『川中島』は今でこそ地名に成っていますけど、護岸工事が完成する前の千曲川中流域では、大水の度に氾濫し、農作物を造る事が出来ない地帯でした。
戦国時代『足軽』として戦った兵士はほとんどが『農民』でした。
『田植え』や『稲刈り』の時期には国元へ戻り自分の田畑の農作物の収穫をしなければなりません。
と同時に『農民』『の苦労を知っている『足軽』は、例え他人の『田畑』といえども踏み荒らす事は偲ばれたのでしょう。
その『武将』である『武田信玄』も『上杉謙信』も『農民=足軽』の苦労を知っての事か、敢えて不毛の地で在った『千曲川』と『犀川』の合流が造った『中州=川中島』を決戦の地に選んだのかも知れません。
今でこそ『住宅地』が広がり『田畑』や『果樹園』が広がっていますが、それも堤防工事が完成しての事です。

『川中島古戦場』の駐車場に車を停め、先ずは有名な『一騎打ちの地』へ。
其処には『八幡社』建っています。
『八幡様』=『十五代天皇・応神天皇』と云われ、武功に長けていた事から『戦神』とされ、多くの武将の信仰を仰ぎました。
でも川中島の場合はどっちの願いを聞くのだろう?

『甲斐の龍=武田信玄』と『越後の寅=上杉謙信』の全面対決は戦史に於いて都合五回も対峙しています。
『武田信玄』の本陣深く馬で切り込む『上杉謙信』
『武田信玄』は刀を抜く暇もなく床几に座したまま『軍配』で『上杉謙信』の大刀を受け止めたとされています。
この時受けた太刀筋が『三大刀七大刀』として軍配に残っています。(多分上越市で観たのはレプリカ)
『甲府駅前』には『武田信玄像』が在り、『上越・春日山』には『上杉謙信像』が建っていますが、両雄が揃っているのは此処『川中島古戦場』だけ。(個人的感想です。他にも在るのかな?)
結局『大将』が討ち捕れる事無く秋の収穫の時期になった為、両軍とも引き上げてしまいます。
この『第四次決戦=川中島の合戦』が、古今東西の戦史に於いて一番高い死亡率を記録したそうです(個人的感想です。これも記憶違いかも)

戦国時代の『長野県=信州』には強大な武力を持った『武将=戦国大名』は存在しませんでした。
※鎌倉幕府後の北条氏も元は関東出身です。
※戦国時代の『木曽義仲』も旧姓は『源義仲』で『武蔵国』出身です。
東信地方を納めていた『真田昌幸』も地方の『豪族』に過ぎず、その父『真田幸隆』は『武田家』の家臣です。
諏訪地方=諏訪頼重(よりしげ)・高遠地方=高遠頼継(よりつぐ)・松本地方=小笠原長時(ながとき)・長野地方=村上義清(よしきよ)などもいましたが、武田信玄に侵略されてしまいます。
佐久地方にも中小様々な『豪族』が居ましたが『武田軍』に全て滅ぼされてしまうか降伏して配下となります。
故に信州人は『上杉謙信』贔屓が多い?(あくまで個人的感想です)


入口の説明には『八幡様』を信仰したのは此の地に『陣』を張った『武田信玄』との事です。
「八幡様。ウクライナにお力添えをお願いします」