五郎兵衛用水

 

 バイクで『望月町』から『鹿曲川』沿いを遡上しているのは『五郎兵衛用水取水口』を見たいからです。

 

 なぜ『群馬県人・市川五郎兵衛』が『旧浅科村の扇状台地』に用水を引こうとしたのか? (正確な答えはウィキペディア参照)

 

 実に『市川五郎兵衛』と云う人、幕府からの許可の上とはしながら『湯川』から用水を引いた『三河田新田』と『市村新田』を造り上げ、更に『鹿曲川』から水を引いて『五郎兵衛新田』を造りました。

 

 広大な佐久平には『千曲川』という水量豊かな川が流れていますが、侵食作用を繰り返し、農地より一段低い所に在りました。

 

 従って当時『水耕栽培』の出来たエリアは限られていました。

 

 千曲川の水を遥か上流で取水し、平地を流して『佐久市大沢~岸野』エリアの『農業用水』としているのが『片貝用水』です。

 

 

 江戸時代、お金としての価値を持つ『お米の収穫高』を主たる財成源としていた『大名』を始めとする『領主』『藩主』は、自分の土地でいかに多くのお米を作らせるかに心血を注いでいました。

 

 ややこしい事には『佐久平』には『幕府管轄御用地』と云う物も存在していた事。

 

 用水を造り、自分の土地を潤した後も水の流れは止められません。

 

 下流の『他藩』の土地にも流れていきます。

 

 場合によっては敵対する領主に水を利用される可能性も出てくるのですから。

 

 

 『市川五郎兵衛』は江戸幕府の要請を受け、各地の開墾の為用水を完成させたみたいです。

 

 で『五郎兵衛用水』

 

 

 『鹿曲川』と『細小路川』の落合下の『用水取水口』から『堀貫=トンネル』を駆使し『鹿曲川』と『布施川』の間にある山間部を越え、複雑に進路を変えながら『真親神社』下で分水し南は『相浜~伴野』へ。北に向かって広大な『五郎兵衛新田』を潤すだけの用水確保に成功しました。

 

 『布施川』の水を引けば簡単じゃん? と思うのですが………。

 

 布施川右岸には丘陵地帯が在る事と、『我田引水』の言葉があるように、水が在れば自分の田んぼ引き込みたいのは人情。その為『盗水』などが在り、かなりの諍いが在ったのも事実だそうです。

 

 戦後の平和な世の中に生まれ、佐久平一面に田圃が在るのが当たり前の中で育っち、浅科の『五郎兵衛米』は美味しいなぁ。位にしか思ってませんでした。

 

 『五郎兵衛用水』の意味と苦労を考えた時、先人の凄さに改めて感服しました。

 

 今度、ゆっくり『五郎兵衛資料館』でも訪れますか。(でも館長の話がチョット長かったりして)