『松代(まつしろ)駅』は長野電鉄松代線の廃線に伴い現在は存続していません。
『松代(まつだい)駅』が『新潟県・北陸急行ほくほく線』はに存在しますが読み方が違います。
鉄道法(鉄道事業法)により『駅名』は二つとして同じ名前を付ける事が出来ないからです。
だから運行会社の路線名を着けたり、『東・南・西・東』とか『元・本・新』などの接頭語を着けて区分します。
『佐久市』に新幹線停車駅が出来たのに『佐久駅』と名乗れなかったのは『北海道・宗谷本線』に『佐久駅』が在ったから。まぁ『宗谷本線』は廃線に成らないだろうから………
仕方なく『佐久平駅』になりました。それが今から25年前の話。
1981年8月。須坂市で『鉄砲水』などの『土石流災害』などを引き起こした台風18号は、死者10名を出し床上浸水などの多大な損害を与えました。
『災害ボランティア』などの言葉も無かった頃ですが、取り敢えず車で須坂の親戚宅へ、食料や水(当時はペットボトル入りのミネラルウォーターなんぞ無かったから灯油用のポリタンクに水道水を入れて運んだ)を運ぼうとしました。
佐久から向かうと『国道406号線・菅平経由』で『須坂市仁礼』へ入れるのですが国道は土砂崩れで通行止め。渋滞の中を国道18号線で『屋代』、国道403号線で『松代』経由『須坂』に着いた時にはかなりの時間を要しました。
『水』に関して『須坂』は湧き水の豊富な処で別段飲料水には困らず、持って行ったポリタンクの水はそのまま掃除用に使ったと記憶しています。
一度床上浸水した住宅の復旧は、先ず家財道具一切の運び出しから始まります。
タンスやテレビなどを運び出す場所を確保し、使える物(直してでも使いたい物)と捨てる物に分けますが、当事者にとっては思い入れが強く、選別するのにも大変な時間を要します。第三者の「これはもう捨てなきゃ」の言葉でようやく決心が付くみたい。
その後『畳』や『床板』を全部剥がし、床下に入り込んだ『泥水・土砂』をスコップとバケツで全部描きだします。此れで大きな家だと2.3日掛かるみたい。その後完全に乾燥させてから畳を入れ直すまで、(畳屋さんにコネでも無いと)1ヶ月じゃ足りない位です。
この頃、私はまだ学生で、新学期の都合もあったので1週間ほどしか手伝えませんでしたが。親類縁者が近くに居ればまだ手を借りられますが、高齢者の身内だけでの復旧なんて絶対無理! 昨今の『災害復旧ボランティア』の如何に有難い事かが身に染みて解ります。その後『東北大震災』の時もトラックで救援物資を運んだりしました。
正直な処、『松代駅』で降りた事は無かったので駅前の様子は解りませんでした。
今回初めて訪ねてみると………
駅前のバスロータリーが広すぎる様に感じるのは私だけ?
『駅ホーム』から鉄道跡を見下ろすと、隣接する『海津城』の駐車場になっていました。
『駅事務室』らしき窓口が残されています。
そして正面に在ったのは
童謡『汽車ポッポ』の碑。どうやら作曲家の方が『松代』出身の様です。
でも歌詞が大分違うような………
駅舎の片隅には『手動信号切り替え装置』らしき物が無造作に転がっています。
欲しい人からすればお宝? 欲しい人が居ればですが………