神川合戦

 

 『菅平・大松山』の西方に端を発し、『千古の滝』を下り落ちる『神川』

 

 早い話が『菅平』~『東御』一帯の河川が流れ込みます。

 

 今は治水が完治し、コンクリート護岸のお陰で氾濫する事は在りませんけど、昔はかなりの『暴れ川』だったそうです。

 

 戦国時代の土木技術では、一度大水が出ると『橋』の流失は当たり前。

 

 どころか戦略的にも橋を落として敵の進入路を断つ仕組みでした。

 

 国道18号線を走っていると『神川橋』はあっという間に渡ってしまいます。

 

 

 実はこの辺りは『真田軍』VS『徳川軍』の『神川合戦』の舞台です。

 

 戦国時代末期『徳川家康』がほぼ勢力を手中にし、江戸幕府を開く少し前、交通の要所に建つ『上州・沼田城』の明け渡しを『真田昌幸』に要求します。しかし『昌幸』は断固拒否。徳川軍は7000の騎馬で『真田討伐』に挑みますが『真田軍』は僅か200の騎馬と1500の雑兵で『上田城』にて待ち構えます。町全体が要塞化し、待ち伏せ等の攻撃を受けた徳川軍は一時『小諸城』への退却を試みますが『神川』の増水により退路を断たれ、『武田軍』は大混乱。2000人からの戦死者を出し敗走します。これが『第一次上田決戦』

 

 『第二次上田決戦(神川決戦)』と云われるのは、『中山道』経由で『関ケ原の戦い』に赴くついでに『真田討伐』を目論み『上田城』に攻め入ろうとした『徳川秀忠(二代将軍)』の軍勢38000を、『神川右岸』に陣を張り待ち伏せ、持久戦に持ち込んだ挙句三ヶ月近くも足止め。『関ケ原の戦い』に遅参させました。『秀忠』は『家康』から大目玉を食ったと云う逸話が残されています。

 

 

 現在の感覚では、車で整備された舗装路を移動すれば『小諸・八重原』~『上田城』迄一時間弱です。

 

 当時の足軽は重い装備を身に着け、草鞋で泥道を歩きます。空腹でも許可なく食事も出来ず、疲れたからといって勝手に休む事も出来ません。

 

 へとへとに疲れた体で戦です。そりゃ休みながらじゃ無きゃ無理だって。

 

 

 土手には遊歩道が整備され、桜の下をジョギングしている人を見掛けます。

 

 3月のこの日、遠くに雪の残る『菅平・峰の原』と芽吹く前の桜の下を歩いてみました。

 

 戦で散った多くの犠牲者のご冥福を祈りながら。