秩父事件

 

 『掛樋・棚橋』の痕跡を探していた処、聳える『天狗岩』の線路脇に一本の白杭が立っていました。

 

 興味なければ絶対素通りしてしまうでしょう。

 

 

 『秩父事件』 実は高校時代の恩師が小海町に在住していた時、此の『秩父事件』を詳しく調べ、映像化して発表してくれました。

 

 『秩父事件』詳しくはgoogleに譲りますけど。(ヤフーでも可)

 

 『威張ろうや 得意に 風呂 焼く 元年』 換算して 『1868 1912 26 89 明治・大正・昭和・平成 元年』

 

 『大政奉還』から『明治政府』誕生が1868年。

 

 『秩父事件』が1884年。

 

 秩父事件 明治政府の行った急速な行政改革は『デフレ』『増税』を引き起こし、国民の生活は困窮。農業の大凶作と、更には生糸の主要消費国だったヨーロッパ各地は大不況となり疲弊、特に養蚕を主要産業としていた秩父地方の農民は壊滅的な経済状況となる。それでも税金の取り立ては続き、多くの農家は高利貸しから借金をするしかなかった。借金の方に土地を取り上げられたり、身を売る女性も多発。『板垣退助』の設立した政党『自由党』は解散していたが『元自由党員』らによって秩父地方の惨状を政府に訴え続けたが改善される事は無かった。一方『死を待つよりは武力隆起』を叫んだ『困民党』を名乗る群衆は『元自由党員』らと共に決起、生きる為『暴徒化』し『高利貸し』や『土地の利権者』を襲撃する。警察・軍隊に追われるように秩父山脈~相木村~小海町へと逃れてきた『困民党』は交通の難所『高岩付近』で待ち伏せされていた軍隊に鎮圧されてしまう。名前の判明している『困民党』側死亡者は13名。名前の判明した者わずかに6名。(これは身元が解らない様にしていた為)更には流れ弾によって地元民女性が死亡してしまう。この地に埋葬された『秩父事件戦没者の墓』には『暴徒』の文字を刻むことを条件に墓碑の建設を許可された。以上が『秩父事件』終焉までのあらましです。

(多分、聞いた事も無い人の方が多いのではないでしょうか)

 

 

 以前、『秩父』から国道299号線を西走した事がありますが、走れど走れど山の中。それでもたま~に対向車や小規模集落にでくわし安堵した覚えが在ります。

 

 警察や軍隊に追われながら暗い山の中を逃げ回る。それも『生きる為に』

 

 同じく山中を逃げ廻り『浅間山荘事件』を引き起こした『連合赤軍』と比べるまでも在りません。

 

 

 貴方がたの戦いは決して無駄ではありませんでした。 合掌。