謙信の観た景色

 

 『妻女山展望台』から善光寺平が見渡せます。

 

 

 遠く『北アルプス』の白壁や『黒姫山』などの北信五岳も、穏やかな初冬(この章は2020/12の事です)の陽射しの中に望めます。

 

 

 『謙信』になったつもりで『武田軍』の『海津城』を視てみますと。

 

 左側の高い建物は『松代〇イヤルホテル』です。

 

 『海津城』はチョット分かりづらいかな。

 

 『太平洋側』を『北条氏』『徳川氏』に抑えられ、活路を『日本海側』に向けた『武田信玄』、信濃の国を合戦の場に『川中島の戦い』は都合五回も起きました。その中でも有名なのが『第四次合戦』です。

 

 詩吟に謳われた『鞭声 粛々 夜 河を渡る~~』もこの『第四次合戦』を吟じています。

 

 現在、合戦場跡地は『川中島公園』となり、大型観光バスも立ち寄る観光名所になっています。

 

 なんで五回も戦ったのか? 決着がつかなかったからです。

 

 当時の一番下っ端の戦力は『足軽』で、普段百姓をしたりしていますが、『いざ合戦』の声が上がると徴兵されたり、傭兵としてお金で雇われたりします。

 

 そこで『手柄』を立てたりすると『褒美』が貰えたりしますが、一番死亡率の高かったのもこの『半農半兵』の『足軽』です。

 

 古今東西の合戦において一番死亡率の高かったのが『第四次川中島合戦』と云われています。

 

 何故決着が着くまで戦わなかったのか?

 

 『半農』故に『田畑』の作物には収穫期が在ります。

 

 年貢としても『米』などを納めなければならず、又『領主』にしても減収に繋がるような事は避けたい筈です。

 

 故に『収穫期』には領土に戻らねばならず、闘い途中でも撤収しました。

 

 『甲陽軍鑑』によりますと、1561年8月中旬『信玄討伐』を決意し『春日城』から出兵した『上杉軍』 武田軍は送り込んでいた諜報者(スパイ)によりいち早く動きを察知、『狼煙台』の情報リレーや『信玄棒道』により8月下旬には『海津城』に入城しています。

 

 現在は高速道路をトラックで移動すれば『甲府』~『松代』二時間半で到達出来ます。

 

 戦国時代の『足軽』は歩きが基本です。

 

 『騎馬隊』だけが早駆けで入城しても決戦にはなりません。

 

 武器・弾薬以外にも食料なども運ばなければなりませんので、行軍距離は一日30km位がせいぜいじゃ無いでしょうか。

 

 しかも雨が降ればぬかるんだ道や氾濫する川を渡るんですから容易なわけ在りません。

 

 『信玄棒道』は『甲府』~『須玉』を抜け、『奥蓼科』までの山中にその跡が覗えます。

 

 『中仙道』から『小諸』、東山道経由『真田領』へと東信地区を北上します。

 

 『妻女山』に陣を張った『上杉軍』を見て『茶臼山』から『海津城』に入城した『武田軍』いよいよ合戦秒読み段階。

 

 と。良い処で時間です。次回に続く。